安斎利洋の日記全体に公開

2006年05月14日
17:19
 問い(拉致とペット)
(ks91さんの問いシリーズに倣って)

決してペットの飼い主への非難ではなく、あくまで哲学的な疑問です。
ペットの飼い主にとってペットと人は同等の存在である、という前提で、
北朝鮮による拉致とペットを飼うことの違いは、なんですか?

写真注意:安斎利洋の日記とコメントはweb全体に公開されます
 

コメント    

2006年05月14日
17:41
私が主人かどうかの違いです
2006年05月14日
17:48
安斎利洋
なるほど、私とあなたの違いは、あなたが私でないことです、と同形ですね。
2006年05月14日
18:18
nazo
金平糖になぜイガイガの突起があるのか、といきなり問われているような課題ですね。

さて、猫を飼っている一人として回答します。

北朝鮮による拉致とペットを飼うことの違いは、

前者は平和的でない、後者は平和的である。

もしくは

前者には愛情はない、後者には愛情がある。

2006年05月14日
18:28
佐々木俊尚
一九八〇年代に拉致された韓国の映画監督に対して、金正日総書記は愛情を持っていたかもしれないですね。それがゆがんだ愛情だったとしても。

拉致された被害者たちは、北朝鮮以外に世界が広がっており、その世界が北朝鮮よりも幸せで自由であることを知っている。自分の親族が自分の身を案じながら暮らしていることも知っている。

一方、ペットは飼い主の作り出す環境管理型権力(アセンブラージュ)に取り込まれ、いま住んでいる家の外に自由で平和な世界が存在することや、自分がかつて愛した兄弟たちが存在することを想像もしていない。
2006年05月14日
18:48
小林龍生
まあ、思考実験という前提で。
「ペットの飼い主にとってペットと人は同等の存在である、という前提」には、「ペットには自由意志がある」というステートメントが内包されている。(これには、さらに「《人》には《自由意志》がある」というステートメントが前提となる)
とすると、《ペット》と《飼い主》という、ある種の従属性を前提とする指示詞を使うこと自体が撞着を引き起こす。
これを避けようと思うと、「あるイヌとあるホモサピエンスがその生存空間を共有しているとして」みたいな、間抜けな言い方になるな。
まあ、そのことに目をつぶって、ボトムラインに直行すると。
飼い主がペットを人間と同等の存在であると認めるのであれば、飼い主はペットに対して、飼い主の保護下から離脱する自由を認めなければならない。
で、北朝鮮による拉致の問題だけれど。じつは、拉致以前の問題として、北朝鮮における支配者層と一般住民との関係と上記の飼い主とペットの関係は同型である。北朝鮮において一般住民の自由意志が認められているかどうか。
いわゆる喜び組の例を引くまでもなく、北朝鮮の権力者は一部の住民を《愛玩》しているのである。
チョン。
2006年05月14日
18:52
びすけっと
a. 北朝鮮の拉致
b. 商業的な方法で産まれた動物をペットにする
c. ジャングルで生活している動物を捕まえてきてペットにする
d. タイとかから子供を養子でもらう
e. c.にその親との間に金銭的な取引がある

これらの大小関係を調べればいい.
2006年05月14日
19:06
安斎利洋
そう、あくまで思考実験です。政治的意図はありません。

ペットや被拉致者が、外界の自由を知っているかどうか。これは、忘れているかどうか、というのもあるし、また外界は自由だけれど熾烈な野生の世界であると信じている、というのもある。「自由意志」というのは、そもそもなにか。いわば、「砂の女」問題。

それから、
自由を知る前の赤ん坊のうちに拉致された子は?
自分の意思でなく養子縁組された子は?
正しいと信じてやってきたことによって拘置所に入れられてしまったホリエモンとの違いは?(これはちょっと違うか)

だんだん芋づるになってきた。
2006年05月14日
19:21
安斎利洋
支配するものとされるものが、生殖可能かどうかというのは、この問題とどう交差するんだろう。
2006年05月14日
22:15
machiko
「素晴らしき新世界」とか「家畜人ヤフー」とか、いろいろ小説を思い出しました。
SF小説もある意味で思考実験ですね。
2006年05月14日
23:13
安斎利洋
>「素晴らしき新世界」

そうそう、この問題はユートピアの逆説なんですね。ペットにとって、人間社会の恩恵は野生状態に比べてユートピアだから。

たとえばいまの僕らが、無自覚なペットであり、なにかへの道を遮断された状態にあることに気づいていない、というのは思考実験として、かならずしもSFだけの話じゃない。

社会主義国家はわかりやすい全体主義に走るけれど、それこそ低温やけどみたいな全体主義はあちこちに偏在しているわけです。佐々木さんの本のテーマでもありますね。
2006年05月15日
00:17
miyako/玉簾
広辞苑より
【ペット】
1.愛玩動物
2.お気に入りの年少者

ということでした。
この辞書の記述にこの質問の言葉を照らし合わせて始めてみる。

「ペット」という言葉で対象を呼ぶ限り、広辞苑的日本語解釈では

>ペットの飼い主にとってペットと人は同等の存在である

という論に矛盾が生じます。

次に私的具体例を上げてみます。
私は犬を飼っています。牛小屋の番犬の子供で、保健所に連れて行く処分の子犬の中の1匹をもらいました。犬は必ず保健所からもらうかノラを連れてきます。

犬を引き取った時点で、人間として法律上、「犬を保護、管理する」責任が生じてしまう。実は私は、犬を四六時中繋いでいない。
犬は塀の中で自由にしていますが、毎日脱走します。飼い犬のくせに、私が呼んでも来ませんので一日中好きにしています。そのかわり車に轢かれそうになったりしています。
そこは自己責任で彼女は何とかしている。
彼女が轢かれても私は轢いた人を責めようとは思っていない。

しかし、彼女に驚いて人が車にぶつかった場合、人の法律に触れて私は罰せられます。

私は、彼女の意志を無視して避妊手術をした。
私は自分で決めているディールを持ち出し
「いっしょに暮らす限り、最低限この条件は承諾してください。」と犬に本気で言ったけれど、彼女はそれを許してくれているのかどうかは分からない。
しかしそうしないと、オス犬が夜中に10匹程やってきてメスの取り合いになって、一晩中、オオカミのような唸り声や酷いケンカが響き渡り、近所迷惑になるからです。彼女も繋がれて自由を失う度合いが高くなる。

以上、ゆるい石垣の状況下での話でした。

飼うという事の難しさに日々悩んでいます。
ケージに入れて飼う動物は、もう飼わない事に決めています。

この状況と「北朝鮮による拉致」は、今のところ同じラインで比べる事は私にはできないなあ。
2006年05月15日
00:20
miyako/玉簾
追記
>しかし、彼女に驚いて人が車にぶつかった場合、人の法律に触れて私は罰せられます。

事故になると洒落になりませんので、脱走すると、おいしいもので引き寄せて繋ぐよう心がけています。
2006年05月15日
00:26
miyako/玉簾
何だか、外れた事書いてますね、すみません。
2006年05月15日
01:07
安斎利洋
僕の中の自然な感覚からすると、民家で飼われている家畜の方が、よりピュアな動物とヒトの共生形態だと思う。石垣島の犬は(家畜でないにしても)、それに近い印象があります。昔、ヒトと動物が交わした契約に沿っているのかもしれない。

うちの近くに城北公園という大きな公園があるんですが、そこにはたくさんのペットが集まってきます。しかし、放し飼いは禁止されていて、そのかわりドッグケージだかなんだか犬の解放区があり、しかも大型犬と小型犬は別の囲いになっている。都会で飼われているペットは、工業的なマスプロダクションの回路として飼われている家畜と、なんだか同じに見えてしまう。

妙な景色といえば、近所の保育所がリアカーのような手押し式の乗り物に子供を十数名乗せて、その公園まで散歩に来る景色も奇妙です。子供をばらけないで安全に運ぶ最適な方法なんでしょうけどね。加護と束縛は、同じことなんだ、と了解する。
2006年05月16日
00:11
にしの
元の問に戻って、
飼われる対象の立場の違い、ではなくて、立場の逆転がありうるかどうかの違い、かと思います。

私が誰かをラチすることも、誰かにラチされることもあるけれど、ペットに私が飼われることはありえません。だから拉致は愛情や自由があっても恐怖だけれどペットの飼育は一切恐怖でないのだと思います。
2006年05月16日
00:30
安斎利洋
なるほど、明晰ですね。

「私」と「誰」が交換可能である、というのは同じ人類であるから、という話とは違う階層にありますね。

かつて奴隷はペットと同様に、奴隷が私を飼うことはないと信じられていました。なぜそう思われていたかというと、奴隷は武器を使えないから。だから、奴隷をもつことは悪であると、考えることができなかった。

実は、奴隷も武器を使えるから、それは拉致であるという認識が生まれた。そこから、奴隷の人権という意識が生じた。奴隷と主人は、交換可能であることがわかった。

もし巧妙な力(幻覚を見せるなど)で人間を支配できる生物がいたら、それは拉致ではなくペットである。人間は煙草や大麻のペットである、ということになる。

それは正しいような気がする。

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