安斎利洋の日記全体に公開

2005年06月28日
17:41
 メシアンになりたい
北洛師門(幸村)さんは、オリヴィエ・メシアンの孫弟子なのだそうだ。僕は残念ながらメシアンにつながるパスがみつからないけれど、メシアンのようになりたい、と、ずっと思ってきた。

それは一言で言うと、時代のコンテキストに簡単に呑まれたくないということだ。

メシアンはいわば自家受粉を繰り返しながら、自分自身を書き換えていく作曲家だった。バッハにしてもワグナーにしてもシェーンベルクにしても、音楽史の図太い必然の中に立っている。メシアンはセリエリズムに大きな影響を与えたものの、彼自身は恐ろしく急峻な支流を作って、遠方まで自分自身を連れていった。

アーティストは、自分の仕事を独自な個性だとつい勘違いするけれど、たいていは太い流れに準備された丸太のひとつにつかまっているだけだ。自分だけの船をみつけるのは、簡単なことじゃない。

メシアンは、シメトリーという音楽にとって最下レイヤーの概念を、単純な音型ではなく、独自なやりかたで旋法とリズムに交差させたところから出発する。それが、鳥の声に結びつくと、さらに交点が増える。そうやって、メシアンは自分ひとりの音楽史の中で、どんどん他人の持っていない持ち札を増やしていく。

こうでなくっちゃ!
 

コメント    

2005年06月28日
18:02
安斎利洋
昨日の「トゥーランガリラ交響曲」のことを書くつもりだったのだった。

都響定期演奏会
メシアン:トゥーランガリラ交響曲
指揮/井上道義
オンド・マルトノ/ハラダ タカシ
ピアノ/野平一郎

僕は生演奏の音に、ことさらこだわる方ではないのだけれど、トゥーランガリラは、やはりナマじゃないとだめだ、と確信した。

メシアンの音楽は、フォーカスがたくさんある。太い旋律の向こうで、パーカッションやピアノや弦の分厚い和声など、無数の細部の焦点がって、いろんなふうに絡んでいる。オーディオ装置の音楽では、これがすっきり見えない。

おいしいお弁当を食べるように、だんだん終わりに近づくのが惜しい一時間ちょっと。何年かおきに自分のなかで起こるメシアンブームが、また到来しそうだ。
2005年06月28日
18:22
Archaic
待ってました!笑。

トゥーランガ・リラはやっぱり生ですよ。音の艶が違います。音がリズムがブレンドされたうねりの迫り方、凄いです。
やっぱり音を色彩的に捉えている人なのでは、って楽器の音色の扱いです。
生演奏はプレイヤーの爆発力が違います。
頭の中白くしてくれますしね。うふふ。

今日本で演奏する時は野平さんハラダさんのコンビが殆どですよね。

メシアンのあり方は素敵です。私も本当に尊敬してます。
真に個を追求してますもの。きちんと説得力をもってますしね。
2005年06月28日
18:36
安斎利洋
なんでオーディオ装置だと再現しないんだろう、と、技術的な興味で考えてしまいます。24ビットにして、チャンネル増やして、映像をつけて、とやっていくと、ナマに近づくのだろうか。

昨日の演奏、管が右側にかたまっていて、コントラバスが最後列に整列するというレイアウトでした。視覚的にも音的にも、うまく整理された感じで、面白かった。
2005年06月28日
19:53
>アーティストは、自分の仕事を独自な個性だとつい勘違いするけれど、たいていは太い流れに準備された丸太のひとつにつかまっているだけだ。自分だけの船をみつけるのは、簡単なことじゃない。

話はそれますが、「己を知ること」は取りも直さず、「自らの限界を知る」ことなのだろうけれども、それを素直に認められるときに、視野がすーっと広がった経験があります。
2005年06月28日
21:43
なにを言いたいのか伝わらなかったでしょうね。
このごろ、こういったものの言い方する機会が多くて困ったものです。
 私が伺いたかったのは、芸術を志す方も科学でのそれと同じなのか?という質問です。
著名な科学者も、その人だけの力で立派な仕事を成し遂げていません。勿論、当人の才や努力はすばらしいものがあるのだろうけども、陰には、それを支えている人、あるいは、その才能を導きだした師が必ずおります。
 つまり、自分で作った家や船は、実はそう成るべくしてなっているだけなのではないか。
もっと言ってしまうと、どんな制作物も自分のオリジナリティーの集大成のように見えるけれども、実は、他者との関係から生み出された生成物という感覚をお持ちかという質問です。

なぜこんなことを、あえて質問するのか?
科学において、Serendipityを高める確実な手段としては、好むか否かに関わらず、今の所これくらいしかないのではないかと思っているからに違いありません。

解説して、余計に混乱させてしまったかな??
2005年06月28日
23:05
安斎利洋
二つ前のコメントは、一つ前のコメントの意味だったんですね。この突っ込み、非常に意味が深いです。

>どんな制作物も自分のオリジナリティーの集大成のように
>見えるけれども、実は、他者との関係から生み出された
>生成物という感覚をお持ちかという質問です。

僕らはずっと、他者との関係から生み出される創造ということを考えながら、連画プロジェクトをやってきました。しかし一方で、連画を通して発見したもうひとつのことは、他人と響かないことの重要性です。

人と人の間に生まれることは、0と1の間の0.5でしかないことが、どうしても多くなります。しかし、discommunication や misreading が、ここに−1や2といった突破口を開くことがあります。

連画は、天才を否定する思想か、ということを以前問われたことがあります。
http://www.nttcom.co.jp/comzine/archive/taidan/vol7/index.html
僕はむしろ、連画は天才を必要とするシステムだと(現在は)考えます。

ただ、天才はたんに人の属性ではなく、方法や場の空気や偶然が作るもので、これは「星座作用」の木の中でも、観察されます。

メシアンのような唯我独尊のオヤジは、創造の歴史にはどうしても必要です。

さて科学の世界ではいかに?
2005年06月29日
00:11
正直なところ、唯我独尊、色即是空などの言葉、苦手なんです。(爆)

質問を投げかけると、必ずノシがついて帰ってくる。(笑)
でも、とっても楽しいです。
これ、私だけかも。←幸せなヤツ
2005年06月29日
00:16
大事なお答え忘れてました。

>科学において、Serendipityを高める確実な手段としては

実は、「確実な手段」という言いまわしに私の思いが込められていて、私のような凡人でも感じえる「確実な手段」であって、きっと天才のそれとは別物なのだろうと思っています。
安斎さんの言われる様に。は〜。
2005年06月29日
10:09
安斎利洋
天才は努力をしなくても天才で、凡人は努力が必要、というふうに考えるのが普通ですが、天才っていうのは意外に努力の賜物なのだなと思うことって、よくあります。

たとえば、棟方志功は「二菩薩釈迦十大弟子」を恐ろしい集中力でいっきに仕上げたといわれてきたけれど、実は綿密な下書きと試行錯誤のあとが発見されたりしています。

誰でもマチスになれる瞬間があるはずで、セレンディピティは鍛えられるんじゃないか、というのが最近の僕の仮説です。
2005年06月30日
12:50
chee
メシアンのトゥーランガリラ交響曲がすごく気になりました。そして、今まで知らなかった自分に悔しく思ったり・・・。
こんな素敵な天才の曲を生で聴いてみたいなぁ。


メシアンの自家受粉しながらっていう表現、いいですね。この表現に思わず惹かれてしまいました。
2005年07月03日
08:14
chee
メシアンのCDを思わず買ってしまいました。メシアンとの初めての出合い。なんだか衝撃的でした。CDでこんな衝撃では、生ではどんな衝撃があるんだろう。

私のウエブログ(http://cheesnote.jugem.jp/)に安斉さんの名前を載せさせていただきました。事後承諾でごめんなさい。
2005年07月04日
11:19
安斎利洋
cheeさんをメシアンに引き合わせることができたわけですね。
耳がなれてくると、室内楽やピアノ曲にも面白いのがたくさんあります。

以前、archaicさんの日記でこんなやりとりがありました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=3619543&owner_id=1963
2005年07月04日
12:30
中村理恵子
[・・]
2005年07月04日
19:03
Archaic
懐かしいです♪

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