安斎利洋の日記
2006年06月18日
03:51
投影宴座
もし、ひとつの身体に二人以上の人格があることが承認されている世界であったら、犯罪者は、どのように罰せられるのだろう。久しぶりに乗ったJRで、中吊り広告にある小学生殺害事件の見出しを読みながら、そんなことを考えた。犯罪を犯した人格だけを、罰することはできるのか。
五反田にて、プロジェクタを囲む映像の宴、投影宴座第二回目があった。
中川邦彦(N_apostrophe)さん、お嬢さんの中川伊希(psichering
)さん、草原真知子(machiko)さん、今間俊博(耕馬)さん(プロジェクタありがとう)、中村理恵子さん、Jetsonさん、miyoriさん(幹事ありがとう)。
以前、クローンについての思考実験を問いかけた日記、
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この最後で、N_apostropheさんのコメントを読むなり、僕の中で宙吊りになったままの思考があった。もし生成されるひとつのテクストの途中で、人格がAからBになることが自明のこととして承認されたら、テクストはどのように編みあがるのか。その様式は、カンブリアンで実装できるか。
初対面の伊希さんの仕事を見た。Aは物語を書く、BはCを演じる、DはEを演じる。そういう固定した役割分担が、あるところでBが物語りを書き、DがCを演じる、というように交換可能な映画生成システムを実践している(CがDを演じうるのか、を聞き損ねた)。
ニューヨークの路上で撮影された映像には、映像作りについて相談する言葉も、ピザ屋のおやじのクレームも、そのまま撮影される。フィクション、メタフィクションの浸潤が、ノンフィクション(かかわる人の実生活)まで巻き込んでいく。
遺伝は面白い、と思った。相貌よりも、投げかける思考の罠が似ている。
コメント
2006年06月18日
04:18
刺激の余韻で眠れません。
安斎さんありがとうございました。
皆様ありがとうございました。
2006年06月18日
09:03
machiko
きのうは、2時間遅れの参加で、すみません。
伊希さんの仕事、面白かった。
ある意味でドキュメンタリーの背後にある語られない部分を暴く作用も持っているし、これが「作品」ではなく「ドキュメント」として存在することの理由として、作品のオーナーシップ、オーサーシップの拒否を挙げたことが、とても興味深かったです。
2006年06月18日
09:21
machiko
補足。
このあたりの話は、ちょうど安斎さんとの当日昼の会話
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>報道写真は、報道写真そのものの虚構性を語ることができないと、Photoshop Ageにあって、意味をもつことができない。
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とか、遅れた理由だったICCのre-openシンポジウムでのアーカイヴの話と重なってたので。
テレビ局とか映画監督とか国とかは、リニアでクリアなリアリティを前提にかざしていて、それは彼らがpowerを持っているから、当然のこととされてる。
本当は、編集されない生のリアリティがメディアを通じて伝わるなんてことは、定義上もあり得ないのに。
そうじゃないはずのメディアが、たとえばGoogleとか(最近の中国内での検閲虚力の話です)mixiも、という話が最近話題になっているけど、power を持たない個人のてんでな表現行為をそのまま仲介するはずが、そこに、思考の枠組みを密かに規定する作業を潜り込ませている。
なので、伊希さんのスタンスが、新鮮でした。
2006年06月18日
11:23
Yuko Nexus6
クローンについては、実は一番考えているのは萩尾望都ではないかなぁ、と思ったり。
2006年06月18日
14:21
N_apostrophe
「自然」とか「リアル」とか「ダイレクト(生)」とかが、中村さん愛用の6万年年譜にあるように、それまでの人による浸食で作られた作品であるいじょう、それを繰り返すドキュメンタリーやダイレクトシネマという形式すら主導的文化の装置に過ぎない。
これを突き崩しているのはローカルな、そしてしばしばマージナルな場所なのですが、それが突出すると主導的な力が介入します。増田聡(日本音楽学会:大阪市立大学)が指摘したように(
<芸術学関連学会連合>主催による第1回公開シンポジウム 藝術の変貌/藝術学の展開
日時 2006年6月17日(土)会場 日本大学文理学部百周年記念館 国際会議場)
専門的分野に外的な力が介入する(ジャズが演奏の音符にたいするずれに創造性を置くポストモダン的な著作観に音符再現的演奏という近代の著作観が著作権法という外部の近代思想に依拠して介入する)。
安斎さんの問いに戻ると、近代的人格に依拠した法は、分裂する法人格を否定する(責任能力不能という「病を発明」して猶予することはある)。
ですから、リアル世界と内面世界というフィクションによって分裂する人格をバランスさせることを戦略としてリアル世界を支配します。近い文化として、カーニバルというもう一つのリアル世界(現代日本ならさしずめ酒の席に拡張した異界)を許すことでそれ以外の時空間を支配します。
ですから、時空間ごとに異なった人格が複数存在することを許しません。
ところで細胞の分裂は常に安定してコピーし続けるのでしょうか?
わたしにはとても信じられません。40年前のわたしが目の前に現れたらいまのわたしはうまく会話できないでしょう。経験や知識によってとある方向に制御されているわたしには、疑問と可能性に満ちた不安定な40年前のわたしは別人なのです。
2006年06月18日
14:55
俳胚
>もし、ひとつの身体に二人以上の人格があることが承認されている世界であったら、犯罪者は、どのように罰せられるのだろう。久しぶりに乗ったJRで、中吊り広告にある小学生殺害事件の見出しを読みながら、そんなことを考えた。犯罪を犯した人格だけを、罰することはできるのか。
--------------------------------------------------------「ふきというも草の名
茗荷というも草の名
、、、」(布袋禅師 禅画)
2006年06月18日
15:11
中村理恵子
はろー。みなさま
蒸しますね。昨日から、湿度にめちゃくちゃ弱いあたしは、少々ぼーっとしておりました。
>遺伝は面白い、と思った。相貌よりも、投げかける思考の罠が似ている。
うちは、父親に似てるといわれました(小さいころ)。30過ぎくらいから「あら、お母さんにも似てきたわね。」と言われます。正直、○○に似ているという表現は、好きではありません。
中川親子は、性別の違いもあるかもしれないけど、あまり似てない。帰りの京王線で、失礼にならない程度に、じろじろ見比べながら、話をしながらの楽しい時をご一緒しましたが。
似ていない。
2006年06月18日
15:13
psichering
まず、皆さん昨夜はありがとうございました。
安斉さんの問いについて>CがDを演じうるのか、を聞き損ねた
この場合Cは役を指しているのですよね。で、そうだとすると役が逆に役者になるということですか?つまり役の方が役者自身の人格を乗り越えるということでしょうか。
役が役者がそれまでになかった性質を持っており、それを役者が得て行くということもあり得ると思います。
Machikoさん、コメントありがとうございます。
作家奨励社会、作品商業主義の世の中ですが負けずにがんばらねばと思っています。オーガナイザー的な立場に立って資本を探しながらプロジェクトをたてていくのか、で、もしそうであるのならばどこから資本を得るのか(助成金なのか企業資本なのか)、スケールダウンして個人宅にかつてのポートレートアーチストのように入りコミッションをとってやっていくのか、現在検討中です。アドバイスなどあったら聞かせてください。
2006年06月18日
17:15
面白そうな匂いにつられて、書き込みします。
>遺伝は面白い、と思った。相貌よりも、投げかける思考の罠が似ている。
思考パターンが陥りやすい「罠」が似ていると言うことでしょうか。
一卵性双生児は志向も似ているのかな?
>ところで細胞の分裂は常に安定してコピーし続けるのでしょうか?
遺伝子の継承に関しては、ごく一部の遺伝情報を正確に伝搬していることはないようです。
ただし、何千もの遺伝情報が一塊として(一つ一つの染色体として)伝搬されることは、保障されているようです。
もし、遺伝子の一部が傷ついたとしても、それを修復する機構がいくつか知られていて、たとえ、その修復が充分でなかったしても細胞は分裂しえます。
その時、分裂した細胞に充分な遺伝情報が保持されておらず、致死的になるのか、逆に、生存に優位に働いて癌化するのかは確率の問題で、その辺りは全く分かっていない、という現状であると思います。
>中川親子は、性別の違いもあるかもしれないけど、あまり似てない。
私がコメントして失礼でないのか、やや心配しますが。。
母親のDNAを半分もらっていますから、半分似ているだけで充分です。。
2006年06月18日
19:18
安斎利洋
昨日も話題になりましたが、日記やブログには、宴座とは別の議論がありえますね。
「「自然」が人による浸食で作られた作品である」、ということを暴きたくて、昨今主婦の話なんかを持ち出しているんですが。しかし、人間は生まれたときから接しているものをなかなか客体化するのはむずかしい。リアリティとか、ドキュメンタリーとか、お金とか、作曲された音符とか、幸せとか、国家とか、みな同じような形相で立ちはだかってきます。
人格と時間の問題について、うる覚えのエピソードなんですが、ある富豪が自分の財産は自分が老人になったら寄付をする、もしかすると自分は老人になったとき違うことを考えるかもしれないが、それを曲げてもかならず寄付をする、と宣言した。案の定、彼は老人になったとき、財産を人に渡したくなくなった。この場合の法律的な人格はどうなるのか、という議論があるらしい。
人格というのは、物質でも固定的な状態でもなく、一種の物語であって、それは中川さんが言うように、語り始めから終わるまでの間に、輝いている新鮮な赤が、ほとんど真っ黒な影へ移行するテクストのようなものかもしれない。
細胞を研究している藤田(yfuji)さんとmixiで会ったときに、彼はしきりに細胞から物語を読み解くということを言ってました。中川さんとmixiでお会いした縁も、物語だった。ここで二人の名前の、奇遇を見たように思います。
>思考パターンが陥りやすい「罠」が似ていると言うことでしょうか。
いえそうでなくて、親子の芸術家が、こちらに対して仕掛けてくる罠に、同じ戦略を感じたということです。
2006年06月18日
19:19
安斎利洋
>クローンについては、実は一番考えているのは萩尾望都
そうらしいですね。読んでないんですが。読書ガイド、お願い。
2006年06月18日
19:24
安斎利洋
>>CがDを演じうるのか、を聞き損ねた
>この場合Cは役を指しているのですよね。
>で、そうだとすると役が逆に役者になるということですか?
映像を作る側の物語と、作られる物語の浸潤をたくらむなら、演じられる役の中に「映像制作の過程を媒体として人間関係を考えている作家」が出てきて、その劇中の作家が劇外の人を撮るというクラインの壺的な循環が起こりうるのか、ということを聞きたかった。
2006年06月18日
19:50
Yuko Nexus6
ええと「A A'」だったと思います。必読です。
2006年06月20日
03:41
安斎利洋
A-A’
萩尾 望都
価格: ¥ 590 (税込み)
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これですね。
2006年06月20日
18:15
N_apostrophe
>分裂した細胞に充分な遺伝情報が保持されておらず、致死的になるのか、逆に、生存に優位に働いて癌化するのか
あやまったコピーが癌だというのはちょっとショックですが、逆に癌に少し親しみを持ちました。
これと共存するために癌を攻撃する作用を押さえるという考えもあるのでしょうか?
>その劇中の作家が劇外の人を撮る
これはむしろ望まれているのではと考えます。作り手を交換しながら「一つの」映画物語を採るという企画には、他者が介入するところに趣旨があると考えますから、その他者の物語がそうしたアイデアを出したとき、これを引き継ぐ語り手が浸食を持ち込む(あるいは持ち込まない)という選択になるからです。
psicheringはどう考えているのでしょうか?
2006年06月22日
03:10
>これと共存するために癌を攻撃する作用を押さえるという考えもあるのでしょうか?
癌免疫は多くの場合に存在するようです。
つまり、癌細胞を攻撃する免疫細胞が生体内に存在するのだけど、その効力が弱い。
癌細胞は一見、正常の細胞と表情が似ていて、免疫細胞が癌細胞であると判別しにくいことが理由として考えられています。
そのため、癌免疫を担っている細胞群を刺激したり、増殖させたりすることで癌治療をする、いわゆる癌免疫療法が研究されています。
いずれにしても、癌細胞は宿主に都合の悪い繁殖を示しますから、「宿主の心、癌知らず」といったところです。
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