安斎利洋の日記全体に公開

2006年09月27日
17:28
 レッシングとメタ倫理
クリエイティブ・コモンズ・ジャパンの主催するパネルに参加。僕らがこの15年やってきたことと、彼らのムーブメントとの位置関係をいつか確認しておかなくては、という自分の課題をクリアできたような気がする。

僕らはどうしても創造の原理を極めようとするから、その視点から見るとレッシング教授は調整の人であると思っていた。調整や中庸は一面ではトレードオフの問題だけれど、著作権をがちがちに守りたいという立場と、著作権は原理的にありえないという立場の間には、それらをいっしょに眺めるメタ倫理の立場がありうるわけで、レッシングの中にメタへ飛ぼうとする野心と、原理主義に足をひっぱられる苛立ちがあって、あーなるほどそういうことかと思うことが多々あった。

パネルの様子は、近々ソフトバンクのサイトから配信されるそうだけれど、忘れないうちに、以下は自分から伝えたかったことのメモ。

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連画・カンブリアンを通して一貫して感じるのは、作者は作品の支配を大事にしているわけではなく、作品を作り出した行為の履歴を大事にしている、ということだ。行為が正しく地図になることが保証されれば、子孫作品に自分のメタ情報が永遠についてまわることを望むわけではない。

カンブリアンの中で同時発生するアイデアがあるが、陣地をとるようにして他を排斥する気持は起こらない。それは、エベレストに登頂した記録は大事だが、わずかな時差で同時に山頂を踏んだ探検隊がいたとき、陣取りをすることはなくむしろ同じ体験を喜び合うのと等しい。

作者が所有できるのは、したがって作品ではなく創作行為だ。

作者は、作品が他人に読み替えられることを望んでいる。メッセージが、生まれたコード空間と異なるコード空間の中で読み替えられることが喜びである。言い換えると自分が思いもつかないコンテクストにさらされることを切望する。

したがって、作品がどのように使用されるべきである、という制約を加えようとは思わない。

僕らはリミックスの創造性を知っているが、「この音楽は90%Aさんの、10%Bさんの要素が入っている」というような考え方に、居心地の悪さを感じる。それはなぜか。

クリプキが、プラスとクワスについて考えている。1+1=2 16+21=37 というような一群の計算がある。そこで、ある人が、68+57=5 という。これは、x プラス y が57以上なら、答えが5になる「クワス」という新しい演算子だ、と主張された場合、これを間違いであるということはできない。

テキスト(とりわけ芸術的な表現)において、AのテキストにBがテキストを付加したり改変を加えるというのは、Aの「プラス」の演算の集合に、Bの「クワス」の演算を加えることである。わずかに情報を書き加えることによって、前の情報の全体を「プラス系」から「クワス系」に転ずる。

このような作品は、表面的には情報に情報を加えているようだが、実は規則=共有コードの書き換えを「提案」しているのだ。芸術的な表現やパロディでなくても、多くの知的再生産は、情報の付加ではなく、このようなコードの書き換えである。

すると、コンテンツのある塊に対して、権利のメタ情報がつくというモデルは、うまくいかなくなる。コンテンツは、表に顕われた情報ブロックの棲み分け地図ではなく、潜在的なコードの対話だからだ。

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写真(右)は、中村日記より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=229727098&owner_id=64544
 

コメント    

2006年09月28日
03:22
miyako/玉簾
メモ以下の5つのパラグラフの内容、同意しつつ読ませていただきました。カンブリアンは独特な形で柔らかくしっかり守られた、稀に見る自由な仲良し空間だと思います。
上手く言えませんが。
2006年09月28日
05:03
N_apostrophe
テクストをどんどんずらせて言い逃れる小泉モードもこまったものだし、
原テクストを求めてえんえん言い争う原理主義も困ったものだ
2006年09月28日
12:08
にしの
> 作者が所有できるのは、したがって作品ではなく創作行為だ。

ああ、なんだかすっきりしました。

だから古来の芸術家は、作品ではなくて自身の存在そのものをパトロンに買ってもらい・養ってもらっていたわけですね。
「創作」の本質に対する価値観と経済観は、法に踊らされている現代より、過去の方が進んでいたのかもしれません。もういちどそういうことが復活できるでしょうか。
2006年09月29日
00:39
安斎利洋
>稀に見る自由な仲良し空間だと思います

コラボレーションというと、映画なんかは関係者がどれだけ我慢したか、という総量が結果だったりしますからね。カンブリアンは、我慢の必要はありません。
でも、どうやったらカンブリアンの中に否定と緊張を作れるか、ということも考えなくてはと思っています。

>テクストをどんどんずらせて言い逃れる

テクストを封殺するためのテクストばかり、世界に満ちているような気がしてなりません。

>「創作」の本質に対する価値観と経済観は、法に踊らされている現代より、過去の方が進んでいたのかもしれません。

創作の自然な原理に即したシステムが、複製を売るためのシステムに汚染されてしまった、というのがここ数百年に起きたことなんでしょうね。
2006年09月29日
02:38
いかなる領域においても、創作とは、純文学をしているようなもので、一度経験したら止められないですね。
純文学が経済観念と相容れないというよりも、純文学はそれを必要としない。
逆に、経済観念の一部は純文学を必要としているし、それが根底になければ、経済観念には虚しさだけが残る。
2006年09月29日
02:45
安斎利洋
上の「純文学」を「恋愛」に置き換えても、そのまま意味が通じてしまうし、「麻薬」に置き換えても同様です。
2006年09月29日
12:08
miyako/玉簾
創作も恋愛も麻薬みたいなもんってことですね。
あー、何て厄介なことでしょう!
2006年09月29日
18:29
N_apostrophe
『文明の崩壊』に、巨石を競って運び手を増加させた結果、その余剰人口を負担する為に農作生態システムを破壊してイースター島が滅びたとありました。
芸術家と言う「余分な運び手」を抱える社会は滅びるのかなと、寂しい思いをしました。
いや、金融だ運輸だ教育だとサービス業が肥大していることに比べれば芸術家等とるにたらない圧力ですね。

モロッコで羊番をしながら立ち尽くす少年に、芸術家の在りうベき姿を重ねていました。
著作権益に執着するほど売れていないひがみではないと願いながら、著作権にまつわる議論から遠くはなれてしまいます。

だいたい特許だ著作権だは20世紀の初頭の産物で、科学者や芸術家はブルジョワの家系ではなかったかな。
2006年09月30日
01:45
安斎利洋
>巨石を競って運び手を増加させた結果、その余剰人口を負担する為に
>農作生態システムを破壊してイースター島が滅びた

そうなんですか!
それは、人間は記号のために滅びうる、ということを物語っていますね。
いや、人間は記号のために地球を壊すということか。

もしモアイの小ささや美しさを競ったら、どうなっていたんでしょうね。
そもそも、競うという原理から、どうやったら抜け出せるんだろう。
メディアアートの世界なんて、ほとんど新しいアイデアの先陣争いにしか見えない。
2006年09月30日
10:16
N_apostrophe
>メディアアートの世界なんて、ほとんど新しいアイデアの先陣争いにしか見えない
「イノベーション」とモダニズムが合体したメディアの宿命等とひやかしたら仲間はずれにされそうですね。
2006年10月01日
04:16
安斎利洋
本来テクノロジーを用いたアートは、テクノロージそのものへの批判を含んでいるべきで、それは基本だと思うんですが、メディアを批判する力のあるメディアアートはとても少ないですね。
2006年10月01日
10:44
N_apostrophe
映画も古い「ニューメディア」ですから批判は自分にも向ける必要がありますね。
映画では大雑把に行って50年代に『雨に歌えば』のようなメタミュージカルが出たり、70年代には映画そのものを対象にしたメタメディアの試みが多くありましたが、今ではテクノロジーに乗ってしまうか、そこから離れてしまうか、ちょっと極端かもしれません。
ところで、著作権の問題は、不特定大量頒布というシステムが引き起こす問題で、私的な、したがって密室的なライブスペースでは発生しなかった問題が、インターネットによる繋がりと言う私的であると同時に公的にさらされている矛盾した空間(通信と放送の融合とはこの矛盾ですが)で奇形化しているのだと考えています。
言わばサロンの朗読が公道に漏れ聞こえているとき、公的秩序がどのような理由で介入するのかということです。
それでもドメスティックバイオレンスだとか、最近は公権力が私的権力空間を侵し始めていますね。良い側面を見ていれば良いことですが、悪い側面を見ると危うさを感じます。
2006年10月02日
00:23
安斎利洋
隣人のドメスティックバイオレンスは警察に通報する、という考え方には一見間違いの入る余地がないように聞こえるので、そこに疑問を感じる人は少ないでしょう。僕もそこに、非常に危うさを感じます。

これはまさにメタ倫理の問題で「子どもに暴力をふるう親は悪いに決まっている」という判断は、観測点そのものの絶対的な正しさを前提にしていて、それは「圧政に苦しむ民衆は救わねばならない」という正義が侵略に転じるのと同じくらい、実は危うい。

いや、僕もたぶん通報すると思うし、通報すべきだと思うけれど、あきらかに最近「ヘンな人」に対する排他的空気がどんどん濃くなっていますね。
2006年10月03日
01:43
N_apostrophe
ブルックリンでおさんどんまがいを10日やってるとき、新聞もテレビも見なかったら静かだった。これらは右翼の宣伝カーみたいなものだと思いました。
みくしもニュースや情報が巻頭ページに張り付いているようになって似てきたかもしれません。
ネットも離れ小島があるとか。どうすると行けるんですか?
2006年10月03日
15:12
安斎利洋
mixiのニュースって、撒き餌のようですね。憤懣や罵倒の種を適当に与えておかないと、ユーザーが逃げてしまうとでも思っているのか。テレビも同じ構造か。

そうそう、おくればせながら、おめでとうございます。

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