安斎利洋の日記全体に公開

2006年05月29日
01:07
 武満徹
15歳の時、FMから流れてきた武満徹「札幌オリンピック前奏曲(1971)」(のちに「winter 冬」と改名)は衝撃的だった。その頃耳を占めていたブーレーズと、決定的に違う緻密さの領域にひかれた。以来何ヶ月ものあいだ、僕の頭の中は武満の音楽とテキストでいっぱいになった。

1971年頃の武満は、少なくとも僕にとって神様だった。そのあとの武満は、微妙な旋法の襞に分け入ってしまい、少なくとも僕にとって退屈な作曲家でしかなかった。それに反して、70年当時の作品はなかなか演奏されることがない。

今日オペラシティで開かれた武満のコンサートは、
Cassiopeia(1971)、Asterism(1968)、Gemeaux(第1楽章は1971)
奇跡的なプログラム。

誘い合わせた中村理恵子と二階席から下を見渡すと、ikegさんが高橋悠治と話してたり、有馬純寿さんがいたり、藤枝守さんがいたり、途中からklonさんらも来たようだし、面識のない知った顔も無数にある。

30年前に比べると、アンサンブルの精緻さが桁違いに増していて、その中で鳴るスチールドラムなどの打楽器が、和音と音色の駆け引きとしてはっきり聴こえてきたのが、新鮮だった。終演後、有馬さんが「いやー久しぶりに現代音楽らしい現代音楽を聴いた気分」。たしかにアステリズムのクラスターを聴いたとき、懐かしさを感じた。

あの頃の武満は、自分がなんであるのかが50%くらいみえていて、あとの50%でいろいろなことをやっていた時期なんだと思う。自分の中に未知数をもつことは、自分らしいこと以上に大事なのかもしれない。
 

コメント    

2006年05月29日
01:22
ikeg
最後の部分、そうですね、まったく。僕は今回のは、個々の楽器の音が混ざらずに精密に聞こえて個人的にはうれしかった。それはコンサートホールだからなんじゃないか、と。
2006年05月29日
01:24
じゃい
>Asterism(1968)、

うわー、聴きたい。
それもタケミツ メモリアルで。
あそこの音、結構好きなんです。

>自分の中に未知数をもつことは、自分らしいこと以上に大事なのかもしれない。

私はすでにかつて規定された方法論を基にして自分なりに「工夫」したもので何か「誰の物でもない自分の音楽」ができたらいいなと、逆説的、即席的だと言われそうな「夢」を語っているのですが、「未知数」がそれを補完してくれるような気がします。

特に本格的音楽教育を受けていない私だからなのか、「自分らしい」なんて胸を張っていえる「演奏」も「作曲」の能力などありませんから。


2006年05月29日
01:31
安斎利洋
>個々の楽器の音が混ざらずに精密に聞こえて

そうなんですよ。録音で消えてしまう情報が、けっこう大きいですね。電子音をアウトプットにしているikegさんにとっては、どういう問題になるんだろう。
2006年05月29日
01:36
安斎利洋
>私はすでにかつて規定された方法論を基にして

高橋悠治がプログラムノートで、武満徹はそういう外からもってきたものを、誰よりも上手に仕上げてしまう、というようなことを言ってるんだけれど、ピカソとかストラヴィンスキーを連想しますね。
2006年05月29日
02:18
klon
僕はGemeauxよりは地平線のドーリア、ノスタルジアを聴きたかったですね。
ピカソやストラヴィンスキーの器用さとは少し違う感触な気がします。
2006年05月29日
03:56
安斎利洋
地平線のドーリア、あのノンビブラートのハーモニックスを精密に演奏したものって、ここ10年くらいなんじゃないかな。
ノスタルジアもそうだけれど、レクイエムにしても、音色の絵の具を全部出さない弦楽合奏が、武満の本領かもしれません。

>ピカソやストラヴィンスキーの器用さとは少し違う感触な気がします。

確かに。何を輸入しても、武満色になる。
2006年05月29日
04:55
klon
そうですね>ドーリア。
あの曲はちょっと特別な感じがします。反対にレクイエムは僕は聴けないんですよね笑

武満色になるというのはよくも悪くも血肉化してしまう、ということですよね。ピカソやストラヴィンスキーの場合対象との距離をもデザインするというところがあるので大分違いますよね。
2006年05月29日
06:30
あおいきく
文章から武満徹を聴きはじめ、不思議なくらい心が満たされるようになった私には、新鮮な評でした。

未知数の話は腑に落ちます。自分に置き換えるとちょっとせつなくなりますが。
2006年05月29日
07:00
は〜
>自分の中に未知数をもつことは、自分らしいこと以上に大事なのかもしれない。

すばらしいアフォリズムですね!!
2006年05月29日
09:15
ユミ
>自分の中に未知数

あぁ、そうか。。。
と、妙に納得。
未熟な時って「出来ない自分」がいやんなっちまうけど、それでもこの先どうなるのかとワクワク感はハイテンションなまま続くものね。
2006年05月29日
13:02
安斎利洋
>武満色になるというのはよくも悪くも血肉化してしまう、ということですよね。

そういうふうに思えますよね。そのアトラクタの強さから、武満自身が抜け出せないという。

でも高橋悠治さんは、きのうのプログラムの中で(権代さんとの対談)、「ペンタトニックがあって、それに半音ずれた音をつけていく」っていうやりかたが武満らしさの正体だ、って言ってるんだけれど、それってそうなんでしょうか? すると血肉化というより、特別なフィルターをもっていた、ってだけの話になってしまう。
2006年05月29日
13:05
安斎利洋
あおい菊さん、武満の書いた怪奇小説の話、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=139436696&owner_id=464033
僕も手に入れて読んでみます。
2006年05月29日
13:07
安斎利洋
>反対にレクイエムは僕は聴けないんですよね笑

ノスタルジアはOKで、レクイエムはNO、っていうのは面白い。その方程式がklonさんなんだ。
2006年05月29日
13:16
中村理恵子
わたしは、懐かしさを感じたんです。
わたしがテレビっ子だったころの、豊かで大きな世界にドラマチックに響いてた音って‘武満‘だったんですね。
隣の安斎さんは、‘武満‘で独特な体のスイングというか?してた。
本人意識してないでしょうが、初めてみました。

それから、2階席から何をみてたかってーと、階下にセットさせた観客の個性です。特に、‘武満‘と同世代のリアルタイムで生きてきた人々の、かんばせ。
じつは,向かい側にあるICCにはまめにくるのに、こっち側のホールには数えるくらいしかきてません。
しかし、途中まで一緒でICCに行かない人たちの群れの質感とは、今回の‘武満‘、違います。
広範にそれぞれの業界で一味違った仕事をしてる人々なんだろうかね、きっと?
と思わせる面構えの人々。

しかしなんといっても、カスタネット打ち鳴らして最初に登場した若い打楽器奏者がよかったなー。
全身を、あれpumma(かな?)の最新のシックなスポーツウェアにつつんで。猛烈な身体運動から繰り出す決しておもいつきではない音の連続。
ツトムヤマシタのを聴きたいなんて思ってたけど、初演は、彼が20代前半でしょ?
だとしたら、今回の、この彼女の起用は、大成功だったんだと思います。
2006年05月29日
13:59
klon
ペンタトニックから半音ずらしたり戻ったりという音階のシステムみたいなやり方自体、音列技法以降の「普通」なのでフィルターというほどのもんではないと思います。だから0,1の話ではないんですよ。
というか、作曲ではシステムやプログラムはきっかけに過ぎないし重要なのはそこから逸脱したり戻ったりの振る舞いで、それが個性と呼ばれるもんじゃないでしょうか。武満の特徴はそれらの距離が近い、ということでそれが血肉化に繋がるのだと思います。
2006年05月29日
15:19
渋谷西武の閉店の曲は武満作のオリジナルでした。
今はどうだろう。
あの曲のテープ、どうしたかしら。
2006年05月29日
15:56
安斎利洋
>重要なのはそこから逸脱したり戻ったりの振る舞いで

ですよね。それは、美術や思想にもいえることです。高橋悠治さんのは、だからいくらか「言いがかり」みたいなところもあるのかな。

ただ、別のところで高橋さんは、そういう旋法的でない初期の武満の虹のような音響は認めているというようなことを言っていたり、だんだんメシアンになっちゃったのが嫌だ、みたいなことも言っている。言い方が変わるあたりに、屈折があるんでしょうかね。

武満をどう好きで、どう嫌いかというのは、日本の音楽にとって面白い問題かもしれない。
2006年05月30日
14:03
klon
で、僕は99%嫌いなんですね笑
初期は比較的好きなのがあって、モードになってからはドビュッシー、メシアン回帰だからほぼ興味持てないです。
ペンタトニックの半音ずらしは確かに正体だけど、とはいえそれで音楽が同じというわけではない。ただ、毎回同じ方法でよく始められるな、とは思いますね。
2006年05月30日
18:37
安斎利洋
>僕は99%嫌いなんですね

やっぱね。そうだと思います。

権代さんも「関心ない」とプログラムに書いてあって、あんな否定的なプログラムも珍しいけれど、なんの屈折もなく関心ないんでしょう。それに比べると僕らの世代は、武満が雑食性だった頃の洗礼を受けているので、吉松隆さんなんかはあきらかにオイディプス的なゆがんだ嫌悪ですね。武満がカトレーンを書いたときは、彼は勇気をもって調性へ帰っていった、みたいな評が多かったんだけれど、僕はそこから気持がそれた。

武満は、人里はなれたところに住まないほうがよかったんじゃないかな。
2006年06月02日
19:37
有馬純寿
>有馬さんが「いやー久しぶりに現代音楽らしい現代音楽を聴いた気分」

僕が現代音楽を聴きだしたころ(70年代後半?)に流通してた現代音楽って、知的興味を弾くところや新しい音響の探索というだけでなく、爆発系の強い音響やパフォーマティブなところとか、下世話な部分も結構あったと思うんですよ。ある意味、吹奏楽曲にもにたハデさが。だからこそ中学生が興味をもつ訳で(笑)。最初に聴いたのがトゥーランガリラだったし。
そういう野蛮な部分と知的な部分のアンバランスが現代音楽の魅力のひとつであったと思います。その部分は、ノイズミュージックとかに取って代わられた訳ですけど。

そういう部分が70年代の武満作品にもある訳で。
でも、カトレーン以降の曲で武満に触れたリスナーには違和感があったようですね。とくにカシオペアの加藤さんへの批判がちらほらあるのが意外(とくに若いリスナーに)。ツトムヤマシタや吉原すみれの演奏はもっとぶっ叩きなのに。
2006年06月02日
23:41
安斎利洋
ケージ系、ブーレーズ系みたいな流れはあったかもしれないけど、音楽に細かいジャンルの定位がありませんでしたね。僕は武満の「スタンザII」が好きでした。ミュージックコンクレートもリングモデュレータも飲み込んで、「血肉化」している音楽は、あまりなかった。

1950年〜70年くらいをもう一度鳥瞰して、流行に流れていただけのものをふるい落として、優れた作品だけフィルタリングするような作業が必要だと思う。なんか、モダニズムはまとめて押入れの奥にしまっちゃったような感じがある。

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