安斎利洋の日記全体に公開

2006年06月23日
13:17
 ケータイの細胞壁
科学の知識は、大学とか学会とか出版といった俗っぽい枠組みとは関係なく、正しいことは正しい。

と、思われているけれど、いわば物理学における観測の問題と同じで、知や真理は入れ物(メディア)の制約を受ける。

昨日は、学環でミーティング+飲み会。飯田豊さん(http://d.hatena.ne.jp/yut-iida/)は、科学技術がその枠組みの中で生まれる研究をメディア論的に展開していて、僕らがリアルタイムに読んでいた創刊当時のトランジスタ技術やIOなど、アマチュアとプロの狭間に生まれた雑誌を研究対象として読んでいる。飲みながら、当時の話を若い飯田さんとしていると、時間軸がゆがんで面白い。

水越伸さんが、別の文脈で「他人の論文を読みすぎると、罠にはまる」と言っていたけれど、あらゆる知識はそういう言語ゲームの中で生まれる。デリダが偉大なのは、大量の論者に大量の仕事を作ったから、という言い方もできる。ウィトゲンシュタインが、ほとんど他の哲学を引用しないで自分の哲学を組み立てていったのは、罠を避けたのだろう。

昨日、これもまた別の文脈で、自分の大きな誤解を発見。携帯電話をセルラフォンと呼ぶのは、プランクトンのような単細胞に分かれた電話、というイメージをいだいていたのだけれど、実は地域を電波で覆う仕組みが細胞壁で区切られた細胞のようだから、だそうだ。びっくりした。

ケータイはノマドを連想させるけれど、実は外から囲まれているだけなのだ。
 

コメント    

2006年06月23日
15:04
何故か、飯田君の引用のURLが枠をつきぬけています。
おもしろいなぁ。URLは改行にないようになってるのかな?
2006年06月23日
16:36
Fibonacci
セルラフォンという言い方はシステム全体を適切に表現したネーミングなんだ。
2006年06月23日
16:43
安斎利洋
>システム全体を適切に表現したネーミングなんだ。

そうなんですよ。ケータイというのは端末ではなく、システムであるということを、つい忘れます。
水越さんに言われてはっとしたんだけれど、ケータイを見ながら歩いている人は自由なようでもあるけれど、実は『マトリックス』で背中のコネクタにケーブルがはめ込まれているように、見えないジャックにつながっている図でもある。

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