安斎利洋の日記全体に公開

2004年09月22日
01:42
 太陽は地球の周りを回っている
『小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思い、3割は太陽の沈む方角を答えられないことが、国立天文台の縣(あがた)秀彦・助教授らのアンケートで分かった。』asahi.comより

最近の小中学生は、馬鹿だ。しかし、人類の脳は天動説の頃からさほど進化も退化もしていないはずだから、馬鹿なのは継承する知の本質を理解していない文科省と、その枠組みから自由になれない教育者なのだ。

人類の知の歴史にはハイライトがある。火を馴化したこと、未来を占ったこと、木の実を調理して食用にしたこと、繊維から糸を作り布を作ったこと、数学を発明したこと、恋愛を歌にしたこと、紙を作ったこと、武器を作ったこと、スポーツを始めたこと、地動説を思いついたこと、いくつもきりなく思いつくけれど、これらはみな大事件だった。

ここ数年教育現場と付き合ってきて気になるのは、美術や技術家庭科など実技教育の、異常なまでの軽視だ。絵を描くことは、国語や算数と同じようにプリミティブな思考の基礎になるし、プランニングやプレゼンテーションの訓練になる。そんな説明をしたところで、図工の地位はどんどん落ちている。

人類が継承してきた知のヴァリューを鳥瞰的に見ることができないから、木にクギを打ったり、米を炊いたりすることの感動を伝えられない。だから「太陽が地球の周りを回っているように見えるが、実はこちらが猛烈な速度で自転公転している」という世界モデルの感動と恐怖を語ることができない。語る必要も感じない。

学校に任せておくことはない、ということを、そろそろ考えなければ。
 

コメント    

2004年09月22日
02:20
大和田龍夫
天動説で考える子どもはすごいと思った私はやはりオバカでしょうか?単純に地動説を唱える子どもの方が危険ではないか?
なんて言うと怒られますか?
2004年09月22日
02:39
安斎利洋
>単純に地動説を唱える子ども

地動説って、単純なのかな。僕はびっくりした。

幼稚園のときに、隣の「ぼーちゃん」という子と天動説と地動説で大喧嘩しました。僕はもちろんガリレオで、彼は絶対に地動説を信じなかった。ある意味、ぼーちゃんの頑固さもすごいと思う。

それからぼーちゃんとは、小学校のときに太陽の色についても論争しました。ぼーちゃんは、太陽はオレンジ色と黄色だと言い、僕は黄色の中に青い円盤がある言う。そういう絵を描いて、僕は誰からも支持されませんでした。

みなさんのコペルニクス体験は、どんなんでしょう。ぜひ聞きたい。
2004年09月22日
02:59
mi
太陽と地球の話ではナイのですけど、
幼稚園の時、サンタクロースが一晩で全世界の子供のところにプレゼントを配るという話を信じている子がいたので、「そんなの嘘に決まってるでしょ、物理的に無理じゃない。」と言ったら、みんなから白い目で見られたような記憶があります・・・。

大人になって出会った人でも、サンタクロースのその話を信じている人がいて、驚きましたが、そんな風に言われると、だんだん自信がなくなってきました。やりようによっては配れるのかしら?

天動説・地動説はいつ認識したか記憶にないけど、アポロの頃の子供だから、きっとそれがらみでママに「太陽の周りを地球が回っててね、その周りを月が回ってるのよ」とか言われて、「ふーん」って、素直に信じたんじゃないかな?
2004年09月22日
03:18
びすけっと
その前に,昨日の太陽と今日の太陽が同じものだって,思うのが難しいですよね.あっちの山から出てきて,こっちの山に沈む.夜のあいだに,足の下を太陽が移動するとはどう考えても思えない.地球が丸いのがぜんぜん分からないのと同じ.

月がいろんな形をするのは,影なんだ,ってのもすごい発見.

僕は,あまりにも小さいうちに正解を教えすぎるのは,もったいないと思う.「赤ちゃんはどこから生まれるの」というのと同じくらいに,秘密にしておいて,自然界の不思議なことは不思議なままに,体験して欲しい気がする.

僕も安斎さんやmiさんと同じように学校上がる前から知っていたと思うけれど,いま考えてもやっぱり,納得出来てないと思います.
2004年09月22日
03:19
jun@NP
子供の頃、夜、祖父の自転車の荷台に乗って銭湯に行く途中の、
流れる景色の中で、月だけがついてくるのが不思議で不思議で。

地動説は、五島プラネタリウムの模型で、やっと理解したかも。
教科書の図と話では、全然わからなかったなぁ。


最近、相対性理論関連図書を読んでるんですが、
移動って、非常に概念的なものですよね。
自分が動いてるつもりが、
自分以外の全てが動いてるだけだったりして。
2004年09月22日
03:33
mi
ああ・・・そうそう、思い出した。
私、小学校の頃から(実は幼稚園から)電車通学してたのですけど、さっき電車に乗ってた自分と、今、駅で下りて歩いている自分がどうしておんなじ人なのかが、毎日すごく不思議でした。
2004年09月22日
08:53
ikeg
どんな座標系をとってもいいんだから、どっちのまわりに回っているという言い方そのものが不正確ですね。回転系は古来から、あるいは大学一年生も、人類の直感には訴えられないようです。
2004年09月22日
10:21
あきら
え?相対性理論になってから、天道も地動も意味が無くなったんじゃなかったんですか!?
2004年09月22日
12:03
安斎利洋
さっきテレビで毛利さんも、みなさんと同じようなことを言ってました。地動説に縛られることはない、と。

観測者はすべて同じ世界を相対的に眺めている、眺めることが可能である、という世界観が近代科学を育てて、そのほころびから現代の科学が育っているんだと思います。地動説を通過していない子供が、たとえばikegさんの研究室やびすけっとさんのところで、独特の世界を構築していくことは、ありえるでしょうね。一度焼いた野から新しい芽が出る、というように。

でも、この話のはそういうことじゃなくて、学校が瀕死の機能不全を起こしてるってだけの問題だと思うな。自発的に考える力、という金科玉条の盾の裏で、先生は何も教えないでさぼってるだけでしょ。小学校の先生が地動説を知らない可能性もあると思う。
2004年09月22日
12:52
はらこ
とはいえ…

天動説と地動説を乗り越えてこそたどり着けるのが、相対的な世界観だと思うんですよね。さまざまな視点があることを認識したからこそ、それらを相対化した物の見方が身につくんではないんでしょうか?

天動説を信じている子供たちってこのプロセスの入り口にも立っていない気がするんですよね。
物事を深く考えることもしないし、本などから先人の知識を吸収することもなく、ただ漫然と目の前に起きる現象を直感的に解釈するだけの日々を繰り返しているのではないかと…
目の前にある現象を表層的に認識することいくら繰り返しても物事を相対化して見る力は身につかないんではないかと思います。

地動説というのは天動説からの歴史的経緯も含めて、子供たちに「世界とは、実は多角的に見なければならないものなのだ。」と認識させる良い題材なのではないかと思います。
毛利さんの発言はこの考えがすでに身についた大人の発想で、これから身につけなればならない子供へのメッセージとして適切かどうかは疑問ですね。
2004年09月22日
12:58
るじ
http://homepage.mac.com/tuyano/iblog/C1653772498/E43012691/index.html

で、しょうださんが安斎さんと同じようなことをほえてました。

で、うちのおこさまが、まさに、宇宙はどーなってんだ
地球に生まれた最初の生き物はどーやって生まれたんだ
なんでなんで、あれってなに?これってなに?
なおとしごろで、、、。
るじに聞かれても、うまく説明できないので、
おとーさんに聞いてちょうだいとゆーことにしてます。
すんません。
2004年09月22日
12:59
ユミ
学校が瀕死の機能不全を起こしてる前に家庭が危篤状態なんでないんか?
うちは’ここがまぁいちばんましかなぁ’と思った和光に入れたが、、、学校は万能じゃない。それにさ、親がね何分にもワタシですからっ!結果は推して知るべし。

でもさ、大事なことはちゃんと食べて寝て今を楽しんで生きることさ。
上級学校のために今を我慢する生活なんて!
人としてまっとうってのが子どもにとってもいちばん自然ですよ。
2004年09月22日
13:22
ユミ
しょうださんのトコに私の言いたかったことが
頭よく書かれてあった。
これからうちでは、大事なことはしょうださんに聞いてって言おう。
2004年09月22日
14:02
安斎利洋
>しょうださんが安斎さんと同じようなことをほえてました。

同じようにほえている、と思われると非常に心外なんで、補足。

いい本っていうのは、目次を見るだけで、ばっちり「この著者はわかってるな」と直感できるもんです。小中学校教育も一種の本で、タイトルは「人類の知」。開いて見ると、目次を見るだけで「こいつはダメだろ」と思う。本屋に並んでいたら、誰も買いませんこんな本。目次を作ってるのは文科省で、監修者とか共著者も、やっぱり馬鹿なんでしょう。

「人類の知」は多面的ですから、著者によっていろんな書きかたがあっていいと思うんですが、もし地動説を教えないんだったら、その前に赤色偏移の項を立てちゃうとか、そういう独特の展開にしなくちゃ、やっぱり本としてダメでしょ。

いわばページ数が限られた本ですから、そこにどう組み立てるか、というのはかなりの知恵を必要とします。図工の時間を削るかわりに、図工から算数を始めたりする圧縮技術も可能なはず。

それ以前に「人類の知」を伝承する気概みたいなものがないから、もうスカスカの本なんだよね。つまらない目次だてをしているわりには、総合学習という印刷していないページもあったりして、ツカ見本みたい。現場の先生は、その空白を埋めるのに苦労していたりする。

もうちょっとまともな本を作るためには、どうしたらいいか、ということを僕のいまの立場から考えると、搦め手から攻めるんだろうな、ということになります。搦め手に人が集まっている気配は、あります。
2004年09月22日
14:32
安斎利洋
>さっき電車に乗ってた自分と、今、駅で下りて歩いている
>自分がどうしておんなじ人なのかが、毎日すごく不思議でした。

僕も10歳くらいのとき、この不安がありました。寝る時に、翌朝自分を再び思い出すために、自分だけがわかる絵を枕元に置いたりしました。自分を忘れたら、自分だけがわかることもわからなくなるはずなのに、そこいらへんがちょと馬鹿だった。

「自分はいつか死ぬ」ということを考え始めて、夜毎うなされたのは、同じ時期だったかもしれない。

自分の見ている赤と同じ赤を他の人も見ているか。別な色に見えているのに、同じ言葉で言ってるだけじゃないか、という疑問もあって、これは同じように思っていたという人が意外に多いようです。自分は自分の観測者でもある、という入れ子状態で、一種の鏡像段階なんでしょう。

小学校6年のときに考えていたのは、鉄腕アトムの電子頭脳をコピーして、もうひとつ別のアトムに挿したらどうなる?という問題。自分がアトムだったら、どっちのアトムとして目覚めるのか。たぶん両方で目覚めるんだけど、体感としてどうしても想像できない。
2004年09月22日
18:04
るじ
し、しんがいでしたか。すいませーん。
頭が、こわれたときのために、頭のバックアップを
とっていって、頭がどんどん増えていくので収納にこまる、、、
とゆー話を描いたことがありました。

あ、話がずれてく。レイアウトもこわしてしまって、
すいません。すいません。そそそ。
2004年09月22日
19:27
あ っ こ
>>それ以前に「人類の知」を伝承する気概みたいなものがないから、もうスカスカの本なんだよね。

気概ですよねやっぱり!言い換えるとプライオリティコンセプトと設計の思想の欠如とビジョンクライシス。思うにとどのつまりが「知」って継承されるものなんだって感覚を持っているのかな?って思う。小学校や中学校の時、毎日疑問に思っていたのは、何で歴史を近代からやらないかってことだった。教えなきゃいけないことと自分で考えろってことを混同したり。

>現場の先生は、その空白を埋めるのに苦労していたりする。

我が親父様くらいの年代は教科書っていってもまるで伏字のエロ本(正確には発禁)みたいになった墨消しの教科書で勉強した世代。既存の否定と貧困(思想的な)を完全に受け入れたところからそれは始まり、現実的には教員の多くは心底開放感に浸ったという。何もないことが開放感につながる、そこから湧いてくる気概に裏打ちされたアイディアが教育を支えた時代は一瞬であったかもしれないが確かに存在した。目次自体を自分たちでつくりながら学んだのだろうと想像できる。

とにかく学校が大嫌いな私だからおおきな声で色々言えないが、強烈に記憶に残っている授業風景が2つある。これはとにかく学校が嫌いな生徒の記憶に残ったというだけで価値があると思う。1つ目は私の経験上一人だけ歴史を近代から教えた社会科の野口先生の授業だ。教室に入ってくるや開口一番とてつもなくでかい声で「帝国主義とは、はい!!わかる方!!!」とがなりたてる。手を上げて答えに行き詰ってもアウト!手をあげなくてもアウト!って地獄だと思うかも知れないないが記憶って不思議でいやなことはわすれて、肝心の「内容」だけしっかり脳みそに刻まれた。技である。2つ目は古典の市村先生この先生は同僚の教員からの評価はきわめて低かったと聞くがこの人がいなければ私は日本語の美しさに開眼しなかったのではとも思う。授業風景は教壇にたつや矢継ぎ早にとにかく朗々と詠むというスタイル。詠んで詠んでよみまくって、最後に「質問は?」ととても静かにたずねて終わり。これぞ究極のエンターテイメントって当時は心から感動した。今でも心に歌の美しさが先生の声と一緒に宿っている。

>さっき電車に乗ってた自分と、今、駅で下りて歩いている
>自分がどうしておんなじ人なのかが、毎日すごく不思議でした。

自我が育っていく時間軸と「知」の継承の連鎖に取り入れてもらうための準備とはほんの少しずれるかも知れません。特に日本は義務教育で「哲学」をやらないから実際は大きくずれるかな。結局自分で解決しないといけない問題って結構あった記憶があります。

あの頃の疑問が今でもそのままって奴も結構ありますし。

それにしても教えるとなるとそれだけでゆがみを生じさせることは事実で、多様性を維持しながら「知」の共有をめざすシステムって欲しいですね。
2004年09月22日
23:23
安斎利洋
>し、しんがいでしたか。すいませーん。
るじさんは、心内です。

>あっこさん
歴史教科書の問題も、目次の数だけ世界観があるという意味では同根の問題ですね。そういえばナショナリズムは、一種の天動説か。
2004年09月23日
00:14
あきら
>「強烈に記憶に残っている授業風景」
中学校の時の藤田先生という理科の先生の授業です。
地球がパチンコ玉だとすると月は梅仁丹太陽は
1.5mに広げたダンボールの大きさだということで
グラウンドに出て行って、日食の実験をしました。
このスケールだと月と地球の距離は腕を延ばした
位になるので、梅仁丹がダンボールをすっぽり隠す
距離を探すわけです。
宇宙ってスカスカなんだと思いました。
ちなみに、電子と原子核の間もスカスカだって
後で知りました。
教科書って紙面の都合で近くに書きすぎですよね。

関係ないけど、火山帯って一所懸命に覚えたけど
今じゃ意味無いんですよね?
2004年09月23日
00:39
あ っ こ
デッサン違うなーって思った保健体育の人体図。余計イメージ崩れてわかりずらくなる理科の挿絵とか面白いおもちゃはいっぱいあった!!

先日ひょっこ中学の時の地図帳が出てきておどろいた!自分でもあきれた、私にとって教科書はスケッチブックの代わりだったようです。

>宇宙ってスカスカなんだと思いました。
リアルにイメージできるってすごく大事ですよね、藤田先生の授業はきっと面白かったのではないでしょうか?

とどのつまりやっぱエンターテイメントってことでしょうか?

2004年09月23日
02:42
mi
えんたーていめんと\(^o^)/それだ!

>寝る時に、翌朝自分を再び思い出すために、自分だけがわかる絵を枕元に置いたりしました。自分を忘れたら、自分だけがわかることもわからなくなるはずなのに、そこいらへんがちょと馬鹿だった。

あの・・・コレ、(オコラナイデくださいね。)
本人はしごく真剣だったのでしょうけど・・・すごく可愛い〜(はぁと)♪

そぉいえばね、もうひとつ、思い出しました。幼稚園の頃毎晩寝る時にいろんなものとか私はどこから来たかを考えながら寝るの。天井見つめて・・・「えっと天井は木から出来てて、木は山の中の・・・、トコロで私は人類ってやつで、これは昔は・・・」とかやっていくと、いつの間にか自分もオッキナ地球の中に溶けていく(っていうか、逆か、地球から溶け出してきた)ような感覚に包まれて、それで眠りに落ちるっていう・・・。それ、ほぼ毎日。多分そのことがあったから応用物理(物理工学≒物性系)に進んだのだと思う。そういうお話聞きたかったの。

でも、一通りお話聞いて満足したその後は・・・・

もちろん、えんたーていめんと\(^o^)/!
2004年09月23日
03:25
あきら
>藤田先生の授業はきっと面白かったのではないでしょうか?
あい。面白かったです。あと、先生の勉強会に参加させてくれました。
おかげ様ですっかり理科が好きになって、理科な大学に行って、すっかり理科が嫌いになって、3年で卒業(自分的に)しました。

>トコロで私は人類ってやつで
すごーーーー。幼稚園の時、自分が人類だって知りませんでした。地球がおっきいってのも知らなかったかも。
そーゆーのは、みんなまーちゃんに任せてた。
2004年09月23日
08:33
ikeg
話がすっかりずれてますけど、相対的にものをみることと、相対性理論とは関係ないし、地動説vs天動説と相対性理論も関係ないでしょ。うーん、なんていうか、科学的知識の伝達不可能性は、小学校に留まらない。
2004年09月23日
09:25
安斎利洋
この場所で話がずれないことを求めるのは、そりゃ無理だ。
2004年09月23日
11:55
あ っ こ
>この場所で話がずれないことを求めるのは、そりゃ無理だ。

話ずれるの大好き!っていうと皆さんに怒られると思うけど、人間って話がずれるように出来てるとこもあるみたいですよ。概念は構築できるのかもしれませんが、言葉ってゆれる、以前コミュニケーションのワークショップでやった伝言ゲームのワークはみんな大笑い!

それとはは別に
>自分の見ている赤と同じ赤を他の人も見ているか。別な色に見えているのに、同じ言葉で言ってるだけじゃないか、という疑問もあって、これは同じように思っていたという人が意外に多いようです。

上とは逆のこととして、概念もゆがむことってあると思うし、実際「あお」っていって年齢別に認識している色を選んでもらうと、おそらく寒色系のなかで幅が出てくると思います。ある意味違う色を見ている??ってこと?
認識って面白いですよね。
2004年09月23日
13:19
mi
>相対的にものをみることと、相対性理論とは関係ないし、地動説vs天動説と相対性理論も関係ないでしょ。

そっか、かんけいないんだ、しらなかった・・・。
2004年09月23日
16:13
あ っ こ
相対性理論(Theory of relativity)ってアルベルト・アインシュタインっ物理学をやってたおじさんが考案した理論で E = mc2ってどこかで見たことあるやつ、これはこのひとが考えた相対論的質量を運動エネルギーの式に代入したもの。それまでの学説は(絶対静止空間)を想定の基準にした考えかただったのにたいして、相対性原理にもとずく理論構築と思考実験をしたことでこの名前が付いたみたいです。ガリレオさんとかを一回否定した形かな。でもよく考えると絶対と相対の間を行き来してこそある日「あれ??」ってところにたどり着く。これは相対的にものを見ることと遠くないとも言える。と無理やりもどしてみました。お疲れさまでした。

2004年09月23日
16:24
安斎利洋
>うーん、なんていうか、科学的知識の伝達不可能性は、小学校に留まらない。

2ちゃんのスレッドなら、この100倍くらい辛口悪口雑言が飛び交いますね。匿名でないと、つい話がぬるくなる。

SNSの未来形は、エラボレーションとかフォージとかに突破口がある、なんてことを考えさせられました。
2004年09月23日
21:58
eto
エラボレーションとかフォージって、なんですか?
2004年09月23日
22:08
ikeg
いいんだけど、話ぼくもずれるの好きなんだけど、そういう場じゃないしね、ただ、地動説/天動説より、ここでの相対論の誤解はつらいので。mixiって2ちゃんとちがって仲良しっぽい会話が続くけど、それって全く2ちゃんの正反対だけに同じものを感じるのは僕だけか。安斉さんに期待。
2004年09月23日
23:57
びすけっと
地球で,西から東に進む光と,東から西に進む光があったとき,これまでの考えだったら,当然東から西に進む光の方が速いはずなんだけど(逆かも),測定したらなぜか両方同じだった.で,そういう不思議もあるんだと決めてしまってもいいんだけど,それを不思議じゃないと思う理由を考えたくなる.
それで思いついたのが動いたら空間がゆがむという,とんでもない屁理屈.どれくらいゆがむかというと,光の速度だけは一定となるように,式を無理やり考えた.まあ,空間がゆがんでいないとかって誰も確かめたことがないけど,光の速度は実験で確かめちゃったんだから,確かめていないものを疑うしかないわけで.いろんな学者がちょっとずつ話をすすめて,最後,アインシュタインがきれいな形でまとめた,という感じでいいでしょうか.

ニュートン力学よりも,空間と時間に関して相対的なので,相対論と呼ばれてますけれど,光速度一定という絶対的なものが一つあるので,それからみると決して相対的ではないですね.

レーザ光線が発明されたから光の速度が測定できたわけなんで.テレパシーみたいな,わけのわからないものが発明されたら,光速度一定もくつがえされるかもね(これは冗談で言ってるんだけど,こんな期待を子どもたちに持たせていいのだろうか).

ちなみに,ガリレイの相対性原理というのもあります.電車が一定に動いてる時と,停まっている時で,中では同じ物理法則が成り立つというものです.
2004年09月24日
02:20
安斎利洋
>エラボレーションとかフォージって、なんですか?

立花隆が確か東大講義の本で、講義のあと、小林秀雄もヴァレリーもテイヤール・ド・シャルダンも全集買って読み返し、一年くらい推敲(elaborate)して本にしたんで、書籍が本番、講義はドラフトだ、って書いていました。大江健三郎もサイードの「音楽のエラボレーション」を引いて、文章を推敲することは、自分自身を作ることなのだというようなことを言っています。こういう感覚、僕は非常に共感します。

すると、ブログもソーシャルネットもBBSも、いわばドラフトの自分を作り出しているわけで、投げ出した自分はいつ本番として仕上げるんだろう、という保留感が常に残ります。

インターネット以前の世界では、知識の推敲と未来への継承は、大学や美術館や出版社などの権威が、その機能を果たしていたんだと思いますが、電子メディアはそれができない特性をもっている、ということではないと思う。

いまのmixiの空間は、マンションの管理組合でアート・プロジェクトをやっているような違和感があって、その奇妙さがここの面白さのすべてだと思う。これが、たとえば暗黙の知識共有の場に分化していったら、たいして面白くはないはず。この混在感のままに、知を鍛える空間の構造を作っていけばいいんだと思う。

いま僕は料理の話をすることに凝っていて、面白いのは、何十年もかけてウソがそのまま継承してきたとしか思えないような意味不明のレシピが、ネットのなかの膨大な料理活動で鍛えられてる感じがする(ちゃんと調査していないただの印象ですが)。こういうことを顕在化させる仕組みはなんだろう、ということを考えます。

ikegさんの研究室の鈴木健さんが、彼のピクシーをおしひろげた「信頼の伝播するソーシャルネット」を考えていると聞きますが、そういうビジョンに期待しています。

SNではありませんが、僕は浮力のついたカンブリアン・ゲームというのを考えていて、アーティクルをノードとする木が水中で成長していって、過去の方は化石化するんだけれど、多くの子孫をもつ枝は引っ張られて、現役として生き続ける、というモデルです。forgeというまでいかないかもしれませんが、すくなくとも、自分がつまらないと思う小さい枝は無視できるし、大事なことは日記のようにどんどん過ぎていくことはない。

以上、etoさんの一行とともに、ikegさんにも多重継承したつもり。
2004年09月25日
10:49
安斎利洋
これで終わり?
2004年09月25日
21:23
mi







(・・・・みんなシャンツァイの種になたぁ〜。)
2004年09月25日
23:17
ikeg
ネットの選択圧というのが、悪貨が良貨を、でなければいいですけどね。何年か前にアメリカの複雑系ネットがあったけど、あまりにとんでもになってきて、みんなやめちゃった。とんでもかどうか、の境ってむずかしいんだけど、水に言葉かけてきれいな氷をつくっちゃうとか、いろいろあるでしょ。
2004年09月26日
08:06
安斎利洋
>ネットの選択圧というのが、悪貨が良貨を、でなければいいですけどね。

そうなんですよ。究極の民主主義は究極の衆愚、という可能性は常にあります。人間が勝手に賢くなれるシステムって、ないんでしょうか。
人間そのものが悪貨だ、という考え方もありますが。
2004年09月26日
09:27
ikeg
多様性が増す方向に選択をかける、しかないでしょうね。
hard selection じゃなくてsoft selection
2004年09月26日
13:53
安斎利洋
人間が考え出した「善」の概念は、たいてい「多様性が増す方向」を向いていると思う。人間というより、生命の戦略というべきかもしれませんが。

せっかくikegさんがいるのでお聞きしたいのは、悪貨ばかりになりはじめたときに、良貨を温存するような、たとえば政治や社会ネットワークや電子メディアを、実践的に設計していこう、なんていう研究はあるんでしょうか。有性生殖のように多様性を潜在的に記憶するような政治システム、というような。

2004年09月26日
18:46
ユミ
>人間が考え出した「善」の概念は、たいてい「多様性が増す方向」を向いていると思う。人間というより、生命の戦略というべきかもしれませんが。

なんか、カンドー。
柔らかくて、他人に優しいと、あ、こいつは頭良いなぁ、、、っておもう。
2004年09月26日
20:38
mi
えんとろぴぃとなんかかんけいがありそうとおもうのだけど・・・むぅぅ・・・。
2004年09月26日
23:02
ikeg
安斉さんのいうのは面白いですね。研究そのものはまだあまりないですが。僕は古い規則とかしきたりっていうのは、社会の記憶機構だし、多様性の温床になる気もする。つまりできるだけ慣性を大きくしてやって、遅いタイムスケールのものがネットの中に存在できるようなこと。優性生殖が即時的淘汰からの回避というモデルはうまく機能するだろうか。
2004年09月26日
23:10
mi
ぁ・・・・・そっか。
2004年09月26日
23:15
あ っ こ
ささやかな質問です

>有性生殖のように多様性を潜在的に記憶するような政治システム、というような。 (安斎さん)

>優性生殖が即時的淘汰からの回避というモデルはうまく機能するだろうか。(ikegさん)

と、この間の流れの中に二つの「ゆうせいせいしょく」がありますが、この場合あまりの意味の違いから間違うと結構大変な議論が予測されるので、どっちの意味?で統一?するしない?
2004年09月26日
23:59
安斎利洋
あっこさんはたぶん、「優生」と勘違いしていると思いますが、この話題は、有性生殖の遺伝子が優性劣性ふたつの情報をもっているから、「優生学」のように一様化しないで多様性を保つ、という話です。ご安心ください。
2004年09月27日
00:33
あ っ こ
初め(安斎さんのほう)を読んでいるときは以下のように理解していました。
>有性生殖の遺伝子が優性劣性ふたつの情報をもっているから、「優生学」のように一様化しないで多様性を保つ、

けど、、、、あ!理解。ごめんなさい問題なし。

内側からと外側からの言い方の違いに気が付くのが遅かったのね!!あらま!!でもちょっとikegさんのコメントはわかりずらかったです。すみません。

以前から自分の中のテーマが多様性ってことだったりするからつい「見つめてしまう」けど「ながめる」ように見ることも大切ですよね。(自問自答:しゅわっちさんからの格言)

この多様性の議論すごく大切なようなきがするのです。パリで友人がやっている雑誌も「複数」がテーマ。
いつか人間が自分の存在を含めての多様性のシステムを利用できるところまでになったら、おおくの問題の「解」が導きださられかも知れないって思うのです。

ちなみに私なりにこの問題を考える時、「枠」にしていることは、「問題をもとあった場所にもどさない」です。
2004年09月27日
01:13
安斎利洋
>主にikegさん

有性生殖でなくてもいいんですが、自分の好むと好まざるにかかわらず、自分の表現形とは異質ななにかを、遺伝子の運び手として次世代につないでいく役割を何かが果たさないと、社会も文化も、慣性の小さい脆弱なシステムになっちゃう、ってことですよね。

でも、自分の伝えたいものでないものを、知らずに伝えていく、っていうのは、具体的にイメージしづらいですね。

いままでは、政府とか大学とか大企業とか、権威と呼ばれる組織がトランスミッションの役割を果たしてきたんだと思いますが、だんだんいろんなものが個人にシフトしてくると、p2pで共同でデータベースの信頼性を管理するような具合に、社会や文化を設計しなおすべき時なんでしょう。

野次馬的には、社会学や政治学の人たちがikegさんたちと共同で何か生み出す、なんてシナリオがわくわくします。
2004年09月27日
01:46
mi
ふぅ〜むぅ・・・、わかってきたぞぉ・・・。

私も安斎さんが結局どうやってプカプカさせるか・・・ワクワクしてます。

(アッテル?)

2004年09月27日
03:25
あ っ こ
>野次馬的には、社会学や政治学の人たちがikegさんたちと共同で何か生み出す、なんてシナリオがわくわくします。

あのさらに野次馬的なのですが、これに加えて文化人類学と哲学の人とかも共同作業するとさらにワクワクしそうな気がしませんか?ほんとに野次馬かも、、、

 安斎利洋mixi日記 一覧へ