安斎利洋の日記
2005年05月26日
10:44
原始スープから始まる形の記憶
前の日記にコメントしてくださったyfujitaさんへ
>こうして星を見上げる私たちの体の中で「星座を彷彿させる作用」が
>現時点でも起こっているんじゃないか、そう思いました
綺麗な女の人の曲線や、ポルノグラフィーを見るときに、これは生命が分子進化以来、四十数億年かけて練り上げてきた幾何学的な成果に、やはり幾何学的な成果である自分の脳が反応しているのだ、と思うことがあります。
形がわかる、形に反応する、ということ自体がすごいことだ。星座作用は、そういう人間の不思議に迫りたくて始めました。
yfujitaさんが、生きた細胞を観察する仕事について書いていらっしゃる言葉、(
http://
mixi.j
p/view
_diary
.pl?id
=18736
523&ow
ner_id
=42956
9
から)
>物事のデザインは、私たちが調べるずっと前どころか、
>原始スープの時代から決定されているのだろうけども、
>それを初めて観察する時には、結果から立ち上がる物語
>をとても注意深く読み取るほかに方法はない。
僕らのセッションも、この言葉と深いところで呼応しているのが、なんだか心強く、誇らしく思いました。
コメント
2005年05月26日
11:51
imochang
子供と暮らしていると、子供の柔軟な視覚に驚かされます。
「なんで、これが、そういうものに見えるんだ?」という、形の発見の天才です。
でも、言われてみれば、そう見える。
原始スープの時代の子供たちは、まだ、結果のことなど考えていないから、彼らの周りには、ひたすら不思議がいっぱい溢れてる。
でも、最近、描く絵が「いかにも」って感じで形骸化してきて、ちょっとつまんない親。
ま、いつまでも原始人でも困るのだけれども、久々に野生が思いきりバクハツしている我が子の造形をみると、やはり「行けー! このまま突っ走れー!」と叫ぶ、野蛮かつアホな親・・・
2005年05月26日
11:53
安斎さま
セッション、ひとつの文化ですね。
今日の京都は快晴で気分が良いです。
2005年05月26日
21:59
なさ 飛鳥井
外界と脳、これらが共進化したことを忘れてはならないと思います。
だから「綺麗な女の人の曲線」は、ある意味では驚くべきことではないのです。
原始スープに関しては、『ザ・シムズ』の進化シミュレーションのゲームが出るみたいですね。
http://
hotwir
ed.goo
.ne.jp
/news/
cultur
e/stor
y/2005
052520
4.html
http://
hotwir
ed.goo
.ne.jp
/news/
cultur
e/stor
y/2005
052620
4.html
2005年05月26日
22:08
なさ 飛鳥井
「星座作用」、まだ理解していません。
星座にすることによって、何が生み出され、何が失われるのか?
連想したのは、記号化(symbol grounding)の問題です。
例えばワンワンと吠えるものに「犬」という記号が与えられる。
そのことによって、言語による思考という「高次」の機能が実現されるものの、記号から零れ落ちた多くのものが失われます。
この記号化と星座作用の違いが十分に理解できていません。
明らかに星座作用は記号化に含まれますが、星座作用の特質は何なのか。
仮想のものを想像する力みたいなものなのでしょうか?
2005年05月26日
22:54
>なささま
はじめまして。
>原始スープに関しては、『ザ・シムズ』の進化シミュレーションのゲームが出るみたいですね。
(ゲームの解説から)
プレイヤーは単細胞生物から始まるゲーム内の生命体(スクリーンショット)を、複雑な生物へと導いていく。
単細胞生物レベルは、既に原始スープからかなりの時間が経っています。
ミトコンドリアも細胞にとっては、お客様ですから。
もっと以前の出来事を指しているつもりです。
>星座にすることによって、何が生み出され、何が失われるのか?
我々の認識の中で如何なるものが失われようと、それは本質が失われることじゃない、そう思います。
私のうけるイメージは、「cosmo」でしょうか。
内なるcosmoと外界のcosmoは何処かで繋がっている、そんな感じでしょうか。
勿論、ひとそれぞれ定義は違うのでしょうけれど、それもcosmoと言うことで。
2005年05月26日
23:02
安斎利洋
>ある意味では驚くべきことではないのです。
そういわれると、なんら驚くべきことではないのかもしれない、と思っちゃう。しかし、エロスというのは、というよりエロスのメタ認知というのは、僕にとってはまだまだ驚きに満ちています。世界にあふれているエロチックな画像(エロチックでないものもたくさんあるけれど)の量をみるにつけ、人間が形態や画像に対する心の動きは、「見る」というより「発情する」と言ったほうがいいようにも思う。たとえば静かに陶器を見るときも、抑制のきいた発情をしていると考えるわけです。
一方で、形を見るということ、あるいは形が見えるということは、記号的でもあって、なささんの言う意味で、見ることはすべて星座作用なのかもしれません。見ることは、脳内の星座テンプレートとのマッチングプロセスと言い換えられるんじゃないでしょうか。
しかし、僕が星座作用に求めているのはこの「記号化」ではなく、むしろ記号をいったん捨てることによって、エロスを回復することです。だから、星座作用は、普通に見たらこう見えるという記号的な結合を必ず外す、ということを規則にしています。
星座作用という言葉を最初に思いついたのは、10年前にやった「天球連画」です。
http://
www.re
nga.co
m/tenk
yu/ind
ex.htm
ここで僕たちは、記号化した既存の星座をいったん捨てて、新しい星座を作ることを目指しました。プラネタリウムの球面に描くペイントシステムは完成したものの、星座のリコンストラクションの方は中途で止まっていて、ずっとひっかかっていました。今回は、この再起動という意味も込めています。
星座を作り直すというのは、いつかまたやってみたいと思っています。
2005年05月26日
23:09
安斎利洋
>単細胞生物レベルは、既に原始スープからかなりの時間が経っています。
シム分子進化くらいの単純なところで、ゲームを作ってみたいですね。グレッグ・イーガンの「順列都市」に、そんなゲームにはまる話がありました。
なささん、そういう企画の受け口、ありませんか。
2005年05月27日
03:07
miyako/玉簾
二才ぐらいの幼児が、マンガの簡単な形のゾウさんを見て「ゾウさん」を覚えた後、写真のゾウを初めて見た時に「ゾウさん」と言う不思議。
絵と写真では、全く違う色や肌をしているのに「ゾウである。」という事を全体的な形で解っているようです。
人の脳ってすごいと思います。
2005年05月27日
10:50
imochang
>星座を作り直すというのは、いつかまたやってみたいと思っています
星座表をみて、「なんでこれが?」と、納得できない星座はたくさんありました。
子供の頃、勝手に線を結びなおして、自分で星座をつくって、名前をつけたりしてました。
このときは私一人のひそかな楽しみだったのですが、大人数で星の取り合いをしながらバトルしたら、かなり燃えるかも。
それも大の大人がやる。
子供に戻りながらも、子供には戻れない視線で・・・
でも、きっと、うちの、へその曲がった娘も、似たようなことは、いずれやるに違いないです。
てか、それくらい、へそが曲がっていて欲しい。
玉簾さん、本当に、子供が形を認識していく様は興味深いです。
娘が保育園に行ってるので、1才代から、いろんな子供の造形に触れる機会がありましたが、個性さまざま、簡単なイラストと写真では違うもの・・・と認識する子もいます。
やがては、きちんと、これは絵、これは写真、で、同じ「象さん」と解るようになるのですが、うちの子は、結構、混乱してました。随分、腰くだけさせてもらえましたが、面白かった。
大体、保健所に1才半検診にいったとき、「これ、何かな?」と絵を見せられるのですが、あまりにベタで古風な絵の連続に、拒否反応、示したヤツ・・・
小さい頃から、かなり細かい形の認識や記憶ができたので(はっきり言って親にとっても驚異的でした)、逆に、全体としての形よりも写真の綿密なテクスチャーとかに目がいってて、そこに、また別のものを見ていたような感じでしたね。
子供が椅子を並べているうちに、偶然できあがる、すごいオブジェ(もちろん当人たちは遊んでいるだけ)も、かなりオツです。
ああ、毎日がシュールでリアルな「星座作用」・・・・
いや、子供一匹、飼ってるだけなんですけどね・・・・
私は、ごく単純に「星座作用」って、こういうことじゃないかと受け止めたのですが・・・
2005年05月27日
22:58
なさ 飛鳥井
yfujitaさん、こんばんは。
確かに『ザ・シムズ』のは原始スープじゃないですね。
yfujitaさんの「本質」は認識とは独立したものなのですね。
私にとっての「本質」は、「価値判断」によって揺れ動くものです。
あるものの本質を規定することは、本質とそれ以外に分ける作業で、何らかの価値判断を伴うものだと思っています。
星座作用も星座とそれ以外の部分に分けることの是非はともかく、人それぞれの分け方を知ることには意味があると思います。
ある意味では上で書いたのは、不変のものに変化を見ています。
逆に面白いのは、人間は変化しているものに、不変を見ることもあります。
自己同一性とか、知覚の恒常性などです。
yfujitaさんの「cosmo」はまだ理解できていません。
ユングの集合的無意識とは関係ないですよね。
2005年05月27日
22:59
なさ 飛鳥井
安斎さん、「ある意味では驚くべきことではないのです」と書いたのは、かなり意識的なレベルで考えるとです。
エロ小説の文章みたいですけど、頭で理解していても体は反応します。
そういう意味では「発情する」という言葉はすごく適切だと思いました。
「僕が星座作用に求めているのはこの「記号化」ではなく、むしろ記号をいったん捨てることによって、エロスを回復することです。」、ここも全く同意します。
「記号化をいったん捨てる」ことは非常に重要だと思います。
ただ、安斎さんも書かれているように、記号化のメカニズムは既に脳に埋め込まれているとも言えるので、完全に捨て去ることはできませんね。
2005年05月27日
23:00
なさ 飛鳥井
> なささん、そういう企画の受け口、ありませんか。
私の良く知っているゲーム会社は保守的なので、そういう企画は受けないでしょうね。(笑)
2005年05月27日
23:27
>> なささん、そういう企画の受け口、ありませんか。
>私の良く知っているゲーム会社は保守的なので、そういう企画は受けないでしょうね。(笑)
なささま。
応援してます。むふっ。
1つの案としては、原始スープから、どうにかホモサピエンスに辿り着くゲーム。
自分の判断に従うと、どうしても藻類から進化出来ない。
そんな時、「俺は外見はヒトらしいが、どうも、藻類なんじゃないかっー!」て落ち込む(?)。
ある日、良く理由が分からないけれども細菌になってる。
そんな時、何故かヒトであるはずのユーザーが手を叩いて喜ぶ。
フタを開ければ、実は、進化と同じ時間がかかっている結論になって、、
2005年05月28日
22:40
安斎利洋
yfujitaさんからのメッセージ
>ただ、ひとつ思っていたことは、どうして充分条件が1つなんだろうと
>いうことです。 いろんな図から出た矢印が、またいろんな形で合流して
>ゆく。私たちの意識もそういった形で形成され、発展しているんじゃ
>ないか、そう思います。
これは僕にとって重要なテーマなので、もったいないからこちらにコメントさせてください。
爆発的な増殖が、木の構造に結びつくのは必然的であるにしても、かならず次の段階として合流が問題になります。カンブリアン・ゲームでは、異なる枝の間で影響しあったり、同じテーマが同時多発したりします。
多重継承や、あるいはリゾームといったグラフ構造があることによって、システムは循環をもつのだと考えます。カンブリアンのシステムの中で、リゾームや、複数の親をもつことを、どうやっていくか。プログラム上では簡単なことですが、どうやってプロジェクトのコンセプトと折り合いをつけていくか、ということを考えていて、近いうちになにか実験をしたいと思っています。
2005年05月28日
22:49
安斎利洋
>安斎さんも書かれているように、記号化のメカニズムは
>既に脳に埋め込まれているとも言えるので、完全に
>捨て去ることはできませんね。
このテーマ、「星座作用」を考えるうえで重要なヒントになっています。なささんに感謝。
赤ん坊がはじめて街に出たとき、世界はどうなんだろうか、ということを、星座作用のネタ探しの散歩をしながら考えます。なにかをなにかに見てやろうとして、きょろきょろ歩く体験は、赤ん坊がはじめて、町の記号と渡り合うときの感覚なのではないか。
そんな実感をたよりに、このことはもうちょっと考えてみたい。
2005年05月29日
00:31
私が最初に思いついた木が、ガジュマルだったんで。。
以前の作品である、顔ポイエーシスの『タブラ・ピクシマ』をぼんやり眺めてました。
これらの情報が、DNA塩基(ACGT)もしくはアミノ酸に変換されていれば、系統樹くらいなら直ぐにでも書けるのだけれど。
>赤ん坊がはじめて街に出たとき、世界はどうなんだろうか、とい
>うことを、星座作用のネタ探しの散歩をしながら考えます。なに
>かをなにかに見てやろうとして、きょろきょろ歩く体験は、赤ん
>坊がはじめて、町の記号と渡り合うときの感覚なのではないか。
本気で赤ん坊をされている人は清々しいですね。
変な意味ではありません。。。
2005年05月29日
20:17
なさ 飛鳥井
赤ん坊までしか戻れないのか。
赤ん坊も自然淘汰の結果なので、全く白紙と言うわけではないこと。
赤ん坊まで戻れるのか。
赤ん坊は脳が未発達で、大人の脳とは既に違うこと。
最近、記憶関係を調べたのですが、3歳までの記憶がないのは、海馬などが未発達なので、エピソード記憶を蓄積できないみたいです。
2005年05月30日
13:23
ユミ
(^^)
2005年05月30日
23:38
安斎利洋
>赤ん坊までしか戻れないのか。
>赤ん坊も自然淘汰の結果なので、全く白紙と言うわけではないこと。
人間は生得的に見えるものがあるように、生得的に見えないものもある。
生得的に見えないものは、後天的にも見ることができない。
つまり、絵は無限ではない。
人間は、ある複雑さをもった問題を考えられない、というのと似ている。
だったら、なにかによって、人間には見えないものを、人間に見えるものに
置き換えることってできないだろうか。
ということを、昔から考えています。
>赤ん坊まで戻れるのか。
無垢の感覚に戻ることは絶対にできないけれど、錆びた銀の表面を磨くように、日常的なアフォーダンスに慣れてしまった感覚を、不慣れな感覚に戻すことはできるはずです。
アートの本領は、世界と不慣れな関係を作ることじゃないか。
(なささんのつっこみ、すばらしい)
2005年05月31日
01:59
purified
2005年06月01日
00:42
なさ 飛鳥井
安斎さんの書かれたように、絵が人間にとっての絵なら、人間の視覚特性に依存しますし、見る人の過去の経験にも依存しますね。
また、人間の知覚できないものを、人間の知覚領域へ変換することは、ひとつの新しい体験ですね。
岩井俊雄さんのサウンドレンズを着けて原宿の町に出たときは本当にそう思いました。
私も世界の見え方が変わるようなものを作りたいと思うものの作れていません。
それから、「生得的(先天的)に見えるもの、見えないもの」の話がありましたが、経験的(後天的)に見えるもの、見えないものの話もあります。
有名な実験ですが、縦縞だけの環境で育てられた猫は、横縞を知覚することができません。
人はそれぞれの環境に依存したものしか見えていないのだと思います。
「アートの本領は、世界と不慣れな関係を作ることじゃないか。」には全く同感です。
だから安斎さんのようなアーティストは羨ましいです。
2005年06月01日
01:02
安斎利洋
なささんの「500個の風鈴の音を聴く」は、どこか懐かしいにもかかわらず、「不慣れな世界」を作るような予感があります。
後天的に見えるものが拡張するのは、たんに眠っているものが覚醒するのか、それとも自律的に感覚が組織されるのか、どちらなのでしょう。後者であることを、期待しているわけですが。
2005年06月01日
22:24
なさ 飛鳥井
風鈴はバレましたか。(笑)
バーチャルなコミュニティとリアルなコミュニティとの繋がりという表向きの理由があり、これにも興味はあるものの、真の興味は異次元の世界の音を聴いてみたいということです。
後天的と言っても、受精卵から発生する部分、赤ん坊からしばらくの期間、それ以降を考えると、どうなんでしょうね。
ここは専門ではないので、正確なことはわからないです。
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