安斎利洋の日記全体に公開

2006年05月16日
01:02
 問い(クローン)
ある夜、あなたを分子レベルで複製し、神経細胞の発火状態も複写したとして、翌朝あなたはどちらで目覚めるのか?

写真安斎利洋の日記とコメントはweb全体に公開されます
 

コメント    

2006年05月16日
01:30
両方で目覚めて同じ記憶を持つ双子になる。
嫌だろうなぁ。相手が。殺し合ったりして。。怖っ。
2006年05月16日
01:32
安斎利洋
それって、他人の視線でしょ。
2006年05月16日
01:46
同じ記憶を持つ同じ顔を持つ人が2人できるということなのじゃないの? 両方で同じように目が覚める。
でも別の人格でしょ。別のところにいれば気づかないよね。。
選ぶことはできないし。
2006年05月16日
01:54
びすけっと
仕事が半分になるなんて!!
いろんな選択肢を試して見れて便利ですね.

> どちらで目覚めるのか?

二人が区別できなければ,その質問には答えられない.

複写した瞬間は発火状態が同じでも,右に寝てるか,左に寝てるかで,その後の発火パターンが変わってくる.ということは,どちらかが先に目が醒める.
先に目が醒めたほうを自分だという定義にしておく.

目が開いて,隣にクローンが寝ていたら,相手が起きる前に,鼻の頭にマジックで×を書く.

もし,自分の鼻の頭に×が書かれていたら,×のない自分の言うことはなんでも聞くこと,と今から自分に言い聞かせておく.世界の秩序を守りたければ,自殺してでも守る.

クローン装置に入る前に,誓約書を書けばいいんだ.で,一か八かでその装置に入る.
2006年05月16日
02:00
安斎利洋
両方自分だとしたら、かならず自分が×を経験するわけだ。
自分はそんなことを承服できるかな。
2006年05月16日
02:10
安斎利洋
「私」ってなにか、というと、それまでの行為の羅列なわけです。

行為の羅列は、その時間をすごしてきたということでもあるし、行為の羅列が空間のパターンとして残っているということでもある。

そう考えるのは、他人の視線としては可能なんだけれど、リアルな自分のこととして想像したときに、僕はものすごく混乱します。自分が、行為の時間を生きてきた物体であるのと、行為の空間パターンをもっているだけの物体であるのと、同じだってことが。
2006年05月16日
02:20
ks91
クラークの「2061年」に同様のシチュエーションがあったように思います。Star Trek TNG でも、トランスポータの事故で人間の複製ができたことがありました。プロセスの分岐になりますので、双方がそれぞれ自分が目覚めたと感じると思います。複製された方だけが、違う寝床に置かれているとすれば、寝ている間に自分が移動されたと思うでしょう。複製が起きた瞬間から、双方の意識は異なる歴史を歩み始めるので、別々の人間ですが、ある時点 (複製が起きた瞬間) までの記憶が共通していることになると思います。
2006年05月16日
02:27
はらこ
一連の過程を観察していた第三者には×が付いたのがオリジナルだったのかクローンだったのかは明白なわけですよね。

「私」っていうものが自己のなかで完結して成立しているのならば第三者の視点はどうでもいいことかもしれないけど、他者との関係で成り立つのならば自分がどちらだったのかが他人の視線を通して自分に跳ね返ってくるのでは?
2006年05月16日
02:31
チクリン
答えは「両方で目覚める」です。
cpしたファイルがオリジナルと同じかどうか、という問題と
同じですね。

この先は、どちらが本人を名乗って良いのか、という倫理的、
政治的な問題になります。それを取り除けばいたって
自明だと思うんですが。
自意識というのは、意識を持って良いかという権利問題と
切り離せないので、語り方がややこしくなるんだと思います。

もしクローン化で自分が二人になることが驚異的であるとするなら、
いま、5秒後の自分が自分だということも驚異的なんじゃないでしょうか。
2006年05月16日
02:32
びすけっと
たとえば,手術の成功率がすごく低い病気になったとします.
×じゃないの方が手術を受けるという約束にして,クローン装置に入ります.手術を受けて成功したら,×に自殺しろと命令します.失敗したら,もう一回やり直す.

自殺をしない理由に,家族が悲しむとか,仕事を途中で
投げ出すのは嫌とかがありますが,クローンの場合はそ
れはないので,自殺しやすいと思います.
2006年05月16日
02:43
jun@NP
目覚めて出会った瞬間に間違いなくワタシが偽物だ自覚して、
とっとと旅に出ます。二人で?

(空間が違うから複製した瞬間に別人格かなぁ・・・)
2006年05月16日
02:46
安斎利洋
この状況設定は、SFではよく出てきます。6dという映画では、複製が複写元を殺すシーンもある。
問題は、自分のこととして想像できるか、ということです。まさに5秒後の自分が自分であることは、驚異的です。
それをはっきりさせるために、5秒を10年にして考えます。たとえば宇宙人がやってきて、おまえのすべては文字列に変換した、といって分厚い本のようなものに書かれた記号を見せられ、これを10年後に転送するから、お前は死んでくれといわれたとき、死ねますか?
2006年05月16日
03:03
ikeg
グレッグイーガンにもありますよね。頭の中の宝石=RNNの話。この安斎さんの質問の不安がテーマです。ぼくは、2人で目覚めたとたん、すぐに分岐が始まって意識は個別性を獲得するから、あんまり不思議はないんじゃないかと思うんですよね。同一性というのは自然界では(意識も含めて)、あり得ないから。
2006年05月16日
03:09
安斎利洋
そう、不安の問題なんです。客観的な整合性に対して、主観的にはまったく整合しない。
2006年05月16日
03:27
はらこ
その宇宙人が信用できるかどうかわからないからNOって言うのはだめですか?

仮にその宇宙人が信用できるとして…

死ねといわれてそれを受け入れられるかどうかは、死という体験そのものに対する忌避感の強さとかが決定的で将来の復活の保証はそれと比べると影響度は低いような気がします。

そういえば、イスラムのテロリストは死後天国にいけることが保障されているから自爆テロが実行できるという話を聞いたことがありますが、なんか安斎さんの設問に似ていますね。
うーん、やっぱり将来の保障への確信度が重要なのかなぁ…
2006年05月16日
03:30
中村理恵子
>5秒後の自分が自分であることは、驚異的です。

安斎さんの作品は、「2秒後のわたし」↓だったね。
http://www.renga.com/anzai/images/Windysam.jpg
そのまた3秒先の話ね。
2006年05月16日
03:40
普通に目が覚めても、
ああ昨日までの私とは違うと悲しくなったりします。
今日深夜にやってた映画面白かった。
ある日ダンナがダンナでなくなるという話。
2006年05月16日
04:57
ks91
この、人間の複製の問題については、Star Trek TNG での表現が一番、しっくりします。客観的に見ると、途中までひとりだった、別々の人間だということです。主観的には、途中までの記憶が共通している、自分によく似た他人がいるということです。

そして、どちらが本人かということは、むしろ社会的な問題として現れます。片方が社会により元の人格として扱われ、片方がそうではない人として扱われるからです。

安斎さんの、宇宙人に死ねと言われる問題に関して言えば、複製が起きた直後から別人ですから、僕は死ねません。この問題は、「2061年」に似ていますね。その物語の中では、複写されて機械の中で生き続ける方の人格が、(寿命で) 死にゆく人格の方を不思議な気持ちで見つめるといった描写があったと思います。
2006年05月16日
07:01
MERC
1卵生双生児の研究で、遺伝学的には全く均等な個体が、環境因子によってどの程度変異するかというものがあります。
1卵生双生児は、胎生期ににおけるクローンですが、勿論生まれ出た後、物心が付けば、その後は別々の個体として生きていくわけです。
環境によって病気になりやすさも違うし、経験値も勿論変わってきます。
同じゲームのキャラクターであっても、プレイヤーによってずいぶんと個性に差が出てくるような感じでしょうか。
有る程度成長してからのクローンであった場合、クローンの方は、それ以前の記憶も経験も、環境に及ぼした影響も持ち合わせていないわけですから、(いきなり世の中に飛び出してきたら、)記憶喪失患者のようにずいぶん途惑うでしょうね。ましてやオリジナルと全く同じということはあり得ません。
ちなみに、細胞レベルでの寿命はオリジナルの寿命とあまり変わらないと言われています。20歳の時点のクローンなら、まだ4〜50年年は寿命があるかもしれませんが、60歳の時点のクローンは、残された時間は10年程度ってことになります。
2006年05月16日
08:38
H.耕馬
成る程、こういふ面白い話は、深夜に醸成されるワケだね。
早寝早起きの良い子は、お説拝聴いたしませう。(@_@)
2006年05月16日
10:45
安斎利洋
『2061』さっそく読んでみよう。ikegさんが言ってるのは、グレッグ・イーガンの『ぼくになることを』(短編集『祈りの海』所収)。これ、まだ読んでなかった。
『2秒後の私』は、まさにそういう問題意識です。これも忘れていた。この作品を書いた自分といまの自分がつながっている気がするほうが、おかしいのかも。
しかし、この話題について複雑系科学者から産婦人科医まで出てくるこの贅沢な空間。

僕は、この思考実験が呼び起こす不思議な不安感のほうに興味があります。どういうことが起こるかというのは、他人の死が観察可能で了解可能であるのと同じで、まあ自分が二人になるんだろうな、ということにすぎない。あえて興味があるなら、もう一人の自分とセックスすることとマスターベーションは違うか、ということかな。
2006年05月16日
10:51
MATANGO
ブッダの言い分では、体も心も、それは「わたし」ではない、と考えるようです。

...と考える「わたし」が「わたし」だ、と考えた方が有名ですが、それも「心」の考えた「わたし」なので、「わたし」ではない....。

となると、クローンも、もとのもとも「わたし」でないことでは大したちがいはない...?
2006年05月16日
10:54
安斎利洋
>体も心も、それは「わたし」ではない

それ! それが露呈するから不安になる。
2006年05月16日
10:59
安斎利洋
びすけっとさんの設定を借りて、分岐した後、片方は安楽死することにしましょう。すると、最終的にひとりの自分が継続しているだけのことで、途中にだぶった時間はなかったことにしよう、と。

そういう計画を前にしたとき、最後に残る自分に、いまの自分がつながることができるという確信をもてますか?

という質問に変えてみよう。不安になりませんか?
2006年05月16日
11:39
まえG
Star Trekの「転送(beam)」って、「出発地でスキャン・分解」+「目的地で再構成」なんですよね。最初に読んだとき「分解って、それ殺人じゃん!」と思ってしまった。(「at least onceセマンティクス」を実現しようとすると、「再構成」が先になりますよね)。2箇所で再構成されて複製されちゃう話もあったし。

「クローンに記憶ごと移し変えて不老不死」っていう話も、「元のオレは死んでるじゃん!」と思ってしまう。
2006年05月16日
11:51
安斎利洋
at most once semantics だと、複製途中であきらめちゃったりするんでしょうね。
『タイムライン』は最悪映画でしたが、再構成がうまくいかなくて、脊椎がずれた人のX線写真が冒頭に出てきた。
2006年05月16日
12:05
チクリン
クローン化の不安は、太古の昔(古代ギリシャ以前?)の人々の、
「地球の裏に行ったらおっこちてしまう」という不安に
似ているんじゃないですかねえ。
地球が丸くて回転しているというあたらしい知識をもとにすれば、
ほんとうは今居るところから落ちないことを心配しなきゃいけない。

だからikegさん指摘のイーガンの短編 "Learning to be me"では、
抹消されるんじゃないかという恐怖におののいていたオリジナルの
自分が、実はずっと永らえるクローンだったというオチだったと
記憶しますが、クローン技術ができるころには、この不安は解消
している可能性があるのでは。

とはいえ現在の「零度」の自分に不安がないかといったら嘘になりますけど。
2006年05月16日
12:13
安斎利洋
「私」の継続についての不安は、それを支えるメディアの不安というのがまずあって、それを解消する技術もあると思う。完全な複写技術というSFの話も、医療も、そういう意味では同形です。

「私」所在についての不安っていうのは、たぶんそれで解消しないところにあるんでしょう。

MATANGOさんのを読んでひとつ気がついたのは、「私」がソフトウェアに乗り移れることができる、という確信をもつことが、仏教の悟りなんだろうな、と。
2006年05月16日
13:10
びすけっと
この実験が成功するまでには,山のような失敗の積み重ねがあるはず.最初は肉のかたまりみたいなものができて,自分かどうか以前に生命とも思えない.それがある精度を越えたときから,これは人間の部類に入れてもいいと思えるようになる.ここに実はすごい壁があって,どんなに性能的に人間と同じでも,人工生命であるというレッテルははずせないのではないか.99.99999%の精度になっても自分にすご−くよく似た人工生命だと思う.本当は100%なのかもしれないけれど,コピーをしている間のほんの数秒だけ本物は爪が伸びているから,あっちは偽者だと無理やり思い込む.

コピーされた側はどうなるか.こっちには,守護霊などはいないので,スピリチュアル的には単なる分子活動をしている物体であって,生命ではないのかもしれない.
2006年05月16日
14:11
nazo
ぐっすりと眠っている間に、かくもCPUの饗宴が繰り広げられていたとは。

思考のブラックホール化。思考することが思考そのものを呑みこんでいく世界。

昼ごはんを食べた後なので、まずは08:38のH.耕馬さんの意見に同調しよう。

2006年05月16日
14:31
安斎利洋
>99.99999%の精度になっても自分にすご−くよく似た人工生命だと思う

この話は、非常に浄化された汚水と、もしかすると大腸菌が混じっているかもしれないペットボトルの「おいしい水」と、どちらに手が伸びるかというのに似てます。
2006年05月16日
14:43
チクリン
>こっちには,守護霊などはいないので,スピリチュアル的には
>単なる分子活動をしている物体であって,生命ではないのかもしれない.

守護霊は別レイヤー(?)なので、クローン化がおこったら
かれらもどっちにつこうか迷ってしまう、に一票。
2006年05月16日
17:02
筑波の徳永さんは双子で、
全く別のところで暮らしていても、同じ時に風邪ひいたり、
同じ時計を買っていたりすると言っていました。

同じ細胞のクローンなので指向性は似ているということでしょうか。
他に不思議なのは片方がヒドい怪我をしたりすると、
全く別の場所にいて、そのことを知らされていなかったとしても、
同じ部所に違和感を覚えることがあるということです。

同じ人間の、情報までもクローンされた状態の
コピー人間だとしたら、ますますそういうことがコンフリクト
するのではないのでしょうか?別れた状態で他人になるけど、
すごく同期するところもあるわけで。

昔NewsWeekの双子の不思議という特集には
そういう双子の逸話が沢山載っていました。
一卵性双生児でも、
全く対等ではないわけで、
少し性格の強いほうが、相手をお前はニセモノだと抑圧したという話も載ってました。

『複製しますよ』と言われていれば、自分がオリジナルかコピーかとのことについて悩むかもしれないけど、
聞かされていなければ、わからない。今だって、
実際に大きな力が働いて、
宇宙ごとコピーされているのかもしれないし。
2006年05月16日
20:29
安斎利洋
何年か前、ICCでカンブリアンゲームのワークショップをやったときに、大空くんと大地くんという笑顔のかわいい双子の小学2年生が参加しました。二人はちょっと離れた席で、それぞれ別の絵に対して絵をつけたんですが、

http://cambrian.jp/workshop/2004b/pic00005003.htm
http://cambrian.jp/workshop/2004b/pic00004011.htm

こんなふうにそっくりな絵を描いて、ファシリテーターの学生は思わず「おんなじ絵かいてる!」と叫んでいました。
2006年05月16日
20:46
スゴイなぁ。インプットが別でも同じ絵をアウトプットとして出すというのは、やはりシステムが決める要素が多いということでしょうか?
とりあえず、友人との約束の場にもう一人の私があらわれたりしてないので、この世には私のコピーはいなさそうだ。

しかし、ネットワークの世界では、
フェイクの私が現れて、言っていないことを言ったりする
(なりかわる)こともあったりもするのかもしれません。
2006年05月16日
20:58
上のシステムとは肉体のことです。カンブリアンのシステムのことではなく。。
2006年05月16日
22:24
ikeg
量子的実体としては、重ね合わさってるし。
2006年05月16日
22:28
N_apostrophe
遅ればせながら加わります。
同時に目が覚めないとして、先に起きた方をchouとして、次をjiとすると。
chouが起きたときだれかsmoと会うと、その人を見てわたし(
chou)はある気分をもった間主体chou/smoになる。
その後、jiが同じsmoに会うと、smoはchouとあったと思うから同じ反応をして気分smo/chouになる。だからわたし(ji)は同じ反応をして気分ji/smo(=chou/smo)という同じ観主体になる。
それでもchouとjiは同じ道を歩くだけではないから、それぞれ別の他者に出会い、chou/smo/smo2/smo3/*となり、他方jiはji(=chou)/smo/smob2/smob3/b*となり、両者は異なった主体(間主体変異)になる。
この両者が夜再会すると、互いに異なった間主体をコピーし合って同じ主体に戻る。
こうして再会するたびに違いをキャンセルしながら同一化するが、会うことがなければ異なったものになって行く。
これはどうやらロブグリエの新作小説『反復La Reprise』(ぼくは『復帰LaReprise』という訳語を採用しますが)の二人の「わたし」という語り手の物語を思い起こさせます。このように読んでいるのは僕だけかもしれませんが。
今、コラボレーションでDEF_6に取り組んでいるのですが、故郷に帰った父を追って息子が捜し回るうちに、故郷で父が息子となった父に再会する(帰京/奇行)という筋の第二フェーズにいるところです(コラボレーターの筋がコピーされて第一フェーズから変化した段階)。主体(わたし)って何ですかね?多くの顔をコピーした人物を思って死ぬ直前の父の顔と最近の僕の顔をコピーしたら明日の僕に出会いました。
2006年05月17日
01:42
安斎利洋
N_apostropheさん、『復帰LaReprise』をまったく読んでいないにもかかわらず、作品に心を動かされたような擬似読後感が残ります。chou と ji はその作品の語り手ですか?
そんなことはどうでもいいか。
chou と ji が誤差を解消するプロセスは、どんな時間なんだろう。文と文が対話的に連なるのだろうか。それとも唱和する言葉が、途中でばらけていくのだろうか。言葉の中に言葉が埋め込まれ、さらに埋め込まれていくのか。どのような情動が湧き上がり消えていくのか。葛藤なのか、恍惚なのか。
2006年05月17日
02:22
量子的実体は重ね合わさっていても、
文学的な実体は別のものなのか、
違いを作るのは、位置と時間の経験だろうか。。

chouとjiは出会うと同じものになるのか。。
2006年05月17日
16:17
安斎利洋
chouとjiの分離・統合は、身体が分かれない自分の中でも微視的に起こっていますね
2006年05月18日
00:18
にしの
違和感があって、考えてました。いつも後出しですみません。

どちらで起きますかという問の、「どちら」という言葉の時点で本質からずれているように思います。
「二人」というのがある意味で誤解を生んでいて、
全く同じにコピーされたときその二つの別々に働く脳あわせて一つの「わたし」なのではないでしょうか。

脳が二つある状態を体験したこともないので理解不能ですが、たとえばなんらかの理由で切断した四肢の一部がそのまま「生きつづけて」いる状態にあるときの脳の側の私と部分の私どちらも私です。そんな感じです。
二人のうちのどちらかが死んでしまったときには、切断された四肢の比喩ではその部分が壊死したようなものです。

あえて言い換えるなら元の問は、脳機能だけを何故特別視するのか、ということへの答えを求めなければならないと思いました。
2006年05月18日
00:27
安斎利洋
神経系を特別視するということじゃなく、もし相互作用のない切断された四肢が私であるなら、自分から移植した腎臓も、死ぬまでに切断する無数の精子や卵子のことも「私」としなければなりません。
2006年05月18日
00:31
はらこ
>切断した四肢の一部がそのまま「生きつづけて」いる状態
>にあるときの脳の側の私と部分の私どちらも私です

生体肝移植で提供した肝臓なんかも他人の体の中にありつつも私の一部だということでしょうか?
2006年05月18日
00:52
臓器移植などを受けて、アレルギーなど体質はもちろんのこと、
食べ物のし好性まで、ドナーの影響をうけるということがよくあるとかないとか。。
中国などの民話では、爪や髪を食べたねずみが、本人に化けて悪さをするという話があります。
2006年05月18日
01:12
安斎利洋
レシピエントがドナーの影響を受けるのは自然な因果関係だけれど、もしドナーがレシピエントの影響を受けるとしたら、それはそれで面白いテーマだと思う。しかも、提供しているのが情報だけの場合、なおさらのこと。
2006年05月18日
23:26
にしの
> 相互作用のない切断された四肢が私であるなら

そうですね、これをどちらに捉えるか。

私は、離れてしまった部分も、くっついていても、子供も切った髪の毛も、自分、と思うのです。
2006年05月20日
17:25
N_apostrophe
La Repriseでは、それぞれは「わたし」の時と「彼」の時があります。片方の主体(「わたし」)が相手を考える時には「彼」となりますが、その「彼」が主体となって考えるときは「わたし」となって先の存在を「彼」とします。
いわば、夢の中のわたしを目覚めてわたしが考えるときわたしは「わたし」が何をしていたか思い出すのに似ています。しかし決定的に違うのは、それぞれが活躍する世界が「現実」と「夢」の区別を持たないことです。
むしろ多重人格統合失調という症状として言われていることを想像する時に似ています。わたしのある側面が行動したり判断したりしたことを、別の側面は彼あるいは彼女が行動したり判断したりしたと考えるのに似ています。
「わたし」という同一の神経中枢があると考えてわたしなどはいるわけですが、そうしたケースではその同一性は保障されていなくて、社会的には一人の人物に二人が同居していて、当の人物は互いを他者だと考えている。
そのとき、それぞれの行動は「夢」のような不確かなパイプで繋がっている。言い換えれば、人物の同一性を疑わない読者は、それぞれが行動する世界を、それぞれが夢を見ていると考えてしまいます。ですから、他方の夢の世界の存在(たとえば彼と関係する女性)に現実で出会うと、deja-vuのように関係が繋がります。
一卵性双生児の人が相手の恋人と関係したりするとき、当の恋人は気づいていないとすると、おそらくdeja-vuのように「過去」を夢のように感じながら実際に関係してしまったりするのでしょうか。
2006年05月20日
20:02
にしの
つぎのように考えてみました。
いったん切断された部分が、しばらくしてから、再び自分に接合されればそれは自分とみなすのではないか。すると、途中で物理的に分離している時間には、いったいどういう関係にあるのか?ということを思考実験してみると、やはり分離していてもわたしだと思うのです。

いっぽうで、「妻を帽子と間違えた男」で紹介されている高次脳機能障害者のなかに、身体のある部分が「自分でない」と認知する例があります。平常でも、しびれてしまった足などでその感覚を体験します。

さらに、自分の「意思」に基づいて動かせるかどうかなどを「わたし」の境目としてみましたが、心臓は非随意筋でできていますから、これをわたしでないとすることはできません。

ここで問に戻って考えてみたとき、物理的に離れていても、意思がつうじずとも、二つのもの両方が「わたし」である。そういうクローン状態があり、そうなると思うわけです。ふたつの脳と身体で別々に分かれた、一つのわたし、です。

そして、完璧なクローンというものを知っている人がこうして起きたときにはなんの疑問ももたないのではないかと思うのです。全く同じ記憶思考を持ったクローンがいる環境を知らない今の私にはもちろん想像があまりできませんが、勝手に動く心臓を自分の一部と思うようなものと考えます。
2006年05月20日
22:00
はらこ
>にしのさん

もし、切断された部分が他の人に接合されていた場合はどうなるんでしょう?
あるいはその人と体の部分を一時的に交換していた場合、自分に接合された部分は元の人の一部でありつつけるんでしょうか?

真逆な考え方としては、自分の意志で動かすこともできず感じることもできない部分は自分の一部でないのみならずこの世界に存在すらしていないという考え方もありますね。

我々の素朴な世界観からは乖離していますが、こっちの考え方でも完結した世界観を構築することができると思います。
2006年05月20日
23:45
安斎利洋
ここ10年、夢を見るたびに記述しているんですが、夢日記を書き始めると夢を見るようになると言われている現象は確かにあります。夢を見るようになるというよりも、「夢」の自分と「現」の自分がすれちがって情報交換をする滞留時間がだんだん引き延ばせるような感じ。
そのあいだに変換できた言葉だけが収穫のすべてで、言葉にできたものは情動や体感も残ります。そうでないものは、体感もどんどん揮発する。
自分は「夢」状態から「現」状態に乗り換えてきたような感覚もあるし、「現」という乗り物に乗ったまま「夢」に出会ったような感覚もある。多重人格統合失調も、「A」という乗り物に乗っている自分が、「B」が滞留する時間をもつようでもあり、「A」と「B」を乗り換えるような感覚をもつんじゃないだろうか、と、これは想像に過ぎませんが。

にしのさんの話も、身体はたまたま自分に滞留したパーツの集合のように読める。
2006年05月20日
23:56
>自分は「夢」状態から「現」状態に乗り換えてきたような感覚もあるし、「現」という乗り物に乗ったまま「夢」に出会ったような感覚もある。

時々あまりに生々しい夢を見ると、
胡蝶の夢じゃないけど、
現実がひどく色あせて、何が夢で現なのかわからなく思える時がありますね。
2006年05月21日
06:43
N_apostrophe
夢と言う領域では起きているわたしは連続している。起きているときでは夢のわたしは寝ていた時にいると不連続に思っている。これが僕の場合です。
今起きたところなのですが、夢で凱旋門を正面で撮るために路面電車に乗っているのですが、車掌が写真機やカメラはパリでは職業でない場合許可されないと言います。わたしはすぐ隠すのですが電車はトロカデロに曲がってしまう。降りると道路でテニスをしている人たちがいるのですが、スカッシュのように何回バウンドしてもかまわないルールになっている。
こうした場合に出会ってわたしは起きているときの記憶を補正しているのですが、夢だとは思っていない。
ただこうした区別も例外はあって、夢の中で起きているわたしに戻ろうとすることはあります。目覚めようとするか、大概は電車に乗って帰ろうとします。後者は夢と思う思考が完全でない場合ですね。
にしのさんの言われるように、付随意な状態にあるのでしょう。夢と思っている思考が正しいのか、ふたつの(あるいは多数の)時空間にわたしが沢山いるのかはわかりません。起きていて夢で行けると間違っているだけなのかもしれないからです。
少なくとも多くの宗教では信仰と言う乗り物で移動できると考えているように思います。
2006年05月21日
06:53
N_apostrophe
忘れていたことを思い出しました。
気絶したことがあって、そのとき意識に戻ってくるとき、わたしは記憶の世界にゆっくり戻ってきました。いわば生まれたときの状態にいて、ゆっくり喪失直前の記憶にゆっくりもどり、そしてすべての記憶が戻る。
復帰とはこうした接合ですから、もし喪失していた間に「夢」を見ていたら、「夢」を挟んだふたりのわたしが接合されるのでしょう。そのとき、復帰した周囲の人からわたしは寝ていたと教えられるので、「夢」で起こったことは夢にされるのでしょう。
わたしの場合はなににも出会いませんでしたし、気絶していたと思っていますから、夢を見た場合と同じ状態にいます。
2006年05月21日
13:56
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=8427387
時間を混ぜてみます。
2006年05月22日
02:14
安斎利洋
気絶と夢の関係は、意外でした。僕は、気絶したように眠ったことはあっても気絶したことはないようです。金縛りは経験がありますが、あれは気絶とも夢とも違って、「私」が多重化する瞬間のように思う。多重人格は、夢をどう見るのだろう。また、多重人格はどのように気絶から復帰するんでしょう。

ロブ=グリエの反小説や、中川さんの反映画が浮かび上がらせようとしている「私」の存立のあやうさや無根拠性を、古典的な小説の文法で表現しようとすると、グレッグ・イーガンのSFになるんですね。
今日考えたのは、そのような世界を表現するアンチ・ゲームというのはできないのだろうか、ということ。脱する、分離する、復帰するといった言葉が、ゲームを強く思い起こさせます。すべてが宙に浮いていて、地面に接している私がないような世界は、小説よりもゲームと親和性があるんじゃないだろうか。
2006年05月23日
17:51
N_apostrophe
ロブグリエはよくゲームに譬えられます。
それに「ゲーム」には多くの場合相手がいる。この存在がわたしをおびやかすというところに特性がありますから、自己完結の誘惑から逃れられますね。
2006年05月24日
03:23
安斎利洋
もしロブグリエのテクストをゲームとして「実装」する場合、それはハイパーテキストになるんだろうか、ということを考え中です。

つまり、ハイパーテキストはテキストという単位から単位へと、離散的に動いていくけれど、そうではなく、主体Aから主体Bへとなめらかに連続していて、しかも網の目のような構造になっているような言葉の空間というのは、可能だろうか。

すべての文が用意されているのではなく、文が読み手の読む行為によってその場で生成されるように、ジェネレーターを作ることが書くことにあたるようなテクスト。読み手の視点によって、主語や構文が変化するテクスト。

そういう試みは、すでにありますか?
2006年05月24日
03:39
http://jizai.com
のとも違うんでしょうね。構文は固定だから。
これ歌うのが面白い。もう10年ぐらい前に友人が作ったサイトです。
2006年05月24日
04:04
歌わせるのは自在シンガーです。自在漫才も面白いです。
5W1Hジェネレータは自在ガジェです。
2006年05月24日
11:26
安斎利洋
文の自動生成というのはいくつもあります。ビル・シーマンのExMechとか、歌手のmisa joeyさんはマルコフ連鎖で歌詞の自動生成をやっていたりします。

そういうのではなくて、小説の中に変数を埋め込めないか、と思ったんです。

しかし、代名詞は変数ですね。「鏡はあなたを映している」のあなたのように。そもそもシニフィアンがすべて変数だ。だから言語の中に変数を埋め込むというのは、メタになるか。

そのmisaさんの過去の日記で

「ファンケルの青汁はまずいと評判なので、呑んでみようと思ったことはなかったのですが、確か、中野の近くのジョナサンで飲んだ記憶が・・・。特別まずくも旨くもない感じでしたが・・・パスタソースと思っては呑まなかったな、確かに・・・。やっぱり、基本的にアオムシなので、青臭いものに関するXXが違う気もします。XXはアオムシが今酔っ払っていて、普通にここに入る言葉があるというイメージはあるのですが、その日本語の単語が思い出せないので、省略です。 」

というのがあって、僕の考えたXXに入りそうな言葉は

設計
OS
郷愁
回線
戦略
節操
敷居

こんな感じで保留と解決が起こるようなテクスト。
2006年05月27日
08:33
N_apostrophe
ロブグリエの場合だと、書き進む行為が書かれた記号作用を変形するように進みます。(カンブリアンゲームのように)。
古い例ですが(『秘密の部屋』から)
<始めに見えるのは真っ赤なシミ、新鮮な赤で、輝いていて、>
しかし書き進むにしたがって
<暗い影に被われて、それはほとんど真っ黒な影で>
見えなくなってしまいます。
小説を読む行為は、記述から場面を読み取るので、こうした短い記述の中で場面が変わることに気づかない(なぜならこの部分では未だ場面が描けないからです)。
このような伝統的な読み方が書き方の中にある不連続性を見逃します。その結果おぼろげな(解釈者によって異なった)イメージを場面に与えます。
離散的なテクストの縫合の仕方によって変わると考えれば、テクストを離散させるのが別のクローンが生きる時間の存在と言えます。
ちょうど今母が目覚めたところで、ヘルパーさんと会話をしています。母は夢で両親に会っていたようで、その時空間と起きた時空間との縫合に手間取っています。
両親がどこに行ってしまったか、ここはどこかと聞いていて、ヘルパーさんが縫合を助けています。母は眠る前の自分と起きた自分の間に介在したクローン(夢の中の自分)の生(夢)によって分断されたのです。
XXについて考えてみると、ここに入るのは読者主体(これは物語ではアオムシ)がその前にいた自分と関連づけて想像できる答えなのではと思います。
ただし、物語世界の外にいる(今度はほんとうの)読者が異界から答えをもたらすかもしれません。ヘルパーですね。

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