安斎利洋の日記全体に公開

2006年07月05日
16:07
 料理を料理する
中村さんのところでも桃のパスタの実験が始まり、もしかするとちょっと負けたかな?
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=169130305&owner_id=64544
まだ決着はついていないけれど、闘志に火がつきそう。料理の本当の楽しみは、料理することより、料理のレシピを料理すること。

僕は料理の本を買ってしまう病気があるので、本棚ひとつくらい料理本だ。にもかかわらず、最近はまずgoogleに頼る。

でも、膨大なネット上のレシピはたいていどこかからのパクリだ。パクられたレシピも、またどこからかのパクリだ。だから、ヘンなノイズ料理を繰り返しいろんなサイトで見てしまう。

本やテレビ番組の料理情報も同じようなもので、ちゃんと再現してチューニングされているものと、思いつきを並べただけのガセ料理がそのまま繰り返されているものも多い。試行錯誤をくぐり抜け洗練された情報は、そんなに多くないんじゃないだろうか。

こういうのを、情報として可視化する方法って、ないかな。
 

コメント    

2006年07月05日
16:46
あ っ こ
料理ってカンブリアンににているな〜と思うのです。

連画で始めて遊んだときに強烈に料理をしているような錯覚にとらわれました。

料理はパクリの連鎖だと思うのです。
料理って歴史的に積み上げられた味の技術の束の上に縦横無尽に生える樹木のようだともいえるかも。


特に私の料理の仕方は、「この味を出すにはこの技術」とワンセットで記憶してレシピじゃなくて味のイメージで脳みそにしまい、時々で材料をみて脳みそからあれとこれとそれってひっぱってきて組み合わせて料理します。(ぐちゃ系)
それから色々な国の料理を食べて一回は必ずレシピなしで味だけで再現する実験をします。材料選びがすごく楽しいです。
もちろん知らない味だってたくさんあるから冒険!めちゃ楽しい。

伝統料理や薬膳のような経過が細かいものはレシピを確認しますが、そのほかはレシピってあまり見ないです。

スープで連画ってののを考えたことあります。
実験は肉、魚、植物、のそれぞれの出しをしっかりとって、ブレンドする、次の人に飲ませる、次の人はさらにそれを展開するってな具合。でも可視化するのがアイディアないです。
味って目をつぶっても描ける絵かも。
2006年07月05日
16:54
安斎利洋
そうそう、そういうイメージなんです。

音楽だって俳句だって、作品を小さいモジュールに分けると無数の他人からのパクリの組み合わせになるんですよね。ところが、そのなかには組み合わせても意味のないものや、感性をはぐらかされてしまうものも無数に含まれる。パクリの組み合わせの中に、チューニングされた非常にわずかなピークがあって、それを捉えられるかどうか。

そういうピークが見える仕組みは、たぶんカンブリアンのようなものになると思う。でも、カンブリアンは爆発的に情報を作るけれど、情報を研いでいく力はない。それを、ずっと考えているんだけれど。

料理のモデルで考えるのが、近道かもしれません。行列のできるカンブリアンリーフ、みたいな。

(行列のできる店は、まずい店も多いけどね)
2006年07月05日
17:15
べてぃ☆
ガセ料理が家庭の味という、うまい言葉になるんでしょうか??
2006年07月05日
17:19
安斎利洋
>ガセ料理が家庭の味

それ、あるなー。「今日テレビでやってたのよ」といいながら、いろんなもの食わされた記憶が。。。。

にんにくを乾燥させて作った丸薬みたいのを、1年飲まされ続けたこともある。あれはいったいなんだったんだ。
2006年07月05日
17:25
安斎利洋
「ガセ料理が家庭の味」で思い出したんだけれど、NHKのためしてガッテンで、カボチャはなぜ甘く煮るのかについて、すばらしい見解があった。

http://www3.nhk.or.jp/gatten/archive/2004q3/20040908.html

『1960年代まで日本では、この日本かぼちゃが主流でした。ところが、今やかぼちゃの主流は甘みの強い『西洋かぼちゃ』です。つまり、日本かぼちゃの調理法がそのまま西洋かぼちゃに適応されていたことこそが、かぼちゃの煮物が甘すぎる理由だったのです。』

つまり、素材が変わったのにレシピが残ったために、そのまま「ガセ」化した、と。

こういうチューニング、すばらしいな。それでもなお、甘く煮すぎたカボチャは世間から消えない。
2006年07月05日
18:42
あ っ こ
わたしはカボチャ煮に決して砂糖は使わないのです。
祖母の作ってくれた料理の味を思い出し、味のイメージで調味料を決めているからです。昆布出しに塩かわずかにみりん、又はそのまま蒸し煮で調味料無しです。

レシピを見る習慣がないとこういう現象もおきます。だはは

口伝のレシピの場合は本人(ばばさま)がいちいち注文をつけるから口論のピークも生まれます。だははははぁ
菊の形のカボチャを買ってこいといわれても、ないものはないです。

俳句と料理の共通点を発見しました。
わが父の口癖でもあるのですが、

<<俳句は詠んだ瞬間に他者の感性へ直結して流れることが必要で決して我が物として完結することが無い。しかしどう詠むかがもっとも重要である。>>

とすれば、料理も食していただく方が無い(自分も含めて)料理はないわけで、そこが色々な「色」(安斎さん風にいえばガセ)を生みだす助けをしているのかもしれないですね。
この自己完結しない完成品というところ、おもしろいなと思います。

あとレシピ本は歴史物、いいですよ。江戸時代の料理とか始皇帝が食べた物とかなどなど読み物としておもろいですね。
日本人意外と肉食とか始皇帝は実は神経質な人かもとか勝手なこと色々。
2006年07月05日
21:32
中村理恵子
うちは、祖父ちゃんのカボチャ煮は、塩ひとつまみですね。
この伝統がわが家で、母が不在のときのみ父ちゃんの仕業で食卓に上りました。
2006年07月05日
22:50
eiko
> NHKのためしてガッテン

料理を科学するという視点は好感がもてますが、甘く煮たかぼちゃがなぜウケないかは、西洋かぼちゃの普及ということだけでなく、味付けに対する好みの変化という要素もない?

ぽってり甘い卵焼きやお正月の豆きんとんがだんだん喜ばれなくなってきたことと符合するのでは。

いま思ったこと。料理の素材や調理方法のバリエーションは多様化したけれど、味覚はもしかしてNHK味にあわせて平均化しているのかも。

> 情報として可視化する方法

ある瞬間だけだと因果関係がわかりませんが、Web上のレシピを定期的に観測・分析すれば、ある程度可能ではないでしょうか。レストランのトレンドやインターネットで放送される料理番組も加味できればさらによいかも。

ほんとは、アラブの遊牧民がペコペコの鍋で作ったシチューが、トルコや地中海、ヨーロッパを経て日本にやってくるまでの間に、ちょっとずつレシピがモディファイされていく、といった伝播を可視可できると面白いのだけど。
2006年07月05日
23:19
安斎利洋
>味覚はもしかしてNHK味にあわせて平均化しているのかも。

標準語というものはどこにもなかった、というのと同じですね。

カボチャの話は、出回っている品種が変わったというのは事実だとしても、もっと複雑な要因が重なっている可能性はあります。そもそも、昔どういう糖度の料理が食べられていたかという情報ではなく、たぶん記憶をたよりにしているので、たんに味覚の砂糖の水準が下がっている可能性は非常に大きいと思います。

僕の母方の祖母が亡くなったとき、栃木の田舎で葬式があり、そこで振舞われたガンモドキは驚くべき甘さでした。ほとんど僕には食べられないくらい甘い。それを近所の人々が「上手に煮たね」と褒めあっている。想像するに、昔の田舎の価値観は、砂糖を多くすれば多くするほど持て成していることになったんだろう。葬式のような儀式に、その文法が残っているんじゃないか、と。

>といった伝播を可視可できると面白いのだけど。

いいですねー。レシピをテクストと考えて、その力学系を可視化してみたい。
2006年07月06日
00:44
あ っ こ
味覚と仕事量は拮抗しているように思います。
肉体労働の割合が多かった時代(家事をするのにも洗濯板を使うとか)に生き延びるに必要なカロリーが違ったのではないでしょうか。(想像)
また産量が少ない、渡来品であるなど複数の要因で価値ずけられた食材の特別性もあいまった味覚のレベルには時代性も地域性もありますね

ヨーロッパのクリスマス用のパンのレシピを調べていた時に古典レシピほど油と砂糖の量が半端じゃなく多いことを発見したことがあります。そのままつくったら今では絶対に好まれない味になること間違いないでしょう。

かわりますが
九州の言い方で「砂糖屋が遠かったので申し訳ない」といいながら料理を出す習慣がある地方があると聞きました。
甘い料理が「美味しい料理」とされる風習があるのです。上記の言い回しは謙遜の意味で使われているそうで、「粗茶ですが」に近いものだと思います。

>といった伝播を可視可できると面白いのだけど。
パンの道
シルクロードをパン種が旅をする光景が目に浮かびました。
砂漠の真ん中で発生した種なしパンから日本の食パンまで、こうばしい匂いがただようなぁ
2006年07月06日
00:55
安斎利洋
>古典レシピほど油と砂糖の量が半端じゃなく多いことを

タイ料理の本を読むと、やはり砂糖だらけだよね。現代は砂糖が工業生産されて、お菓子も工場で作られるようになったわけで、そこを差し引いて考えないとだめでしょうね。四六時中甘みに接しているわけでなければ、あるところに集中していてもおいしく感じるのかもしれない。

それから京都の料理には砂糖が多い。またガンモドキは京都の発明品でしょ。栃木の葬式料理は、ある時期、田舎からみてとびきり都会的な料理だったのかも。
2006年07月08日
02:45
生ものへの、脅威というものが昔の人にはあるのだと思う。

甘くすればするほど、防腐効果は高まるから、
料理として成敗することの意味が高まるのではないのでしょうか?

昭和のはじめのいちごですら、
『疫痢になると言って、食べたことはなかった』と母が言ってましたし。
生野菜を食べる習慣もなかったし。手をかけたもの=もてなしとみなされる場合も多かったことでしょうし。

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