安斎利洋の日記全体に公開

2004年10月12日
23:15
 誤訳は創造
怪しいアート・エージェントの話のなかから飛び出した岩波書店の一件には、いろいろ考えさせられた。

http://park.zero.ad.jp/yuyujp/elk/elk.htm

Yummyさんは、岩波少年文庫に収められたアメリカの児童文学作家 E.L. カニグズバーグの作品を読み、あまりに品質の低い翻訳に愕然とする。じっくりと原文と訳文の読み比べを行い、原作者にも手紙を出し、岩波の編集部にも接触して、翻訳本の改訂が実現する。その経過が、詳細に記されている。

劣悪な翻訳を子供が読むかと思うと、確かにつらいものがある。改訂を余儀なくされるような翻訳が、編集者の目を素通りして本になってしまったのも驚きだし、本になったあとどの専門家も問題にしなかったのも驚きだ。しかし一方で、この話を単純に考えるのも、どうかと思うのだ。

ハムレットの名せりふを、「あります、ありません、あれは何ですか」と訳すのは誤訳だが、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」も誤訳だし、「このままでいいのか、いけないのか」も誤訳だ。正しい翻訳など、どこにもない。あるのは、創造的な誤訳と、創造的でない誤訳の二種類だけだ。創造はたいてい、文脈の誤読から生まれる。それを考えると、ひとつの正しい翻訳を求めて、無数の誤訳を消していくやり方が通ってしまうのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

無数の名演奏を聞いたあとで、音符を打ちこんだだけのMIDIデータを聴くと、曲の最も深い構造が浮き彫りになることがある。ひとつの名演奏だけあれば、あとはなにもいらない、ということにはならない。

一昔前の工学者と、どうしても話がかみ合わないときがある。通信におけるノイズと誤読を同一視すると、誤りは正すべきエラーだということになる。そこに、食い違いが生まれる。

創造的な交信は、そのような通信モデルでは説明できない。ソーシャルネットも含めて、メディアの中のコミュニケーションは、個々に違ったコード表を片手に、翻訳不能な符号から、少しづつ自分のコード表を改訂していく厳しい作業なのだ。
 

コメント    

2004年10月12日
23:52
ikeg
この岩波の例とか、他にもいっぱい知ってるけど、ほんとにひどいのがあふれてますよね? 安斉さんの意見は、別のコンテキストでは僕はものすごく賛成なんだけど、この翻訳ものに関しては、「誤演奏」はどうなんだろう、と思ってしまいます。
2004年10月13日
00:48
gilli
岩波少年文庫と岩波文庫のアンデルセン童話の大畑末吉さんの訳はスエーデン語に対してはどうなのかはわからないですが、
日本語としてはとても美しい文章で、私は愛読しておりました。
アンデルセンが詩人であるということが、ありありと見えるような童話集でした。(しかしなぜか今絶版になっているようです。新しい若い人の新訳にしてしまうのでしょうか)

2004年10月13日
00:53
大和田龍夫
今日、攻める側の立場と守る側の立場の2つの顔がある茂木健一郎さんに会いました。
段々守りに入っている自分に気が付きました。
こういう話を聞くとなかなか耳が痛いです。
他山の石とします。
(って総括してどうなるもんでもないですが)
2004年10月13日
01:04
安斎利洋
>誤演奏

確かにここでは厳密な議論として、誤演奏と誤解釈は分けて考えないといけませんね。おっしゃるとおりです。さらにこの比喩でいうなら、編曲という新解釈もありうるから、すると自明な誤演奏というのはどの領域か、ということを考えないといけません。

岩波版のこの件については、確かにあまり擁護できない部分があります。肉料理を指す brisket を、胸と訳して、
「私のブリスケット料理の作り方のように大切な、なくてはならないものなのです」
とすべきところを、
「どうやって自分が胸をつくるかと同じくらい、大切な、なくてはならないものなのです」
と訳しているという例を見ると、豊胸の話かよ、とつっこみたくなります。

ただ、僕はこのあたりを読むと大江健三郎の小説の読みづらさを思い浮かべます。ブリスケット料理の作り方のように大切な、の背後に、自分が胸をつくる、という奇妙なイメージの重なるところに、brisket の多義性が生きるのかもしれない。(ちょっと無理あるか)

「胸を作る」は、ほぼ誤演奏でしょう。しかし、もし岩波書店が「胸を作る」という創造的かもしれない悪訳を、言葉を狩り取るように抹殺するのもまた問題です。さて、どのような落とし所を見つけるのか。
2004年10月13日
01:23
ユミ
堀口大学の訳したふらんす文学も日本語が美しくて好きでした。
古い感じは当時(学生のとき)からしていましたがそのちょっとセピアがかった色合いはなかなかよいものでした。
判り易いだけでは伝わらない美しさもあると思う。

でも、判り易いものも必要だ。
その意味でも「ライ麦畑でつかまえて」野崎 孝 訳と「キャッチャー イン ザ ライ」村上 春樹 訳が同居できる今は幸運だ。でも、ミリオンセラー作家のミリオンセラーだから許された特殊な状況なのかもしれない,,,
こんな贅沢なことは他の出版物では不可能な事なのでしょうね、たぶん。

本だけじゃない娯楽があふれてみんながいそがしい。
本を読む人が圧倒的にへってる時代だからね、、、
2004年10月13日
01:32
安斎利洋
同じ出版人として、大和田さんがもし急きょ岩波の編集者になったとしたら、どうします?

あきらかな誤演奏=ミスタッチは直すとして、さらに全面的に抜本的改訂をするのか。いっそ翻訳者を変えるか。この本はそのままにして、別なシリーズを出すか。でも同じ出版社から、翻訳者の違う同じ作品が出るのもかっこ悪いし…

頭痛いでしょうね。
2004年10月13日
01:37
ユミ
安斎さんの大江についてのコメントが入っていたので,,,

大江さんの文章の作り方は推敲して推敲して言葉を研ぐようにしてできあがるものだと読んだ事があります。
彼によるとそれはロシアフォルマリストの言う「異化する」という方法らしいのですが、つまり助詞のひとつにまで「それ」でなくてはならないたったひとつの表現を求めて決定していくわけです。

「最初の一稿目のほうがずっとわかりやすい」と奥様にも言われたりしながらもでも大江さんはたったひとつの言葉を捜して推敲する。

芸術は(創造は)本来そのようなものではないでしょうか。
翻訳を芸術と捉えてる人には自明の事だと思う。
2004年10月13日
02:02
安斎利洋
「胸を作る」が推敲の結果だとは思えませんが、少なくとも「ブリスケット料理を作る」より、異化作用はあると思う。
2004年10月13日
02:11
ikeg
誤訳もレベルの問題で、ブリスケットはあまりにひどくないかな、、そういえば現代思想は誤訳でのせちゃってるなー、てことが分かるのが多かった(最近よんでないけど)。ストレンジアトラクターというのはカオスに対応する解のことなんだけど、それを「奇妙な魅力」と訳してました。訳してたのは美学かなんかの人だからだけど、学部の学生でも吹き出しちゃうでしょ。
 言語(ことば)において、意味は生成である、という主張は正しいと思う。しかし、どこかでコミュニケーション可能性とのtradeoffがあるはずだと思う。誤訳はどこかできちんと裁断されないと、たとえばデリダの分かりにくい訳なのか、分かりにくいデリダの訳なのか、分からなくなって、分野を破滅させちゃう。これって芸術/科学 論になりそうだけど。
2004年10月13日
04:00
安斎利洋
奇妙な魅力! ストレンジな訳語だ。

「誤訳」の力を大事にしたい、という趣旨を援護するような例が、岩波のカニグズバーグの例には、あんまりないなー。実に悔しい。デリダの話も100%同意見です。

岩波の件に関しては、悪い翻訳を残して別の翻訳家をたてて別シリーズを出すのが出版社のとれる唯一の道だろうと思うんですよ。笑いものになってもいいから古い方はそのまま残して、翻訳家が命がけで練り上げていくべきでしょう。翻訳に定本はない、ということを優先すべきだ、と僕は思う。

多義性を潰して一意的な精密さを追うのは、XMLなんかもそうですが、言葉のもっている比喩の力を奪うと思う。少なくとも文学については。
2004年10月13日
10:55
大和田龍夫
出版社に来るまでは、

・再版制度即刻撤廃
・小さな書店は潰れて当然
・取次が諸悪の根源
・出版社は文化を創ってるって傲りを捨てろ

などと本気で思っていましたが、いやいや、、、。
攻めると守るでは違うんですね。当たり前ですが。今わかることは、取次制度のコストは結構大きいですが、いい競争を生んでいるんですね。物流コストは大変なもんだと思います。これだけの少量多品種の商品を売るってのはなかなか凄いことです。生鮮品と似て非なるものは在庫なんですが(卵がまさか半年も保存して出荷されるとは思わなかったですが)。定価制度がなくなったら、書店にはハリーポッターしかなくなりますね。間違いない。インターコミュニケーションは即、休刊になると思います。

歌田明弘さんの言う「ソフトウェアの証券化」をまずは出版業界で導入したほうがいいのかな?と思いました(大半が不良債権になるから、ワラント債、転換社債じゃないと辛いかな?)。「出版社はもうからねぇよ」ということばを知人に3回言われたのがとても印象的な昨夜でした。

「その本、何部売れると思います?」
このことばをこの2年で何回言ったことか。
そもそも、書いてみないと分かりませんしね。
書いてみてダメでとりやめる。それができればまたいいんでしょうが、それやったら、出版社の傲慢だ!!って喧嘩になるだろうしなぁ。私はこんなに一生懸命書いたのに・・・。

すいません。愚痴でした。

岩波のは・・・。
岩波だけに返本が難しい(不可能ではない)。返本可能リストに入れて、早めに回収をして、絶版にする。
これがとれる道だと思います。
命がけで翻訳した翻訳家が、これは是非出すべきだから、翻訳料気持ちでいいから出しましょう!!って岩波以外に持ちかけて、岩波にその他社が一言入れて、日本語化交渉をして、再版になるのではないか?と勝手に想像しました。

あ、山形浩夫約みたいに出す手もあると思いますが、如何でしょうか?いずれにしても、翻訳者=翻訳家ということでは、なかなかつれいんですよね。その道に長けた語学力のある人が翻訳を手がけるほうがいいのかもしれません(翻訳家に下訳をお願いするという手もあるんですが)。
ある本の場合、その道に長けた人ってことで訳したんだけど、もう全然ダメで、ある先生に監訳をお願いして、翻訳家を別につけて、、、出るのが2年遅れました。ってのもありますが(私の知り合いの本なんで、私には関係ない)。そんなことばかりやっていたら会社倒産しちゃいそうで(でも出版社は不思議と倒産しない)。
2004年10月13日
14:18
安斎利洋
>出版社は文化を創ってるって傲りを捨てろ

文化を創るためなら破産する覚悟をもつ、というのがメディアでメシを食っている人の条件だ、と僕は今でも思いますよ。でも、99%無理っぽい話かもしれない。

大和田さんや、Jun@NPさんの、リアルな業界風景を見てしまうと、出版社は自費出版の請負業者に弱体化して、もっとすごい本の作り手が市井から登場する仕組を作っていくほうが良い、みたいな考えに傾きますね。

10年前に、それこそ岩波書店の地下で、そういう話の流れになって、じゃ誰が辞書を作るんだ、と『思想』の編集長が反論していたのを思い出した。いまやボトムアップの辞書作りは普通です。

吉見俊哉さんが、いろんなメディアが出てきてそこに文章を書いても、やっぱり最後の勝負は本にかけるって言ってましたが、自分の中のそういう信仰が、当面の敵なのかもしれない。
2004年10月13日
17:02
はらこ
> いまやボトムアップの辞書作りは普通です。

この代表格といえばWikipediaでしょうかね。
つい最近、Wikipediaに間違った内容を書き込むという実験をやった人が複数いて、結果としては全ての項目がすぐに訂正されるわけではなく、ぜんぜん訂正されずに残った項目もあったということです。
おそらくは、多くの人が関心を持つ項目はすぐに訂正されて、あまり人の関心を引かない項目はなかなか訂正されなかったということではないでしょうか。ボトムアップアプローチの場合はこういったポピュリスティックなバイアスが問題になるでしょうね。

プロによる編集というのは、そういったバイアスに対する予防線としては、一定の効果はあるのではないかと思います。
(もちろんその編集者がきちんと目が利く人だというのが大前提ですが)

最後の勝負は本にかけるというのはそういうプロセスを経ているという点に価値を見出しているのではないでしょうか?

容易には本が出せなかった時代の、本を出すことへの憧れを単に引きずっているだけかもしれませんが。

全然関係ないですが、Wikipediaの日本語の項目は鉄道関係の記述が異様に細かいですね。鉄道マニア恐るべし。
2004年10月13日
17:42
うっそー、たくさん書いて、一部編集しようと思って削除したら、クリップボードにデータがなかった。
要点のみ、、、

・翻訳者には時間がない→日本語だけ読んでもおかしいような適当な訳語をつけても、時間のなさにまぎれて放置されてしまうのでは。

・刑事コロンボが飼い犬に「なんだおまえもflatfootになりたいのか」という台詞。flatfoot は、米俗語では足を使って捜査に歩き回る警察官とか、そんな感じの刑事さんのことらしいのですが、TVでは「なんだ、おまえも偏平足になりたいのか」といっていたということでした。(出典 : 小鷹信光、、、だったと思う)
 

2004年10月13日
20:30
安斎利洋
>Wikipedia

百科事典というのは本来、たんに人間の全知識を集めてきたものじゃなくて、そこに生成された知識だと思うわけですよ。Wikipediaをぱらぱらめくって思うのは、ネット上の知識は、生産されたものじゃなくて、受け売りが主ですよね。検索エンジンを引いても、同じパクリに何度も出会う。

どうやったら、知識が生産されるか、ってことを考えられてないと、ボトムアップの辞典も限界があるんじゃないかな。
2004年10月13日
20:42
安斎利洋
>一部編集しようと思って削除したら、クリップボードにデータがなかった。

ブラウザのエディタで書くと、そういう罠についはまる。

>flatfoot

偏平足でぺたぺた歩いてるおまわり、みたいな語感なんでしょうね。こういう多義性がある限り正しい翻訳はないわけで、「なんだ、おまえも偏平足になりたいのか」と、「なんだ、おまえもオマワリになりたいのか」と、どっちも50点くらい。でも、多義を違う多義に翻訳するってワザも、あるんですよね。
2004年10月13日
23:03
そうですねー、犬の場合はあまり偏平足ってないから、コロンボが愛犬に親しみをこめて「おまえも(自分みたいに)刑事(この場合はデカと読みたい)になりたいのか」といったんだと思う、、、ってのが、その話の流れでした。
もともとの翻訳者も、犬に偏平足って?? って思ってもいいような気がするのですが、それがなぜかそうはいかないのが、誤訳のおそろしいところです。

むかーーーしむかしに、どっかでさる高名な文芸翻訳家のかたがおっしゃってたところでは、植物の名前がでてきたら、なんであろうとすべて「ニワトコ」と訳す、という人もいたような記憶あります。これはある意味潔いというか、そんな気がしたんですが、今考えると、どうせ日本人には欧米の植物なんかわかんないだろう、っていう意識が見え隠れしてしまいますね。
2004年10月14日
03:57
あ っ こ
これは誤訳とは少し違う話なのですが、中華料理の杏仁豆腐の原料になる杏仁霜を英語にするとアーモンドパウダーになるために、本当はアーモンドの粉ではなく杏の種の中にある仁(核)を原料にした粉にも関わらずだれも正体を知ないでいるのではと、気になる。そもそも誰が最初にアーモンドパウダーと訳したのだろう?アプリコットシードパウダーではいけなかったのだろうか?見た目は良く似ているが中身が少し違う。
料理としたらアーモンドでも十分代用にはなり、実際アーモンドで作る場合もあるのだが。

香港のペニンシュラホテルのレストランでもとうとうだれもアプリコットだと理解してくれなかった。私の英語のマズさか?とも違うと思う。ずっと気になっていて・・・どこかではっきりしたいと、おもう。

いつか食材の原材料名を世界中の国の言葉に訳し、同時に引ける辞書を作りたいと思っている。
私が考えるくらいだから、きっとだれかがやっているとは思うけど、まだおめにかかっていない。

ほんとうの杏仁豆腐は杏の種の中身でできています!とお伝えください!

2004年10月14日
04:08
安斎利洋
杏仁豆腐を食べると、ラジコン飛行機のエンジンの匂いを思い出すんだよね。嗅覚におけるミスリーディング?
2004年10月14日
10:01
はらこ
実際、杏仁をきちんと使って作った杏仁豆腐ってあまりないんじゃないんですか?

立川の陳麻婆豆腐店で出てくる杏仁豆腐は、ほかの中華料理店で出てくる杏仁豆腐と比べて風味も強いし色もちょっと濃い目でぜんぜん別物に見えるのです。

陳麻婆豆腐店はきちんと杏仁を使っていて、他の店は何か代用品を使っているのではないかとずっと疑っているのですが…
2004年10月14日
11:17
ユミ
はりはり鍋は本来、鯨肉で作ると聞いたけど、うちでは豚肉と水菜でつくります。本来を食べた事ないので比べられませんが、うちのも充分うまいっす。

「うまけりゃいいのさ族」が料理を発展させて来たとしたら杏仁がアーモンドパウダーって訳された時に杏仁豆腐の原料はアーモンドパウダーが主流になるよう運命づけられたのかもしれない。

本物の杏仁豆腐を食べた覚えがない。
というか味の違いわかんないかもぉ!!!

これって料理の本の話だっけ?
2004年10月15日
02:34
あ っ こ
見た目が酷似しているような植物の種子をよく確認もせず勝手な訳をした人の顔を拝見したいということで・・・。問題は「英語」であったとう点だと思います。使っている人間の数から言ったら中国語でそのまま流通させればよかったかと。漢字が読める人間の数でもいいけど。世界を一周するころに、ヨーク考えてから翻訳したらどうなったか?

こっとばも料理も生き物で時代の空気を呼吸しているのだから変化も進化もすると思うけど・・・

>ユミさん
アーモンドで作っても美味しいと思います。
2004年10月15日
02:42
gilli
岩波文庫 イギリス名詩選 (平井正穂編)
のウィリアム・ブレイクを見ていたのですが、

The Tiger という詩の冒頭

Tyger! Tyger! burning bright
In the forest of night

夜の森影で赤々と燃えてる虎よ

うーん、何か直訳で詩になっていない。
直訳でも、まだ、

虎よ
夜の森にひかり輝く虎よ

ぐらいのほうがまだいいのに。
2004年10月15日
04:28
安斎利洋
ブレイクの深みは、英語の段階ですでに謎。

ジョン・タヴナーが、The Tigerと、The Lambをコーラスにしていて、たまたま今日CDを聴いていました。ちょっとしたシンクロニシティです。
2004年10月18日
00:31
翻訳に対するクレームの多くは、「日本語として自然じゃない」というもの。
どのクライアントにも、個人個人の書き方の好みがあるのと、やはり人の翻訳をレビューするときは、だれでも批判的になっているので、後ろから訳すか、前から訳すか、主語と述語の前後関係や、ちょっとした言い回しが気になって仕方がない。
多分、この翻訳者がこのように訳さなかったら、自分がこのとおりに訳していたかもしれないことが、気になったりする。
というわけで、とにかく翻訳はクレームと手が切れない厄介なお仕事なのです。
それにしても、先日こんな話を考えていたら、思いっきり誤訳してしまいました。
とほほ。
あまりにもハマった誤訳の場合、回りの人はみんな気を遣ってくれて、だれも、突っ込まない。しかし、その誤訳がどんなにハズカシイかわかっているのは、訳した当の本人だったりして、誤訳から立ち直るには、とーーっても時間がかかるのです。

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