安斎利洋の日記全体に公開

2004年09月16日
01:04
 多産系の音楽
ミントやゼラニウムは、まるで小宇宙が宇宙を飲み込んでしまうように、アップル、レモン、パイナップル、ローズ、シナモン、ジンジャーなどなど、植物のさまざまな香りのヴァリエーションを一手に引き受けている、という話の続き。

フィンチにしても、蘭にしても、おそらく小さいパラメータの差が、大きな表現の違いを生み出す仕組みがあるのだろう、たぶん。

生まれたときから、多様なバリエーションを生み出す宿命をもった音楽がある。たとえばパガニーニのカプリースに由来する曲は、理由はわからいけれどめちゃくちゃ多い。ゼラニウムのように、変化を生む力をもっているのだろう。

でも、なんといってもバッハのゴルトベルク変奏曲の豊かな生産力にかなう音楽はない。ゴルトベルクのアリアは、バッハ自身の手で30の変奏曲を生み出しただけでなく、この変奏曲自身、無数の変種を生み出している。ゴルトベルク変奏曲の世界一マニアックな情報ページ「a30a'ゴルトベルク偏執局」を見ると、それがよく見渡せる。
http://www.a30a.com/
実はこれ、poohさんのページだ。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=84040

5年前、僕と、なかむら(中村理恵子)さん、それに全盲の画家、光島貴之さんの3人で座を囲んだ「触覚連画U」で、最初の種絵としてゴルトベルクのアリアを主題に選んだ。
http://www.renga.com/tactile/index_j.htm

楽譜をもとにしたこの最初の絵は、連画セッションの種になったばかりでなく、poohさんとの出会いも作ってくれたし、またおそらくa30a'のおかげで、ユリ・ケイン+ゴルトベルク変奏曲プロジェクトのコンサートプログラムを飾ることにもなった。

なんでゴルトベルクの遺伝子は、これほどまでにいろいろなものを生んでしまうのか?
 

コメント    

2004年09月16日
04:35
あ っ こ
J・S・バッハのゴルトベルク変奏曲を聞いて思うことはいつも万葉集のことです。サブジェクトが能動的変化を繰り返しながらサブジェクトダッシュへ結実してゆく様が、万物自然(宇宙)が総出で恋歌という出口へ向かってあふれ出す万葉詩のありようと重なります。

単純さが持つ多様性への可能性そのものであるという意味でもこの二つはきっととおくない存在なのだと感じています。


紫蘇科の植物がなぜこれほど多種を生むかは不明ですが、雑交配のしやすさと先祖帰りのはやさを同じく特徴としてもっていること自体に「組み合わせ」という数学的仕組みに支えられた遺伝子の仕事が見えます。バッハももちろん紫蘇科の植物が神に与えられた宿命を生きるのと同じく、数学的思考という自然の力によって音楽を自由に育てたのではないかとも思えます。その点万葉集は自然そのものをはらんで勝手に増えたということになるのかも。
2004年09月16日
05:11
安斎利洋
ゴルトベルク万葉集説は、すごく面白いような気がする。

気がするというのは、確信がもてるほど万葉集をわかっていないからなんですが、直感的な想像として、恋があって万葉集があるんじゃなくて、万葉集が恋を発明したんじゃないかと思うわけです。

新古今和歌集くらいになると、テキストがテキストを生み出す相互作用だけで歌の世界が進展しているような感じだけれど、万葉の頃は、歌がその時代になかった新しい感情を生み出し、発明していったのだと思う。

ゴルトベルクのアリアは、僕の勝手な連想は、恋人とか夫婦とかが、朝の布団の中でだらだらといろんな話を、とりとめもなくしてるような風景です。最初の2つのgなんか、「ねぇねぇ」と言っているように聞こえる。アリア一曲が、すでになにかの話題について二人が変奏を重ねているようにも聞こえます。

言葉あそびや音遊びだけでなく、なにか人間の息にかなった豊かで肥沃な、まさに万葉的なジェネレーターがあるんだろうな。

このことを、もうちょっと文学的な言い方でなく、数学的に考えられると、きっといまの自分の課題にダイレクトに結びつくような、気がしています。
2004年09月16日
12:56
あ っ こ
私にとって数学は夜中に突然出没するミスターG(ゴキ)のような存在です。がしかし友人で物理をやっている人間が数学は「リビドー」だ!!と切実に叫んだその日からなぜか私のなかで「数学は感じるもの」に変化しました。(ちなみに数学で赤点以外をとった経験がない)

音楽はまさに数学だと思います。近代音楽のあの不況和音ですらFという未知数で造る式になるようなきがする。もちろん気がするだけ。

ゴルベルクのアリアの>>「ねえねえ」>>説に賛成です。そうきこえますね。

又は、一人の人間が(男でも女でも)人生の中で一人目に出会って、二人目に出会って、、、、、出会いと別れを繰り返し反復しながら「変態」していく様のようにも聞こえます。そしてけっして出たところには返らず生きることそのものの変化と重なる。しかし変わらない芯は成長した大樹のようにそこにある。

文学の背景にも、音楽の骨組みにも欠かすことの出来ない要素として存在するミネラルのような「数学」であればこそ、安斎さんの仕事は間じかなような気がします。
2004年09月16日
14:20
るーぱぱas不良mixi
くんくん。オート・ポイエーシスの匂いかな?

音でも画でも字でも組合せ=バリエーションを広げていくと、どうしても大部分は隙間というか屑になりますよね。
そういう広い空間の中からいかにお宝を搾り出すか、あるいはお宝ツアーのナビゲーション。って話題から全然ズレてますか? 
まずお宝をどう定義するか(数学)、次にそれらを抽出する機構(アルゴリズム)を考える。っていうとスマートだけど、お宝が何にせよ、そういうものが単純に記述できるとも思えず、実は機構がお宝を定義するのだ。と少しひらきなおってみたい今日この頃です。

> 歌がその時代になかった新しい感情を生み出し、発明していったのだと思う。

なんだか激しく共感。。
2004年09月17日
00:36
安斎利洋
万葉集は、きっと、誰かの歌が、ほかの人の歌を誘発せずにはいられないような、そういう日本語が最も幸福な時に、葉が満ちるように連鎖的に成立したんでしょうね。その景色が見えるようです。

mixiやmlのアーティクルも、他人のアーティクルを喚起するときとしないときがあって、それは、何かを言い切っているかいないかの差だ、と思っていたんだけれど、そんな簡単なことではないですね、たぶん。思考の運動を喚起してやまない何か、があるか、ないか。

いい作品と、そうでない作品というのは厳然とあると思うんだけれど、「お宝」の評価関数というのは固定的ではなく、評価関数自身が動的に作品といっしょに作られていく、みたいなシステムなんだと思う。

もし、世界でいちばん理想的な音楽というのが仮想的にあって、音楽を作る行為がその理想音楽(最適解)をみつけることだとして、しかしそれは簡単には見つからないから、理想に近いお宝(ローカルミニマム)を無数に見つけることが作曲家の仕事だとしたら。

この話、1950年から70年くらいの前衛音楽が、ウェーベルンの末裔でなければ作曲家ではないみたいなセリエリズム原理主義に陥った時代のリアルな状況だと思う。(僕はけっこうこのハリケーンのような力強い破滅劇が好きです。それはそれとして、)セリエリズムが飽和して破綻していくのは、<理想音楽>が固定的だったから。理想は、どんどん逃げていかなくてはいけません。

20世紀後半のもっとも多産的な、つまりたくさんの連鎖を生み出した音楽って、ジャズだと思う。ロックだろ、っていう声は聞こえてくるけれど、それは人口が多いだけだと思う。

2004年09月17日
02:55
あ っ こ
ジャズの場合はシンクロするゆえの多産かなと。共振は微弱に物質的変化をともないながら連鎖します。セッションは振動する波と波のぶつかり合いから互いの生身が介在する物質的な変化すら伴いながら増殖する。このセッションこそこのジャンルが多産系音楽である証しではないかなと思います。

又ジャズには全く作意が感じられない部分が必ず存在すると思うのです、たぶん(私がかってにそう感じただけだから)。この無作為の瞬間「音」は自由に開放され、容易に他を呼び込む可能性をもった「瞬間」に変化する。その瞬間が「ジャズ」がジャズ自身で新しい何かをつかむ瞬間。この場合「多様」であること自体がジャズなのかも知れないと思います。
2004年09月17日
14:24
安斎利洋
>又ジャズには全く作意が感じられない部分が必ず存在すると思うのです

作曲した人の作為と、演奏する人の作為のぶつかりあい、という意味ではクラシックもロックも演歌も同じ構造だと思うんだけど、ジャズは作為と作為の隙間になにかありますよね。これ、同感。

誰か、20世紀の音楽はロックだろ、って反論してくれないかなー。
2004年09月18日
00:20
安斎利洋
この続きは、こちらで
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=123142
2004年09月18日
10:27
うぁ、いつの間にかこんなスレッドが。。(汗
なるほど多産系の音楽ですか。
多産系の一例にも関係しますが、

> ゴルトベルクのアリアは、僕の勝手な連想は、恋人とか夫
> 婦とかが、朝の布団の中でだらだらといろんな話を、とり
> とめもなくしてるような風景です。最初の2つのgなんか、
>「ねぇねぇ」と言っているように聞こえる。アリア一曲が、
> すでになにかの話題について二人が変奏を重ねているよう
> にも聞こえます。

Nancy Hustonという作家が書いた、タイトルそのものずばり
《The Goldberg Variations》という小説がそんなイメージを
カタチにしています。原書はフランス語。
「さ、お話ししますよ〜」とアリアが流れ出し、30章それぞれ
ゲストについてエピソードを書き綴っていくものです。

この小説が、小説をテキストとした朗読(Voice)と音楽との
コラボ・アルバムをつくり出しています。けだるい音空間が
流れて、これもまた不思議で面白いCDです。

引越?まだMixiの勝手判らずここに書きます〜。
2004年09月18日
14:36
安斎利洋
poohさん、面白い!

このまんま
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=123142
に書いてください。ぜひ。

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