安斎利洋の日記
2006年10月22日
22:10
裸体
その人の人生の軌道がずれていくような、そういう体験を仕掛けることが、芸術家の望みでもあり使命でもあると思う。フォマール(幸村真佐男)さんが中京大学情報理工学部メディア工学科の1年生に仕掛ける体験は、圧倒的だ。
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自分で作った筆や指で描かれる裸体は、絵を描くということ、そのこと自体を裸体にする。
コメント
2006年10月22日
22:31
H.耕馬
こういうネタには、釣られないと。。。
2006年10月22日
22:39
安斎利洋
耕馬さん、フォマールさんに入門したほうがいいかも。軌道が変わるよ。
2006年10月22日
22:42
中村理恵子
筆先そのもの、指先そのものが自分であり、それで描かれるモデルのフォルムや肌の感触を追求するうちに、そのモデルさん自身でもあるかのようなリンクが生まれるよね。
凧をあげるのは、天の底を触りにゆくことだし、独楽をまわすことで地の底を触ることができるという文化人類学者の話と響くような話だね。
ひとは、なんとかその経験の触手を超リアルにすべてに這わせたいんだとおもう。
そのための脳みそ、体、道具。
2006年10月22日
22:44
安斎利洋
>凧をあげるのは、天の底を触りにゆくこと
凧はプローブか。
コツンと底にあたるんだろうか。
2006年10月22日
22:55
H.耕馬
軌道が変わると、耕馬で無くなっちゃう(@_@)
2006年10月22日
23:49
あ っ こ
お鮨は手で食べるときと
お箸で食べるときと味が違うのね〜
体は・・・・見るのと、描くのと、触るのと、共振する波長がちがうのね〜
世界中なにみてもおっぱいにみえるとき・・・・あぁ あたしだけかぁ
2006年10月23日
12:57
安斎利洋
>なにみてもおっぱいにみえるとき
それは、生存のために乳首だけを捜していた頃の記憶でしょう。僕もその記憶だけは、きわめて強く残ってます。
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