安斎利洋の日記
2006年10月08日
03:45
縛られると燃える色ごと
(承前)
絵の具は、制約のシステムだ。絶対に出せない色がある。その制約が、逆にさまざまな可能性を生み出す。
一昨年、日本と海外の小学生を繋いだカンブリアンセッションには、アナログ画材で描いた絵とパソコンで描いた絵が混在した。比べてみると(下の写真)、制約があることが、いかに色彩の組織化を焚きつけ、自動的な調和を生み出しているかがわかる。
逆に、なめらかで広大なデジタルの色空間を提出されると、茫洋たる海原に投げ出されたように何をしていいのかわからなくなる。とりあえず、一番強い色を並べてみることになる。
CMYの三原色ですべての色が出せる、というアクリル絵の具がある。これを使って同じ小学生に絵を描かせたら、どうなるだろう。実験してみたい。
↑アナログ
↑デジタル
↑アナログ
↑デジタル
↑アナログ
↑デジタル
↑アナログ
↑デジタル
ターナーの三原色カラー
http://
www.tu
rner.c
o.jp/j
apanes
e/art/
3colou
r/inde
x.html
CMYの組み合わせで、ほとんどの色が混色で作れる。
コメント
2006年10月08日
04:10
Fibonacci
色恋沙汰には比較的、晩生の理工系の学生に、ほぼイキナリ、モデル2人を呼んで、ヌードデッサンを課していますが、概して、指やら自分で作った筆で描くほうが、クレヨンや鉛筆で描くより、ずーと面白い、勢いのある表現になります。
制約のあるtoolの方が思いがけない効果を生み出すようです。
2006年10月08日
04:40
びすけっと
なぜ制約があるとよいのか.
あてずっぽうですが,
脳は道具を使いこなす部分と,創造性の部分に分かれる.
人間は道具を使いこなすのが得意.
難しい道具を使うと,創造性の部分もそれにつられて
活性化する.
ただし,今のプログラミングのような難しさは創造性を
活性化しないような気がします.道具の難しさにも
創造性の活性化につながるのとつながらないのがあるとか.
2006年10月08日
06:01
Hiro
安斎さんと、びすけっとさんが、同じ日の同じくらいの時刻
に似たようなことをしてられるというのは面白かったです。
創造性と制約に関しては、僕もいつも同じように思っていま
した。無制約にされると何もできなくなる人が多いですね。
僕自身も自分のことを振り返ると、そうです。
そういや、パロディだと滅茶苦茶面白い、想像もつかないよ
うなものを創ることができるのに、何もないところからのオ
リジナルとなるとできない人も結構いますよね。
芸術的なものだけではなくて、工学的な研究テーマと、その
成果についてもそういうことが言えるのが、また興味深いと
ころです。
「とりあえず、一番強い色を並べてみることになる」を研究
の世界に当て嵌めると何になるのかなぁと考えてみたくなり
ました。(^_^)
2006年10月08日
06:09
Hiro
僕の大胆な仮説を一つ書いてみます。
創造性というのは、多くの組み合せの中から、なんらかの
評価基準で優れているものを選び出すことであると言える。
なぜなら、脳ができるプロセスは、それしかないから。
こう考えると、制約が何もなくて、組み合せの爆発が起き
ているときには、探索空間が広過ぎて、短時間では、その
「優れているもの」を何も見つけることができないので、
創造的活動が出来ないように見えると言えるのではないで
しょうか?
組み合せというのは、掛け算というか、指数関数的なもの
ですから、制約が相当強くても、探索空間は結構広いのだ
と思います。だから、その中から、まだ誰も見つけ出して
いなかったものが、割と簡単にみつかる。
なんらかの評価基準で選んでいる以上、一ついいものが見
つかったら、その近くを探ると、いいものが続けて見つか
る可能性が高いのかも知れません。
2006年10月08日
09:39
木村健一
こ、これは。
2006年10月08日
10:59
かずし
面白いですね。
2006年10月08日
11:39
チクリン
安斎さんの問題提起とはちょっとずれるかもしれませんが、子供たちが直面した制約というのは、色空間の大きさの制約ではなく、インターフェース上の制約じゃないのですかねえ。
想像するに、デジタルのペイントソフトではパレットに数十色の色が見えていて、中間色を作るのも容易です。逆にアナログでは、多くても十色+αしか見えておらず、物理的に混ぜないと新しい色が作れません。
だから何が言いたいかというと、CMYの絵の具でも「自動的な調和」が出てくるのではないかという予測です。
2006年10月08日
12:10
チクリン
制約と創造性に関しては、びすけっとさんのおっしゃるケースとHiroさんのおっしゃるケースがあるのではないかと思います。
加えて今回の場合、絵の具が「自動的な調和」をアフォードしている部分もある気がします。自然の色彩の分布と、絵の具を混ぜ合わせることによって(クレヨンを重ねることによって)得られる分布がもともと似ているからだろうからです。
2006年10月08日
15:16
安斎利洋
>モデル2人を呼んで、ヌードデッサンを課していますが、
それは一種のバンジージャンプですね。
2006年10月08日
15:17
安斎利洋
>安斎さんと、びすけっとさんが、同じ日の同じくらいの時刻
>に似たようなことをしてられるというのは面白かったです。
びすけっとさんの絵の具遊びに刺激されて書いているんで、必然なんです。
>創造性というのは、多くの組み合せの中から、なんらかの
>評価基準で優れているものを選び出すことであると言える。
>なぜなら、脳ができるプロセスは、それしかないから。
これについては、半分同感です。見ることと描くこと、読むことと書くことが同じプロセスであるというのは、僕らのやった星座作用でも明らかですし、岡ノ谷さんの鳥の歌の研究にもそういう裏づけがあったと思いました。
残り半分は疑問で、ではなぜ選択だけで新規なものが生まれてくるのか、ということです。これは非常に重要な問題だと思う。僕は、前の日記に書いた「変換」がヒントになるような気がしています。
2006年10月08日
15:24
安斎利洋
>絵の具が「自動的な調和」をアフォードしている
そういうことになりますね。それは、バーミリオンにはバーミリオンのアフォーダンスがある、というような個々の絵の具の物性によるものと、パレットという混色装置のアフォーダンスに分けて考えられるかもしれません。前者の作用を考えると、僕はCMYの絵の具で調和を作るのは、非常に難しいのではないか、と思うんです。
2006年10月08日
18:29
WAKU
ここを読んでいて、人の2足歩行の発生メカニズムを思い出しました。
動物(少なくとも哺乳類)には原始的な歩行運動をおこす反射行動があって、赤ん坊も初めはこうした歩くマネをしている。
つぎに4つ足で体を支えるようになる。(制約)
つぎがハイハイ。
つぎに立ち上がるようになって、(制約)
次がヨチヨチ歩き。
歩行が安定しだしたら、つぎに走り回りだす。
初めは刺激に単純に反応していたのが、自ら一度制約することを選び、再度活動を始めたときに結果としてスキルを習得する、そして次の刺激を探す。その繰り返しですね。
それと同列に考えれば、道具による制約というのは立ち上がるのを補助する壁や手すりみたいな物で、スキルを習得すれば要らなくなる物。だけど生物に新しい可能性を気付かせるキッカケになる、そんな気がします。
「3原色カラー」は「発色の自由」と「システムとしての制約」の両方を持っていて、道具なんだけど、むしろ手足に近い変り種ですよね。子供がどう扱うかに興味がわきます。
個人的には印刷物のデザインをするためにCMYカラーを扱うようになった頃、まず好きな色を作るという制約から始まって...やっぱり、刺激→制約→習熟を繰返してたような気が....。よく憶えてないけど。
2006年10月09日
00:10
安斎利洋
WAKUさんのメタファーに従うなら、人間にとって体は、ひとつのガイドでもあるということになります。人間は、身体の制約の中で、身体にガイドされて育つということになる。
2006年10月10日
09:06
Hiro
> 残り半分は疑問で、ではなぜ選択だけで新規なものが
> 生まれてくるのか、ということです。これは非常に重
> 要な問題だと思う。
僕も同感です。
あの大胆な仮説(笑)は、「優れているものを選び出す」
そのプロセスそのものについては、何も説明できていま
せんから。
脳の知的活動とか創造的活動とか、中はいったい何がど
うなっているのか、もっと知りたいです。
2006年10月11日
01:23
小林千早都
”縛られると燃える色ごと”というタイトルにひかれてやってきました・・・結構まじめな(?!)色のお話だったのですね^^;
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