安斎利洋の日記全体に公開

2006年06月02日
14:44
 盗作画家
たとえばwinnyのようなピュアP2Pで、共有ファイルがホンモノかニセモノかを判断することは原理的にできない。ただ、自分の属している集団の中で、多くの人がそれをホンモノと判断している、という投票システムのようなものは可能だ。mixiの中の人格がホンモノかニセモノかも、同じこと。実は、実社会のソーシャルネットも同じことで、人物や業績は投票的なシステムで評価される。世界のあらゆる「ホンモノ:ニセモノ」は、そうやって判断されている。違うのは、評価する集団の大きさだけだ。

洋画家の盗作問題も、それをホンモノと判断した集団の大きさや領域の問題にすぎない。日本の評価集団は、ホンモノの属する集団に属していなかった。たとえばピカソそっくりのイラストレーターが非難されないのは、集団が違うからだ。しかし、秋山育そっくりの若手イラストレーターが告発されたり、「どこまでも行こう」そっくりの「記念樹」が訴えたれたりするのは、同じ集合の中で踏んでいるから。逆に、ストラヴィンスキーがペルゴレージに訴えられないのは、集団が時間的に隔たっていたから。B'zがAero Smithに訴えられないのは、同じ集団だと思われていないからだ。

和田義彦氏が今までアルベルト・スギ氏に訴えられなかったのも、集団が違っていたからで、陸続きが判明したとたんに事件になる。和田氏は、ここが地続きでないと思ったわけで、それ自体舐めた話だし日本国文化庁の権威もまんまと舐められたわけだ。

でも、そんなことはどうでもいいことなのだ。僕は、和田氏の創作はクズだと思う。それは、作品をA集合からB集合へトランスクリプト(転写)する冒険の意味を、まったく理解していないからだ。
 

コメント    

2006年06月02日
14:48
klon
うん、で僕はスギ氏っていう人の絵もクズだと思うんですけどね笑
あれを真似しようと思うのはすごいなと。
2006年06月02日
14:55
安斎利洋
klonさんの意見を読んでひらめいたんだけど、もしかしてスギ氏と和田氏は綿密に共謀していて、ニセモノができることによってホンモノが作られるという実験をやってるのかもね。だとしたら、あの二人はすごいね。
2006年06月02日
14:57
klon
スギ氏の絵っていうのがそもそも偽物っぽいですよね笑
僕はスギ氏に真似された、っていう人が出て来たら面白いなと思ってるのですが。
2006年06月02日
14:57
すごく不思議な事件だ。

和田という人は、何のために画家を続けているのだろう?
創作という楽しみを何に感じているのだろうか。

受胎告知とか、浮世絵とか、模写されるテーマやモチーフというものはあるけど、大抵はオマージュと言っても
元の絵を超えようという野心を持って描かれるものだよね。。
2006年06月02日
15:03
安斎利洋
>スギ氏に真似された、っていう人

その人も、誰かの真似で、その人も、、、という連鎖が円環をなしていたら、これは一種の創発だ。
2006年06月02日
15:09
TODO
1枚や2枚ならともかく、1年や2年のことならまだしも
30点からあるというのでしょ。30年前からとも言うのでしょ。

取り分で揉めたか。

それに芸大出ですよね、和田氏って。真似なくたっていいだろにと素人は思います。
2006年06月02日
15:25
machiko
あんなにソックリで、換骨奪胎もパロディもやってない作品をつくるって、何が面白くてやってたんだろう?
と、私も思いました。

そういう人がプロとして通用してるってのも、すごい。

あの偽物っぽい絵の、偽物をつくると、それが賞をとるっていうのも、すごい。

・・・高校のときに、受験英語の神様気取りで他の学校から移ってきたけど全然人気のなかった英語教師が、二重否定すると元に戻る、というのを説明しようとして、「だって君たち、マイナスとマイナスを足せばプラスになるでしょう!」といったので、一同、爆笑。
教師は、われわれが分かってないと思って、しつこく同じことを繰り返したので、みんな涙が出るほど笑い転げてた・・・・

のを思い出してしまいました。


それにしても、安斎さんの「集団」論、鋭いですね。
さすが。
2006年06月02日
15:30
machiko
>その人も、誰かの真似で、その人も、、、という連鎖が円環をなしていたら、これは一種の創発だ。

実験としての偽作なら、面白いですよね。


スギ氏、というのは国際的に知られた画家じゃないんでしょうね。
知られていたら、「集団」が、クロスしてしまう。

だから贋作つくっても、間違って賞など取ってしまわなければ、ばれなかった?
きっと、それらの贋作は本来、美術評論家などの目に触れずに、高い値段で「美術愛好家」に売られるためのものだった??
2006年06月02日
15:42
安斎利洋
>高い値段で「美術愛好家」に売られるためのものだった

若い作家を利用して商売する連中って、いるんですよ。そういうのはまず、有名な作家を集めて権威を作る。次に、若い作家のアンビシャスを利用して、彼らから膨大なお金をとって、作家っぽいことをさせる。展覧会をしたり、マスコミに露出したり。中身がどうあれ、それで売れれば儲けもんだし、売れなくても作家自身から金をとって潤う。
言っちゃ悪いけど、才能が足りない作家は、それにひっかかる。想像にすぎないけど、なんかそういう連中が暗躍しているにおいもします。
2006年06月02日
15:43
てつろう
このお話、他のマイミクさんの日記でも話題になってました。
盗作は、自分という人間を人生を完全否定するものだと思います。
仰るとおり、贋作カンブリアン(笑)だとすればそれは面白いことですが。。(そういうわけではないでしょうし。。)
2006年06月02日
15:51
安斎利洋
カンブリアンは、限られた集団の中でトランスクリプションの妙技を競いあうから、絶対にパクリはおきないですよね。ほぼパクリだけれど1%の変更で元作品を全否定する、みたいなことは起こるけれど。
ただ、パクリと再創造が連続していることも確かなんです。その敷居を評価するのは、ひとそれぞれだから。
結局、なんていうか、気品みたいなものがないんだよな、この盗作事件。
2006年06月02日
16:52
盗作や贋作というものについて考えさせてくれるという意味で
非常に面白い事件でもある。

絵のマーケットって何なのでしょうね。
2006年06月02日
17:51
チクリン
>ニセモノができることによってホンモノが作られるという実験をやってるのかもね。

芸能界でモノマネが出ることによって本家の人気が上がる、みたいなやつですかね。現代作家の誰かがやっていてもおかしくない気がする。
2006年06月02日
18:42
スギ氏と和田氏が双子であったなら、許されたのでしょうか。
しかしながら、あそこまで構図が同じだと、同一人物であった場合しか許されない?
2006年06月02日
19:16
有馬純寿
>スギ氏の絵っていうのがそもそも偽物っぽいですよね笑

そもそもこれらの作品がここ10年くらいに作られたものだ、ということのほうが驚き。
トランスクリプションやサンプリングという方法論はしらないが、オマージュという概念はある部分集合と、「現代美術」との隔たりは深い訳ですね。

今日のワイドショーで、オマージュの意味を説明する際「敬意というか尊敬というか、まあリスペクトってことですよね」と若い男性アナ。
オマージュよりリスペクトが一般的な大きな集団もあるわけだ。

ちなみに10年くらい前に、とある現代美術評論家に現代美術の贋作についてきいたら「(一般的)価値が発生してないから、贋作の意味がない」と。いまでは少し状況もことなるだろうが。

何年か前のベネチアビエンナーレで、ヴィトンのパチもの路上で売ってるマリ人を、遠目で睨みつけてた村上隆の姿を目撃。
「価値」があるところにニセモノありの良い例かも。
2006年06月02日
21:25
Yuko Nexus6
和田氏のセクハラ事件が、いつワイドショーにとりあげられるか? いまかいまかと待っています。
2006年06月02日
21:59
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/b_35.html
森村誠一という人まで連鎖的に怪しい人になりますね。
変な人だな。こんな写真公開したりして。有名人好きだったんだね。
森村誠一
2006年06月02日
22:30
べてぃ☆
新手の双方プロモかと思いました。笑。
2006年06月02日
22:32
Yuko Nexus6
>何年か前のベネチアビエンナーレで、ヴィトンのパチもの路上で売ってるマリ人を、遠目で睨みつけてた村上隆の姿を目撃。
「価値」があるところにニセモノありの良い例かも。

それよかカッコよかったのが、あのヴィトン路上ディスプレイをまんまでっかいポスターにした、アカデミアの向かいにある美術館の展覧会だったなー。だって、そのポスターの下で、マリ人がまんま売ってはんねんもん。どっちがほんまやねん、で、どっちもにせものですか? こりゃまたしつれーしましたー。えっと2000年ぐらいかな?

和田氏の絵は模写にしては下手すぎるところがお茶目だ。
2006年06月02日
23:10
安斎利洋
>模写にしては下手すぎるところがお茶目だ

そうそう、そこですよ。オリジナルの作家が神様じゃないから、この件は贋作とは違うジャンルなわけですよ。オマージュだったら、作風だけ真似るとか、テーマだけ真似るというやりかたもあったろうに、なんか半端に近くて、しかも外してる。半端だから、解読しづらい。こういうことが起こりうるのは、学校の美術の時間にどこかの画集を手本にした普通の高校生だけですね。

もしかして、本当に普通のそこらのおっさんが、ウソにウソを塗り固めているうちに、こうなっちゃたのかも。学歴も本当だろうか。

昔、ハイパーイメージなんたらというCD−ROMがあって、日本CG作家何人かを網羅するみたいな企画で、その栄えある一人に選ばれたんですが、この選んでくださった方が、学歴、職歴すべて詐称。ふつうの男がウソにウソを塗り固めて、いっぱしの学者のようなキュレーターのようなものになっていた。あれは、面白かった。
2006年06月02日
23:13
安斎利洋
双方向プロモーション、って言葉があったっけね。
泣いた赤鬼モデルの双方向プロモーション、ってのは新しいかもね。怪しい会社を暗に立ち上げて、被害に合って注目を集める。これじゃまるで20世紀少年だ。
2006年06月02日
23:14
TODO
>あれは、面白かった。

安斎さんの真骨頂。
2006年06月02日
23:31
中村理恵子
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/b_35.html
>森村誠一という人まで連鎖的に怪しい人になりますね。
>変な人だな。こんな写真公開したりして。

本当の意味で、老いるってこういうことでしたか。
気の毒ですね。
2006年06月03日
00:24
satoカエル子
安斉さんちで書くのは初めてのような気がします。
私はわりと最近長年勤めた会社を辞めたのですが、
最後のほうの時期で引き金になったことは、人の企画を
部署の管轄の問題で「ありがとー。でももう君はいいよ」
的に持って行かれたりすることがすごく多く、開拓の喜び
は全世界共通ではない、創造の楽しさよりも利権だけあれ
ばいい人って世の中いるのだーと思ったりしたことなので、
この和田さんて、賞をもらったりすることのほうが、制作
よりも楽しくなって久しい人なのだろうなと思いました。

同業の皆様にはさぞかしつまんないでしょうし、私も付き合い
たくない人なんですけど、でもまあ盗作できる腕程度は持って
たのに、もったいないなあ。でも、人の真似して賞もらって
嬉しがる神経は計りかねるなあというか。

人生オリジナルが一番ですよねー。損かもしれないけど。
もちろん本読んだりして勉強も必要なんだけど。

和田氏はどっかで普通ではない状態になったとしか思えず。
2006年06月03日
00:39
machiko
>学歴、職歴すべて詐称。ふつうの男がウソにウソを塗り固めて、いっぱしの学者のようなキュレーターのようなものになっていた

ああ、そういえば、いましたね。そういう人。

人生そのものが偽物、っていうのも、また、すごいかも。
そういう人は、元がなんだったのか、自分でもわからなくなってたりして。
アイデンティティが自分の中で崩れて、自分のものと他人のものの区別がつかなくなる症例って、あるんじゃないですかね?
この「画伯」も、そこまできてるかも。
2006年06月03日
01:33
安斎利洋
和田氏の話より、カエル子さんの会社の話のほうがよっぽど面白そう。昔はみんなで「ごっこ」やっているんじゃないかって思うような若い会社でしたね。

2006年06月03日
01:50
安斎利洋
>自分でもわからなくなってたりして

3人集まれば中身がなくても学閥が作れる、という話があります。一人の妄想は妄想に過ぎないけれど、3人で抱いた妄想は現実になってしまう。そうなると、自分で変だと気づくのは無理ですね。

極端なヘンな話はこうやって足がついてしまうけれど、化けの皮のはがれない和田画伯(たち)は、あちこちにいるのかもしれない。
2006年06月03日
02:16
Yuko Nexus6
和田、という生き方がすでにしてひとつのジャンルなのかもしれない。ほら、川島なお美とか、エビちゃんとかの生き方を下敷きにしている女子がいるように。
2006年06月03日
11:21
kazu
井原西鶴について色々研究し始めたのですが、
彼は15歳から41歳くらいまでは俳諧で、一夜一日神社で4千句とか、二万区とかの大矢数俳句を産み出し、
次に40歳から、好色一代男などの浮世草子の分野を創出し、
そして、初めて銭金の世界を面白く物語化したりして、
何時も、何時も、新しいことに踏み出す人なのだが、
そういうのって、凄く、すがすがしい気分にさせてくれる。
俳諧のために諸国漫遊を始めたのも西鶴が初めてで、
その後、芭蕉達が後を続けたとかね。

そこにいくと、この、和田さんて、往生際が悪いし、
むしろ芸大で、創作のいろはってゆうか、やってはいけない事を教えていないのではないかって、考えてしまう。

ビジネス、建築も、アートも、金さえ儲かれば、禁じ手は、
踏み倒してもかまわないという事かな。

2006年06月03日
13:41
安斎利洋
世の中には西鶴のように、どこにもないものを作り出すのが得意な人と、絵が上手だけれど手本がないと描けない人がいて、それがおなじ芸術家を名乗らないといけないのが問題なんです。和田さんみたいな人は、アーティストとは言わないでレンダラーという肩書きを作ればいいんじゃないかな。レンダラーはアーティストの作品を真似てもかまわない。ときどき、アーティストより質の高い作品に仕上げるときさえある。ときどきアーティストが売れるのを手助けする。ちょうど、芸人と物まね芸人の関係。
2006年06月03日
20:41
machiko
アーティストとレンダラーの関係。
古典的には、浮世絵の絵師(原画担当)と、彫り師、摺り師の関係?

CGの場合には、レンダラーの役割は非常に大きいですね。
レンダリングはrepresentationそのものに関わるから。
ということは、逆に言えば、絵コンテには質感は描けないから。

レンダリングって、「実際のかたちを与える」ことですが、もともとはデザイン用語。
アイディアから最終形態まで1人の人間がつくるクラフツマンシップが、近代化によって変化した結果でしょうか?
2006年06月03日
21:00
kazu
でも、芸術選奨とかの審査する人たちの鑑識眼も問題だと思う。

何が独創で、何が素晴らしいか、自信が無いから、
芸大出で66歳とか、それなりに、アート界で話題になっていいる人を選べばよいなんてところに落ち着く。

しかし、何時か値上がりすると思って、
和田氏の絵を買った人は、これは大いに実害がありますね。
絵に金がまつわると、村上ファンドと同じ水平線の物語になるって、事か。
2006年06月04日
00:28
Yuko Nexus6
全国の学芸員の皆さん、チャンスですよー! いま全国民が芸術に注目!
「芸術における真偽」というタイトルの企画展はいかがでしょう?
2006年06月04日
00:34
安斎利洋
>「芸術における真偽」というタイトルの企画展

昔、東大でホンモノとニセモノをテーマにした展示(だと思ったけど、違ったらごめん)をやっていて、そこに例の「神の手」の掘り出した土器があった。なんか、面白かったですよ、本物の土器より。
2006年06月04日
00:37
安斎利洋
>レンダリングはrepresentationそのものに関わるから

そう、まさにrepresentationを専門化するという発想で、むしろそれが絵になくなってしまったのは「作家」という発明によるんだと思う。ほかのジャンルは、専門のリプリゼンテーターがいるのが普通ですよね。演劇における上演者、音楽における演奏家、版画の彫り師、刷り師、などなど。
2006年06月04日
00:40
安斎利洋
>絵に金がまつわると、村上ファンドと同じ水平線の物語になるって、事か。

そういうことですね。スギ氏の絵をもっている人は、儲けたかもしれないし。
2006年06月04日
17:05
逆襲のタコラ
是非、二人展の実現を希望・・・
逆説的にアートへの関心が高まる可能性も感じる(笑)
2006年06月05日
10:12
Mike
↑是非、二人展の実現を希望・・・
賛成です。日本の恥かもしれないけど、この際、ぜんぶ見せちゃうのが良いと思います。
 実は、疑惑の和田義彦とスギの両方の絵画とも見たことなかったので、こんなに類似しているのを作っていたなんて知りませんでした。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200605/sha2006052905.html
両方を知っている人なら、似てないという方が、苦しいような気がします。
一番恥ずかしい思いをしたのは、芸術選奨を与えてしまった文部科学省でしょうか。
2006年06月05日
10:43
Yuko Nexus6
いろんなとこに恥ずかしくてビクビクしてる人がいると思いますー。本人は厚顔無恥だからにゃー。

二人展、ぜひ実現させてください。絶対見に行きます!
2006年06月05日
11:48
Yuko Nexus6
さらに二人展の企画案

二人の作品を、立体視できるように距離を開けて並べると。。。飛び出すのみならず、微妙に色が違うので、きらきら輝くステレオグラムになります。

「スーギ&和田??ステレオ油絵コラボレーション  ○○美術館」

いかがでしょう?
2006年06月05日
13:31
Mike
安斎さんが見たとか言う、東大でやった「ほんものとニセモノ展」面白そうですね。
machikoさんの
>アーティストとレンダラーの関係。
古典的には、浮世絵の絵師(原画担当)と、彫り師、摺り師の関係?
の対比も面白いですね。プログラミングとか音楽では、作曲(設計)と演奏(実装)は分かれているのに、一般の絵とか彫刻は分かれてないと思っていましたが、たしかにCGは分かれるんですね。浮世絵もそうですか。なるほど。
2006年06月05日
15:39
どうやら、あの人私の高校の先輩らしいです。
同窓生のコミュで。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=175721
毎年40人しかとらないので、戦後間もなく普通科の他に併設された学校なので、
2000名余のOBの中に居たというのはちょっと面白いです。
他のOBには赤瀬川ゲンペーさんや荒川修作がいますが、
小磯良平のような絵しか評価しない保守的な学校だったんで、
私の居たころに、普通科も含めた開校100周年記念の行事や、記念誌の0B紹介欄にはニセ札被告の赤瀬川や前衛芸術の荒川の名前はのらず、なんだか知らない、○○会理事みたいな人の名前ばかり紹介されてました。
次の120周年の時には、赤瀬川さんが、芥川賞を取ったので乗ってましたが。。 美術科50周年記念OB絵画展というのをやったらしいですが、今思えば見に行けば良かったです。
(日本の美術界の絶望が見られたのでは)
そういう意味では、和田という人はずっと王道を歩んで来た人なんだろう。。
2006年06月06日
00:25
有馬純寿
テーマが同じせいか、だんだん話がmachikoさんのところで話されてたアーティストの定義ともかぶってきましたね。

あちらで各タイミングを逸したので、こちらで。
いぜん椿昇氏が、「現代美術は新しいものの見方や文化構造を提示する、いわば新しい社会のOSを作るようなものだ」と言っていたのだけど、これはもろもろの議論に整理つける発想ですよね。

工芸やデザインはOSの制作ではなくアプリケーションのヴァージョンアップ、9.11はパソコンの電源を引っこ抜くこと。

今回の事件は、エイリアスをつくるまでにも至ってない、まさにP2Pのファイル交換。と話はふりだしに。
2006年06月06日
05:34
Mike
>>http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/b_35.html
>森村誠一という人まで連鎖的に怪しい人になりますね。
>変な人だな。こんな写真公開したりして。

こういう人の本は読まなくて良い、というフィルターの役目を果たしてくれますね。そういう意味での役には立つ。
2006年06月06日
09:02
machiko
>だんだん話がmachikoさんのところで話されてたアーティストの
>定義ともかぶってきましたね。

このあたりの話ですね。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=137306105&owner_id=758802
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=138390823&owner_id=758802

>現代美術は新しいものの見方や文化構造を提示する、
>いわば新しい社会のOSを作るようなものだ

なるほど。椿さん、うまいこと言う。
このOS作りは、マイクロソフト流じゃなくLINUX流でしょうね、たぶん。
2006年06月06日
09:18
安斎利洋
>新しい社会のOSを作るようなものだ

いい比喩です。僕はずっとmacが嫌いだったのは、それ自身が強く作品的で、その枠から逃れられないことでした。こういうと比喩の話じゃなくなっちゃいますね。でも、僕はプログラムそのものがエクリチュールだと思っているので、比喩でなくもあり、比喩でもある話です。

9.11の話をmapにして、盗作の話を考えると、真似られたスギ氏と、真似た和田氏の距離なんてたいしたもんじゃないと思う。真似るということを、メタに考えるOS的な思考がないからですね。

そういえば最近、「OS自作入門」みたいな本が流行ってます。
2006年06月06日
09:29
有馬純寿
>このOS作りは、マイクロソフト流じゃなくLINUX流

そのとおりで、話は「(個人では難しい)OSづくりは、オープンソース化して、ネットワークを用い複数の手によって進められていった。アートもそうあるべき」と続いていきました。

ところで今回の事件のは彼がイタリアで学んだ「修復」ということがポイントなのかもしれない。
経歴からみれば、オリジナルより職人的に高度なものを作れたかもしれないけど、そうしなかったのは「修復」的な発想が染み付いていたのかも。

単なるコピーともヴァージョンアップとも違う「修復」の発想を、新しいクリエイティビティに繋げられたらおもしろいかも。
2006年06月06日
10:43
TODO
>単なるコピーともヴァージョンアップとも違う「修復」の発想を、新しいクリエイティビティに繋げられたらおもしろいかも。

ほんと面白そう。日本画でも洋画でも修復技術のすごさを幾度かTVで見ましたが、それが創造への一つの道にもなるというのは面白いなぁ。
2006年06月06日
11:10
machiko
「修復」としての創造。
これは面白いですね。

修復には本来、「あるべき姿」としてのオリジナルがあって、その「失われたオリジナル」に近づけるべく修復するわけだけれど、「オリジナル」を誰も知らない場合 (たとえば、剥落しているポンペイの壁画とか?) 修復はすでに、「あるべき姿」を想定した創造になっていく。

最初から「あるべき姿」が存在しない「修復」があるとすれば、それは、現在から過去に「あるべき姿」を投影した、メタ・オリジナル。ということになるのかな。

とすれば、時間の流れに関係なく、最初からメタ・オリジナルを目指した「修復」というのも、あるんだろうか。
2006年06月06日
15:02
安斎利洋
>最初から「あるべき姿」が存在しない「修復」

芸大で乾漆の修復をやっている友人がいたけれど、あれはオタク的にはまりますね。創造よりも、ある意味、人をひきつける罠のようなものをもっている。修復って、ヲタク的なのかも。「あるべき姿」が存在しない「修復」なんて、東さんが言いそうだもんね。

でも、このコンセプトは、作品として面白いですよ。非常に綿密で高度な修復過程を見せるんだけれど、どんどん作品が変わっていく。実は、原型はない、みたいな。

>現在から過去に「あるべき姿」を投影

読者論からすると、理想的な読者の読む、未来の「あるべきテクスト」を修復する過程が書くことである、ってことになりますね。
2006年06月06日
17:06
上の流れの修復とは少し違いますが、
修復と再生をテーマのアート作品を作っている友人はいます
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=41640314&owner_id=224353
彼女の場合は金との粉や、金糸で補修をすることによって、
欠落したものを浮き上がらせ、想像の上で補完するというものですが、
>最初から「あるべき姿」が存在しない「修復」
は、それが良き修復であれば、
世界の欠落した部分が修復によって補完されるということであり、
まさに創造活動の全てということになるのかもしれません。

<wada>と言うべき複製または、修復作業の人は、
決して、オリジナルを超えて創造してしまう補修をしてはいけない。そこがまさに<wada>の絶妙なる技なのでしょう。

これは芸術の定義?

『芸術とは世界を補修する行為である。
ただし<wada>になってはいけない。』

定義に欠けるとしたら、何を補完すれば良いか?
あるいは、そもそも定義になりえないか?


余談:
和田という人は、芸術選奨は剥奪されたそうですが、
それに対して
『文科省の見解は間違っている。盗作などでは断じてありえない。
あれは創作だ』とまだ言っておられるそうです。
ここまでくると昨日理恵子さんも言ってたように、何が現実なのかを把握する能力が欠落しているのでしょうね。記憶がすり変わってゆく人はえてして自信たっぷりですよね。彼らの世界には矛盾というものがないのだから。
2006年06月06日
18:09
安斎利洋
和田っていう人のアホさが浮き彫りになるほど、klonさんが言ってたみたいにスギ氏のつまらなさや、国家が芸術に賞を与える虚構性や、ひいては現代において一枚づつ絵を描く意味の希薄さがみえてきて、和田氏のことなんてどうでもいいんですよ。

もっと言うと、和田氏が現代美術的な言い訳をするほど、シュミラークル的なコンセプトの退屈さも露呈してしまう。

ホンモノなんて、めったなところにはないんじゃなかろうか。
2006年06月06日
19:22
世界のほとんど全てはグレーゾーンに
置かれていて、がらがら回す抽選機のように、
ポロンと出てくるものが、
たまたま、当たりとかハズレとか認知されるだけのことですよね。

ハズレのほうがメジャーだったりするので、
当たり(ホンモノ?)よりも、もてはやされることが多い。

虚と実というのはすごく難しい。

3人いれば学派になるって安斎さんが言っていたけど。
2006年06月06日
22:27
machiko
>国家が芸術に賞を与える虚構性

「国」ではなく「国家」。まあ、「国」でも似たようなものか・・・


ところで、Mikeさんのリンクにあるスギ&和田の作品を見て、なんか思い出しかけていたのが、ロートレックのポスターだ、と今、気がつきました。

同じように通俗的な場を描いていても、ロートレックの絵にあるような生き生きとした雰囲気や、その背後にある悲しみの影のようなものが、和田氏の絵にはないですね。
2006年06月06日
23:14
H.耕馬
耕馬です。神代の国から戻ってまいりました。
なーんか盛り上がってんジャン?

今回の一連の事件で、一番ハジかいたのって、文科省と芸術選奨の選考委員だよね。
ダウンタウンのハマちゃんがやってる、オチャラケ番組と同じコンセプト。一流の芸術を判断する目を持っていなかった、哀れなキュレーターって図?
2006年06月08日
15:06
これで、国のそういうことに関わる人達がケンケンガクガクの議論をやってくださるようなことがあれば、すごく良いことだと思う。

和田氏のしたことはある意味文化政策に対する革命となりうるかも。
2006年06月08日
15:37
安斎利洋
感覚的には良い作品だけれど、賞を与えるに値する歴史的価値があるかどうか、ってことについて審査員はだれひとり確信をもつことはできないので、議論したり調べたり。そういう上質の審査機関もありましたよね、耕馬さん、machikoさん。

ケンケンガクガクの結果、正しい権威が生まれるっていうことは、絶対にないわけです。

でも、あきらかにダメな審査はあって、残念ながらそういうのに名前を連ねてしまったこともある。審査会の議論のあと、投票集計の結果を審査員が知らぬ間に、結果は主催者が独断で決めるという、利権のにおいさえするのもあった。

それほど露骨でなくても、半分以上意見のない審査員を集めて、声の大きいのが一人いると、どんな議論があってもその人の意向しか通らない空気、とか。

あんまり暴露はできないんだけど。machikoさんなんか、裏話をはじめたらたいへんなことになりそう。
2006年06月08日
18:20
machiko
今まで知ってる審査の中で、いちばんすごかったのは、もう15年くらい前の、ビデオアートか何かの審査ですね。
当時、原宿にちょっとしゃれたハイネッケンのカフェテラスがあって、そこが会場だったと思う。

私は単に招待客で、授賞式&パーティー会場で他の人たちと一緒に、結果が発表されてパーティーが始まるのを待ってました。
当日に審査委員が集まって、その場で結果を発表する段取りだったわけです。

ところが、いつまでたっても審査委員たちは現れず、パーティ開始予定時間がどんどん過ぎても、みんなお預けくったまま。

たぶん1時間半くらい予定より遅れて、ナムジュン・パイクとか藤幡さんとか、審査委員が登場しました。疲れ切った顔で。
紛糾して、賞が決まらなかったらしい。

で、そんな大変な審査をして選ばれた作品がなんだったのか、全然覚えてないんですよね。
2006年06月08日
19:43
machiko
なんか、また1件、この人にもう何年も前に出した賞を取り消す、という話になったみたいですね。
そのときには回顧展までやったらしいけど、誰も気がつかなかったわけだ。

この賞を出した審査委員の名前が挙がっていて、中には面識のある人も。
想定外のことをやってのけたこの画家にまんまと引っかけられた悔しさが滲み出た談話が新聞に載ってました。

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