安斎利洋の日記全体に公開

2004年10月02日
03:47
 音楽は発明か発見か
●つっこみ
Archaicさんちの軒の下にて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979623

ここに挿し木しておきます。
 

コメント    

2004年10月02日
05:13
jun@NP
DJという仕事は、まさに「発見」的なもので成立してますね。
ポップミュージックのここ20年のカバー&MIXだらけの状況も。
でも、DJという仕事は発明のような・・・。
2004年10月02日
14:05
安斎利洋
「未来から生まれた」シトロエンDSは、「来なかった未来」だった、っていう話、面白い。
そういえば、僕のmixiリストには「来なかった未来」が好きな人たちが多い。大和田さんとか。あ、そうだ、JustPCに思いをはせた人たちとか。
2006年07月22日
02:39
安斎利洋
以下、ウェブスルーのための補足情報。上のリンク先より転載。

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Archaicさんの日記


2004年09月29日
22:11 かくも贅沢なりき、人生とは
エーデルマンという脳科学者の言葉に「われわれの経験というのは、全てエンボディメント、つまり肉化される」というのがあるそうだ。

先日、人という生き物は一度きりの肉体に経験と体験を積み重ねて知恵を持つようになるがその一生をかけて積み重ねたものはそのままの形で次世代に残す事なく死という終末を迎える。一回性の生を終えて、<亡きもの>となってゆく、その人類としての生の連続性に対する非合理性と無駄を<実に贅沢>なものである、と表現し話してくださった人がいた。
であらばこそ、その与えられた贅沢を味わいつくし生きる事を喜びたいものだと。

積み重ねられないがゆえに歴史上何度も同じような間違いを犯し、人とは何とも愚かしい生き物、と諦観を覚えつつも人生を生きてゆくものなのだ、と。少し悲しく淋しい思いで自分の未熟さを捉えていた私だったのだが、一つ一つ、未知の生まれて初めての体験を積み重ねる事ができるという事が、各個人それぞれに許されているというのは実は大変に贅沢であり、その感動を必ず人として受け止める事のできる機会があるという事は、これは実は幸せなことなのだろう、と。
そのような人生の受け止め方があるというのは生きているという事に対してとても肯定的で、私は何かひとつ重しを解かれたようにすら思えた。

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コメント

2004年09月30日
01:41 安斎利洋

ニュースステーションで対談者に、死ぬ直前に何が食べたいか、って聞くのがありましたよね。自分の場合なんだろうな、と常々思うんですが、いろいろあってなかなか死ねない。
僕の父親は、死ぬ直前の食事が温めなおしたカレーライスでした。きっと、死ってそういうもので、死ぬまでの時間というのもそういうものなんじゃないか、とイメージしています。

2004年09月30日
03:16 安斎利洋

>一つ一つ、未知の生まれて初めての体験を積み重ねる事ができる
>事が、各個人それぞれに許されているというのは実は大変に贅沢で
>あり、その感動を必ず人として受け止める事のできる機会があると
>いう事は、これは実は幸せなことなのだろう、と。

個体発生は系統発生を反復する、という仮説があります。人は羊水のなかで、お魚から陸上に上がる進化を踏襲するという考え方です。その是非はともかくとして、ここ何年か、人間は40億年の生命の試行錯誤をほんの80年くらいで追体験する実に贅沢な存在なのだ、としみじみ思います。たぶん、宗教には属さない信仰のようなものだと思います。

もっと別の言い方をすると、生命というのは複雑さのひだを重ねていく幾何学的な試行錯誤の結果で、異性の形態にときめいたり、人間関係のドラマに一喜一憂したり、それらもみな、分子進化から脳の進化にいたる幾何学的進化の、追体験じゃないかと思います。

自分という世界のひろがりは、ものすごく広大ではあるけれど、有限です。でも、これって人ゲノムの情報量の少なさに驚いているのと同じこと。別の比喩を使うなら、芭蕉の俳句の17文字を、17バイトの情報量と計測するのと同じこと。俳句は、日本語と文化のシステムの全体のなかから削られた言葉だから、17文字の情報量は17文字が選ばなかった大きなコードの全体として考えないといけない。

創作的な仕事をしていると、自分のやっていることって、もしかしたら1万年前に誰かが別の文化のシステムで、やっていたことかも、なんて思います。自分の人生の小ささは、そういう話じゃないかなと思う。40億年かけて、形態や情報の組み合わせ論的爆発から選んできた過程を、いわば反復的に体験するのが創作的な生き方だと考えると、深い自信がわいてきます。

良いトリガをひかれると、つい暴発してしまう。


2004年09月30日
07:34 Archaic

>個体発生は系統発生を反復する、という仮説があります。人は羊水のなかで、お魚から陸上に上がる進化を踏襲するという考え方です。

私は以前この考え方に出会ったとき、下のような事を思いました。
「記憶を通して芸術を認識する。そこに今までの生命としての自分の歴史的内包が映し出されてゆく。感動のおののきも微細な揺らめきも、本当は既に自分は獲得しているもので、表象されたものによる触発なのだと思うと、感じやすい私の人生も実は既にぎっしりと中身が詰まっているからなのかもしれない・・」

2004年09月30日
07:40 Archaic

>17文字の情報量は17文字が選ばなかった大きなコードの全体として考えないといけない。

人生の贅沢という考えもそうですが、このような考え方も本当に大切な事だと思います。言語化されたものとそれに費やされているこれから言語化されるかもしれない領域のものたち。
氷山の一角に何を見るか。

>40億年かけて、形態や情報の組み合わせ論的爆発から選んできた過程を、いわば反復的に体験するのが創作的な生き方だと考えると、深い自信がわいてきます。

大きなものに支えられているという、そういう確かさのようなものでしょうか。あるかなきかの茫漠としたものを徒に掴もうとしているのではない、ということですよね。

2004年10月01日
00:58 安斎利洋

>感動のおののきも微細な揺らめきも、本当は既に自分は
>獲得しているもので、表象されたものによる触発なのだと

僕はここでいつも悩みます。いろんな人にこの話をするんだけれど、まだよくわからない。良い答えが返ってきたことがない。

たとえば、モーツアルトの音楽は発明なのか発見なのか。
ジャズのブルーノートは発明なのか発見なのか。
数学は発明なのか発見なのか。
僕がいま描いている絵は、どこにもない新しいなにかを作り出したのか、それともあらかじめどこかで待っていたなにかを見つけ出したのか。
クリエーターは無限に新しいものを作り出せるのか、それとも有限な脳の海から認識可能ななにかを探し出しているのか。


2004年10月01日
11:30 Archaic

この件、長くなりそうなので、メールします。マダまとまってませんが。

2004年10月01日
14:00 Archaic

と、おもったのですが、せっかくなので、公開で。
一つ思うのは新しいと認識するというのはどういうことか、です。以前韃靼の風のコメントでもかいたのですが

>といって何も関係性のないところにポカンと何かが忽然と表出するということはないわけで、何かの流れの中に必ず次のものがある、

というのが私の考えなんです。人は全くの偶然(それも大概は必要という状況が既に用意されている。)以外には新しい今までと全く違う事、物があったとしてもそれを無視していると思うのです。関係なければ気が付かない。

人の精神(感情)がより洗練され微細化されてゆく状況の中でそれに見合った物が生み出されてゆくにすぎないのではないか。だから差異を認識していく事が新しいという事、なのだと思うのですが。
そうすると、どうなるのでしょうか?発見?発明?その言葉の中に収めることはできるでしょうけれど・・・・。
ネーミング・ラベリング、或いはカテゴライズが創造の意味を表現する事ができるのでしょうか。

>無限に新しい物を作り出せるのか。
多分今のところ、もっともっと感覚も感情もより洗練される事は可能なので、無限と思われるほど何かが生み出されてゆく事はあると思います。

・・・と普段あまり使っていない回路を使用していますので、突っ込みどころ満載と思います。
どうぞお手柔らかにお願いいたします。

2004年10月02日
01:41 安斎利洋

>突っ込みどころ満載

つっこみじゃないけれど、触発されることは、確かに満載です。

商業的に創作をしているギョーカイ的な仕事の人がよく言う言葉に、人の半歩先を行けっていうのがあります。つまり、一歩先を行くと売れないっていう意味なんですが。

半歩先あたりにバカ売れのピークがある、ってことで、それはそうだと思う。一歩どころか、一歩半くらい先読みしちゃうと、まったく売れません。かならずしも商業的でなくても、現代美術やメディアアートも、すでにあるモードに明確なコンテキストをもっていて、そこから逸脱しないものが支持されます。

そういう話だと、下世話な芸術業界の話になってしまいますが、もっと深い創作の本質の話なんです。Archaicさんが言う、差異がなければ気づかれない、っていうのはどういうことなんだろう、というのが非常に気になる。

たとえばクセナキスは、なんで数学を使ったかというと、僕は「歌」を歌わないためだったんじゃないか、と思うんです。歌の話に関係しちゃんうですが、もうひとつ、反復音楽とピグミーの話にも通じるんですが、音楽のとって「歌」というのは、確実に音楽を人に関係づけ、音楽が音楽であるための基本的な要因と言ってもいいと思う。バッハだってマイルス・デイビスだって井上揚水だってみんな歌です。でも、クセナキスは一歩半や二歩先のところに、音楽って本当にあるんだろうか、ということをやってたような気がする。

ショパン弾きはショパン節みたいな手癖をもっていて、それを外した演奏が新鮮に聞こえますが、その比喩で言うと、あらゆる音楽は「音楽節」みたいな癖を歌っちゃっていて、良い演奏って誰でも同じようなところに行き着くし、こうすると良く聞こえるという技術もほぼいっしょ(じゃないんでしょうか)。それをどこまで外せるか、歌の外にどこまで新鮮な音楽があるのか、っていう実験をやり続けたのがクセナキスじゃないかと思う。

でも、そこに本当に人間が気付きうる、音楽的快楽のある世界があるかというと、それはなにしろ実験なので、わかりません。保障はありません。

そうやってどんどん、一歩先を繰り広げていったときに、音楽は無限に拡張して、無限に新しい音楽が「発明」できて、無限に人間の耳は音楽の範囲を拡大させることができるのだろうか。

それとも、音楽というのは、歌というある閉域であって、そこにどれだけ多様な作品を「発見」できるか、ということなんだろうか。

僕がわからないのは、そういうことなんです。うまく伝わる話にならなかったかもしれませんが、演奏家の体感として、なにか僕には見えないものが見えているかもしれない。


2004年10月02日
05:04 jun@NP

>半歩先あたりにバカ売れのピークがある、ってことで、
>それはそうだと思う。一歩どころか、一歩半くらい
>先読みしちゃうと、まったく売れません。

ここだけに反応して乱入脱線失礼。
ふとこの話で思い出したんですが、
シトロエンDSというクルマがありまして、
発表当時の1950年代半ばには一歩半行き過ぎた設計でした。
シトロエン社は「未来から生まれた」というコピーで
広告したりしてそれなりの成功はしたのですが、
実際の未来には、彼らの技術やスタイリングはほとんど支持されませんでしたので、「来なかった未来」と呼ばれてます。

現実の未来は技術や創造性でなく、マーケティングにすぐれた(まさに半歩先が見える)メーカーが造ったようです。

2004年10月02日
13:53 安斎利洋

未来を作れなかった「一歩先」の死屍累々には、かならずjun@neopさんのような熱烈な支持者があらわれて、次の次くらいの未来に伝説をつないでくれるんです。

「来なかった未来」って、使える言葉ですね。


2004年10月03日
03:02 さとっち

はじめまして。佐藤と申します。
とても興味深く読ませていただきました。
DNAに刻み込まれたある種のコード。
狂ったサルの種族のみがもちえる「歌=メロディ」。
バグが「来なかった未来」なのか、それもコードの1部であるのか?、、
おおざっぱに言えば、無限のデジタル(0、1)の間で、無限(なのか有限なのか??)の動きがあり、それもがシステムに内包されているのか?
、、、全然まとまりません。
スミマセン、中途半端な書き込みで。



2004年10月03日
03:28 安斎利洋

>狂ったサルの種族のみがもちえる「歌=メロディ」

もし人間を観察する知性があったら、きっと「ヒトは、鳴き声を組織し、伝播させ、売買する奇妙な動物である」なんて書かれるんでしょうね。


2004年10月03日
13:30 Archaic

>もっと深い創作の本質の話なんです。Archaicさんが言う、差異がなければ気づかれない、っていうのはどういうことなんだろう、というのが非常に気になる。

存在は欲望のあるところにある、というような意味でしょうか。
完全に何もないないところに現れない、という事はそれについて差異を認識できる、といういみです。
ある意味クセナキスは情動と違うところに音楽というものの存在を確かめてみたかったのかもしれない、その方法論として一番情動と遠いと思われるような数を用いてみた。といえないでしょうか、そこが歌からの乖離の試みといえるでしょうか。
そういう試みをしてみた。
たしかにクセナキスは面白い、時代の中で残る力を持っている。でも、それは彼の作品の中にわたしたちが歌に近いものを結果として見出せたから、ではないでしょうか。フレーズ感というのを感じられます。ダイナミクスもあるし、余白もある。
次の音への期待も生まれる。少なくとも1970年代からこれらの音に触れてきた私には単純なノイズの羅列とは感じられない。似たような方法で似たような技術を使って作品を作っている新作の発表会などに行くと面白くないものに、いくらでも出会う。それと彼の作品の違いはやはりイメージを喚起する力を持っているというところにあると思う。作品として構成され、それを感じさせるものもある。そして、イメージが可能であるということは私の中に今まで生きてきた中でそれと似た音環境というものを蓄えてきていた記憶がありその記憶には五感に付随した情感も含まれている。そういった記憶の中での音世界との違いを感じながら、生理的な快を持って反応する事が出来た、という事のような気がします。

電子音楽の歴史、というレポートで書かせていただきましたが、結局様々な試みが試みで終わるかそうでないかは人間の生理に沿う可能性を持っているか否かにあると思うのです。
そして、その生理はこれからどんどん洗練され微細化され受容量を増してゆく。

発見と発明の差において思考している間は本質的な創造にたどり取り付けないのでは、と思っていたりするのです。

そういう意味で
>発見?発明?その言葉の中に収めることはできるでしょうけれど・・・・。
ネーミング・ラベリング、或いはカテゴライズが創造の意味を表現する事ができるのでしょうか。

という事を書かせていただいたのでした。

2004年10月03日
13:40 Archaic

電子音楽の歴史
はてな、archaic日記より
http://d.hatena.ne.jp/archaic/200403

2004年10月03日
13:45 Archaic

私が10代のときに、何故ロマン派ではなく、現代音楽という音世界にはまっていたか、というとその時の自分に把握できていたのは音の中にいる時の緊張感とそこからの解放感の落差が極めて快かった、という大変に原始的な理由でした。
ロマン派などのメロディーのふかぶかと感傷的に自分を揺るがすようなところから、逃げていたかった、というのもあるように思います。

2004年10月03日
14:17 Archaic

大雑把な感覚だけでしか音楽を捉えられない原始的な私には
こういうことをきちんと言葉で表現するのは難しいようで、上手く答えになっていないようで、申し訳ありません。

2004年10月03日
14:28 Archaic

クセナキス
http://www.ne.jp/asahi/kerbau/kerbau21/text(j)/1996/19962.html

2004年10月03日
14:32 Archaic

上のテキストのほうがいいと思うのですが、でてこないので、
http://www10.ocn.ne.jp/~eonta/guide.html

2004年10月03日
14:53 安斎利洋

ふたつ上の高橋悠治のテキストが出てこないのは、mixiのせいです。httpからhtmlまでをコピーしてブラウザのアドレスに貼り付けると、出てきます。

Archaicさんの思考回路に感謝。いろんなことを思いつかせるテキストです。
しばし、テキストエディタ上で考えてから、また来ます。


2004年10月03日
21:00 安斎利洋

ロマン派から逃れ続けた十代に、たぶん共通の根っこをもつ僕としては、Archaicさんの上の話はほとんどすべて深く首肯くことばかりなんですが、せっかくの話がもったいないので、ちょっと無理してでも「差異」をみつけながら(あるいは創作しながら)話します。

クセナキスの音楽は、クセナキスみたいなことをしている他の作曲家とは、確かにまったく違いました。物理現象をそのまま抽出するような手法でありながら、力の蓄積や解放のうねりは、いわば「歌」と言ってもいいような、古典的な音楽の本質により近いような、生理を感じます。クセナキスは晩年にセルオートマトンなどを使っていますが、基本的には確率的な手法を主に用いていて、僕にとってはもはや数理的な興味をそそる人ではありません。でも、クセナキスがどうしても気になるのは、その本質が数理よりむしろ生理的な「歌の境界」を追っていたからだと思う。

確かにArchaicさんの指摘するとおり、人間の生理に沿っていない音楽は、音楽ではないのかもしれないと、僕も思います。

ここでもうひとつ、新しい話。ベイトソンが『精神の生態学』という本で「学習」のレベルについて書いています。例えば、向かってくる昆虫を避けるときに、体を左右のどちらに傾けるかというのが学習T。それに加えて、前後や上下といったあらたな選択肢を拡張していくのが学習U。さらに、飛んでくる昆虫を食ってしまう、というようなびっくりするようなシステムの飛躍を含むのが学習V。ここまでは、想像可能な階段なんですが、ベイトソンはさらに次のステップを考えていて、通常の人間は到達できない学習Wを想定しています。じゃ、そのWっていうのは具体的にはどういうのか、ということになりますが、河本英夫さんが面白いイメージを提供しています。簡単に言うと、ある問題が起こったときに、自分から狂って(精神分裂的になって)、またもとに戻ってくる、そういう行き来が自由にできるようなこと、そういうが学習Wだろうって言うんです。

僕はこれ、ものすごく刺激的なヒントでした。狂うっていうのは、音楽の話にはうまく適合しないかもしれないけれど、通常の神経からすると生理的にしっくりこない「歌」というのがあったとして、そこに行って何かを得て、また日常的な歌に帰ってくる、というようなことを想像します。

発明・発見ということで言うと、人間の限られた生理を発見する、というより、無限の生理を発明できるか、ということなんでしょう。発見の対象は有限だけれど、発明の対象は無限です。そういう果敢さが、いまの文化芸術には決定的に欠如しているように思えてなりません。

自分のなかで、いろいろ無理しながら言っているので、あんまりArchaicさんの感じているところと違わないなと思いますが、かつて同じ空気の振動を聴いていたであろう仲間に、ちょっと絡んでみたわけです。


2004年10月04日
08:43 Archaic

学習IVについてなんですが、そういうのがシャーマンとかに求められている事で、実は音楽の起源もそこにあるような気がします、呪術的なんですよね。
簡単に有名なのではガムランのような。インドの音楽にも瞑想系もあるし。

新しい音楽を求めて原点に回帰している(アイディアを求めてきた事)ことはもうずっと以前から言われていますが。形式の問題ではなく、本質的に求めている事を追求するとそうなってゆくのでしょうね。

感情の発露でもあったでしょうが、最初の頃は集団でのトランスであったり、そこに神と呼ばれるものが降りてきたりして祭りだったり。

原点に戻ると音楽のもっていた意味のようなものが、そして人が芸術に求めたくしていたものが見えてきそうな気もしますね。

2004年10月05日
01:59 安斎利洋

「精神分裂」という戦略的状態へ行ったり来たりする学習Wが、シャーマンやトランスの世界に通じるということに、実はArchaicさんのテキストを読んで気付きました。考えてみれば、自然な連想なんですが。

自分のなかで十分に練られていないテーマである、というせいもあります。が、ベイトソンの学習Wと、シャーマンは、僕の印象では逆の方向を向いています。そのために、その自然な連想が働かなかったのだと思う。

沖縄のかみんちゅというシャーマンが、足の付け根を規則的に叩き、その反復によって薬物をたよらずにトランスに入る映像が何年か前放映されて、評判になりました。さとっちさんの言う「DNAに刻み込まれたある種のコード」や、韃靼人の根拠のない懐かしさに通じる、人間が他人と共有している比喩的な意味での「歌」の中心にいたる技術をもった人々が、シャーマンなんだと思います。

音楽がもし人間の生理の根幹にあるなら、シャーマンが生きている共通の無意識や、そこにいたるためのリズムは、音楽の根幹でもあるでしょう。ピグミーのポリフォニー、ポリリズムは、シャーマン的でもあります。

学習Wは逆に、同じ同心円を遠心的になぞる技術じゃないかと想像しています。誰も歌だと思えないような何かと、ぎりぎり歌である何かの境界を探る技術。

やっぱり十分に練られていませんね。しかし、この二元的なテーマは、いろいろな示唆に富んでいて、実はいまの仕事のヒントがぎっちり。

もしかすると、シャーマンこそ、人間の生理や、誰もが思う共通の理解や無意識を、裏切る存在なのかもしれない。

学習Wって、具体的にいったいどういうイメージなんでしょう。会議で行き詰まったときに、みんなで5秒くらい狂ってみて、ふと打開策を見つける、みたいな、なんか笑っちゃうような世界だと思うんですが。

わからないことが山ほどあって、うれしくてなんだかあっちに行っちゃいそう。


2004年10月05日
06:02 さとっち

ベイトソンの『精神の生態学』は知識不足で知らなかったのですが、、学習(4)は、とても刺激的ですね!
僕は、創作(捜索)する時に、模索の根拠として(3)まではって言うか、(3)を意識してやっていた部分があって、、
(4)は、拙い言葉で言うと、トランスポーテーションや、4次元的ですよね。パラドキシカルが成立する形。

安斎さんが言われた、
>通常の神経からすると生理的にしっくりこない「歌」というのがあったとして、そこに行って何かを得て、また日常的な歌に帰ってくる

その日常が既にもう一つの「別の」日常として存在しいえる。
「歌=泣き声」のnext Dimension としての形がイメージがノイズに混じって、感じられました。

>わからないことが山ほどあって、うれしくてなんだかあっちに行っちゃいそう。

分らないって、唯一の希望ですものね!!!


2004年10月05日
23:47 安斎利洋

創造的な仕事をしている人は、それがアートでも、セールスでも、料理でも、かならず限られた範囲の繰り返し、リミットサイクルに陥いる罠を知っていますよね。

そこで、他人の脳を借りたり、過去の様式を発掘したり、クリエーターはいろいろ脱出の戦略をもっています。しかし、その戦略も含めてリミットサイクルに入ってしまう。さらにそこから脱するために…というように脱出のいたちごっこになる。

学習Wは、なんか魔法のような話だけれど、もしかするとコンピュータと創作の新境地をひらくヒントかもしれない。


2004年10月06日
19:20 さとっち

コミュニケーションの変容(もしくは、各固体(前出のコンピューターや、小さい所でのバクテリア、DNA等)のコミュニケーションへの相互反応など)に(3)や、まだ見ぬ(見えて無いだけかも)(4)の存在が内包されているのかも知れませんね。それ自体も、強大、微細のシステム(リミットサイクル)の1部かも知れませんが。

>もしかすると、シャーマンこそ、人間の生理や、誰もが思う共通の理解や無意識を、裏切る存在なのかもしれない。

裏切るという言葉にドキッとしてしまいましたが、人間のもちうる5感をさらに微分化し、脳(脊髄)の未使用な部分を開拓(訓練)していくと、シャーマン的な物(4)にたどりつけるのかも、、と空想してみました。


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