安斎利洋の日記全体に公開

2006年06月14日
03:12
 見ること
光島さんとのセッションを思い返すたび、あのときの驚きをなぞることになる。それは、見ることが眼に独占された感覚ではない、という驚きだ。

だから、触ることも触覚だけのものではないし、
もしかすると、考えることは脳だけのものではない。
生きることさえ、身体に独占されないのかもしれない。
7年前のセッションを発掘。

『触覚連画・第二セッション』

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1. アリア(ゴルトベルク変奏曲より)/安斎利洋

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2. 弦楽器/光島貴之

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3. 幸せを運ぶクモ/中村理恵子

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4. 涙の音/安斎利洋

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5. 腕輪/光島貴之

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6. アップリ家のマドンナ/中村理恵子

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7. 指先で絵をつま弾く/安斎利洋

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8. 指先で読む/光島貴之

承前:
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=153930921&owner_id=63253
 

コメント    

2006年06月14日
04:09
Fibonacci
すばらしいセッションですね。光島さん絵が素晴らしい。
2006年06月14日
07:46
かーるすてん2こと
素晴らしいです。
2006年06月14日
07:52
中村理恵子
ほんとはね、これらの作品群は、ちょっと寝かせ気味にして凸凹具合も伝えれられれば完璧なんですが。視覚的な表現と触覚的な表現のほぞみたいなものに思い当たったというか、それに直面したときの驚きと、そこに横たわる課題っていうのか、可能性というべきですよね。
その広大さに、自分のちっぽけな存在を感じると同時、熱い創意がこみあげてきました。
2006年06月14日
08:02
stella
シンプルにこの連画の絵がすてき。
触れてみたいです。
2006年06月14日
08:42
tamio
 で,光島さんと半日一緒にいたわけですが.
 早稲田大学から青山へ行き,岡本太郎記念館で「太陽の塔」を触診して,表参道を散策して表参道ヒルズに入り,新宿でベルギービールという移動を重ねるうち,光島さんの横で私も
「あぁ,なんか街を触っているなぁ」
という感覚に襲われたのでした.
 それはたぶん普段からやっていることなのだけれど.
 明治神宮の冷たい森のにおいや,ケヤキ並木にクルマの騒音が吸われている感じとかを,歩くという行為にあわせて意識することって.

2006年06月14日
11:15
miyako/玉簾
触ってみたいです。この絵。見てても、とってもすてき。

昨日も少し目を閉じて泳いでいたら、安斎さんの日記を思い出しました。
目を閉じて泳ぐととても不思議。違う感覚が目を開けます。
音や、水の勢いを普通より敏感に感じます。でも恐くてすぐに目を開けてしまうけれど。
夜の海も同じ。何も見えないのですが、身体に触れる水の情報に、いろんなアンテナが立ちはじめる。きっと海は危険なので、身体が自然にそうなるんだろうと思う。

視覚がない人はきっと視覚がある人とは全く違う立体の思考や地図や感覚をもっているんだろうな。
2006年06月14日
16:53
安斎利洋
触覚連画は、この最後の作品で止まったきり、7年もそのままになっているのですが、今日は、そのとき何に乗り上げたのかを思い出しています。以下、そのメモです。

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触覚連画を始めるとき、視覚も触覚も同じであるという、いわゆる「バリアフリー」を目指していた。しかしいざ初めてみると、予想に反したところに視覚と触覚の非対称が、次々と現れてきた。

たとえば僕らは絵をかくときに、なんとなくそこにある形、何もあらわしていない形を無数に描いているけれど、触覚セッションの場合、まずそれが何であるのかという解読からスタートする。これは鳥なのか、瓶なのか、横断歩道なのか、文字なのか、というように。

その「何」が確定していない形があると、それを解読しようとするループに入ってしまう。だから、何でもないものは、あらかじめ「これは何でもない」ということを言う必要がある。

見るということの本質は、何かに見ようとすることで、人間の日常的な視覚は、いつも何かを何かに見ようとして身構えながら構成される。ところが、絵を描くということは、「〜として見る」ではなく、「〜として見ることをやめる」こと。

その「として見る」「として見ない」というせめぎあいの仕方が、視覚絵画と触覚絵画では異なっている。言い方を変えると、ゲシュタルトの成立と解体の仕方が、異なっている。触覚は絵を点でなぞるが、視覚は複数の形が並列にやってくる。そこに相違の根があるのか。

触覚連画は「意味」に縛られない自由なセッションであるように見えて、実は「意味」にもっとも縛られたセッションでもあった。

触覚連画Vを実現させるなら、それを乗り越える何らかの工夫が必要だ。
2006年06月14日
19:20
小林龍生
この議論は、ヨーロッパ中世の普遍論争における唯名論と実在論の対立構図と同型の構造を持っている。
2006年06月14日
21:48
俳胚
見ることも、触ることも行き着くところは、
何かを感じるという結果を生むということで同根。
頚椎症性神経根症とやらからく来る肩の痛みに
悩まされて2ヶ月。
その間のリハビリの効果だろうか、最近、痛みが随分遠くにいる。遠方から痛みが耳に聞こえるのが不思議。


2006年06月14日
23:06
安斎利洋
>普遍論争

以下、Wikipediaより
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普遍論争(ふへんろんそう)とは、スコラ学において「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われた哲学上・神学上の重要な論争の一つ。

普遍とは個物に対する普遍のことで、例えば八百屋のご主人山田太郎氏やお向かいのポチという個物(個々の事物)に対する「人間」や「イヌ」が普遍というわけである。つまり普遍論争とは、「人間」一般や「動物」一般があたかもイデアのように実在するのか、それとも名前の上だけでだけ存在するのか、という二つの立場による論争である。前者の立場が実在論(実念論)、後者の立場が唯名論と呼ばれる。

実在論者には、アンセルムスやトマス・アクィナスが、唯名論者には、アベラールやオッカムがいる。

以上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89
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人間は、一回限りの人生をまったくオリジナルに過ごしているのか、何百万年の繰り返しの一部を生きてるにすぎないのか、も同形です。

考えてみると、「見る」という問題もふくめて、びっくりするくらい多くの問題が、ここにたどり着くのかもしれない。
2006年06月14日
23:14
安斎利洋
>痛みが随分遠くにいる。遠方から痛みが耳に聞こえるのが不思議。

このまま、触覚絵画になりそうな言葉です。

光島さんは、京都で開業している鍼灸師なんですよ。その痛みを、治せるかもしれない。し、治せないかもしれない。(腕前は不明)

でも、よく患者さんの懲りとか病変を、絵にしています。
2006年06月15日
01:20
MATANGO
>「うーん、まだよくわからないんだけど、でも鳥はきっとこういう形のほうがもっといい、と思う形を作っている、のかなー」

衝撃...。
しかもよくあらわれるとは...。

>普遍論争
哲学として決着をつけようとすると、むずかしい問題になってしまうけれど、実際には「せめぎあってる」としか言いようがないんだと思うんです。

でも、どう「せめぎあってる」かがわからない。
ほんとに「びっくりするくらい多くの問題」と「おどろき」があると思いました...。
2006年06月15日
07:25
小林龍生
>>普遍論争
>>考えてみると、「見る」という問題もふくめて、びっくりするくらい多くの問題が、ここにたどり着くのかもしれない。
以前、安斎さん、三宅なほみさんと電子メール鼎談で議論したマクルーハンの映像の文法に関わる話題
http://www.kobysh.com/tlk/digitalculture/199802-kokugogaku.html
も、同型。
>>哲学として決着をつけようとすると、むずかしい問題になってしまうけれど、
ぼくの了解では、哲学(PhiloSophy)の大きな役割は、ある立場に固執することではなく、ある立場を相対化する視点を方法論(methodology)として提供することになると思っている。
ソクラテスの対話術とか産婆術とかは、まさにそのようなものだ。
まあ、ちょいとよいしょしておくと、mixi上の安斎さんの日記(を契機とする談話)は、まさに、ソクラテスの(アゴラでの)アカデミアを彷彿とさせる。
2006年06月15日
09:11
ユミ
>考えることは脳だけのものではない

こいうことを、もっと知るといいのにと思う>自分。
五味太郎さんが「じょうぶなココロとかしこいからだ」というような事をかいてましたね。

創造的な人間の多くは欠落したところを抱え込んでいるように見えるのですが、
それは特出した能力にひっぱられるように生き急いでいるうちに世術を身に付ける暇がなかったからとも、備わっていないものを代替を探すうちに独自のものを見つけ出したとも受け取れる。

五感の潜在能力に勝手に限界をつけてしまっている自分の日常がもったいないなぁ。。。
かといって毎日が「星座作用」だとつかれそーだし。ですが。。。
2006年06月15日
16:20
安斎利洋
>「じょうぶなココロとかしこいからだ」

これ、巧いなー。20年ほど前、五味さんの自宅に行ったことがあります。吹き抜けの応接間にオーディオセット、綺麗な奥さんが旨いコーヒーを運んできて、駆け出しだった僕はただただうらやましいと思いました。
2006年06月15日
16:22
安斎利洋
>電子メール鼎談

あれは良い企画でしたね。他に類例のない時期だったと思うし、僕にとっては、鼎談の中身より、そこで起こったことのほうが貴重だった。

>ちょいとよいしょしておくと

よいしょ返しで言うと、小林さんがmixiに書き始めたあたりで、自分の中でソーシャルネットが「何かについて話し合う場所」から「何かそのもの」に、階層があがった感じを覚えました。
「座」である人間がリンクしたこの環境は、ハイパーテキスト以上に、テクストの革命なんじゃないか、とさえ思う。作者の死、どころか、読者=作者、なんだから。
2006年06月15日
18:08
中村理恵子
>「座」である人間がリンクしたこの環境は、

確実に現代の市庭(いちば)だと思うね。
かつて境界(聖俗の)に生きる人が活き活き集った場である市場じゃなくて、市庭。そこで異形な風体と職能に生きた人たちの様子が絵巻物にばっちり描かれている(13C頃)。
ときどきこのMixiでの賑わいとこの絵巻世界が途中の冴えない700年(室町、江戸、明治、昭和)をパスしてオーバーラップしちゃうのよね・
まだ、探検が不十分な中世世界からちょっよ寄り道。
あー忙しい、帰らなきゃ。ごっちゃり書物がドア開けて待ってる。
2006年06月15日
18:31
安斎利洋
ここ数日、中村さんと話をすると、ほとんど中世からふらっとタイムスリップしてきた異形の人のようだ。
2006年06月15日
23:39
あべこ
こんにちはー、
京都に戻ってきました。
先日はありがとうございました。
ひょっこりのぞいたら、連画が見られたので、感動。

私は岡本太郎や表参道にうはうはしていましたが、木原さんがそんなことを感じておられたとは、全く知りませんでした。

そういえば、以前光島さんが1人で歩いておられるのを尾行したことがあって(理由は忘れたけれども尾行してくれと言われた)、するすると街を触りながら歩く光島さんと、いろんな街の情報や人やものとの、出会いや、すれ違いを、まるで映画を通して見ている気持ちになったのを思い出しました。今までに味わったことない、不思議な感覚でした、確か。
2006年06月15日
23:52
安斎利洋
あべさん、mixiで再会、うれしいです。
ここにも日記や写真ありますよ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=153930921&owner_id=63253
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7640000&comm_id=758157
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=155217527&owner_id=758802
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=155458287&owner_id=64544
2006年06月17日
00:24
Mitsushima
やっとミクシーに迷い込んできました。
みんなで触覚連画の話しをしていると聞いて、これは急ぎ入会しないとと思ってやってみたらなんとかなりました。
まだ様子がわかりませんが、また書き込みます。
2006年06月17日
00:33
安斎利洋
光島さん、すばやい!
フォマールさんは、幸村さんね。
ほかにもたくさん、友人が潜んでいると思います。
2006年06月17日
02:16
tamio
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7640000&comm_id=758157
は,子育てオヤバカ日記で,公開でないので.
光島さんのアルバムを作りました.
http://mixi.jp/view_album.pl?id=522704
閲覧キーは renga です.どなたでもどうぞ.

あ,光島さんだ!

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