安斎利洋の日記
2006年05月11日
11:20
問い(余命)
ks91さんが、一日ひとつ
哲学的な問い
を投げかけているけれど、それに倣って。
余命2年を知ることと、余命50年を知ることの、根源的な相違はなんですか?
(参照:
過程としての死
)
コメント
2006年05月11日
12:06
中村理恵子
かつて、算数天才児童として身内で評判だった、トシに、偶然出会ったのね。それも、綺麗な彼女連れ(駅まで送ってくところだったらしいね。)。
彼も成長しました。
その、トシと久々、ワインのみのみした話。
開口一番、彼曰く「とっても大好きなんだけど、彼女の事ね。
失うこと考えると苦しくなる。」とかなり本気。
その彼に、ちょっと意地悪な質問を。
「あと、どのくらい生きれそう?」(わたし)
「・・・・・・・・・・・・・・・・40、、ん!?。
43だな、43。」(トシ)
あまりに予想外の質問だったらしくて、でも、とりあえずは応えて、ケータイをもってどこかに消えた。
死ぬほど好きな彼女のことは、考えるけど、寿命や死なんて眼中にないっちゅう感じ。
2006年05月11日
15:22
にしの
時間も空間も人間が把握して意味をもつのですから、2年と40年と50億年の違いは、人間の器の違いでしょうか。
でもあと40年と思ってアタフタする方が、器は小さいですね…。
2006年05月11日
16:22
Ken☆
>開口一番、彼曰く「とっても大好きなんだけど、彼女の事ね。
>失うこと考えると苦しくなる。」とかなり本気。
なんか他人事じゃないって感じだなぁ。仮に誰かとまとまったとして、「突然自分がいなくなったらって考えると、やっぱり苦しくなる」んだろうなぁ……。
「2度ある事は3度ある」「3度目の正直」……どっち?って。
2006年05月11日
16:48
miyako/玉簾
>余命2年を知ることと、余命50年を知ることの、根源的な相違はなんですか?
余命2年の場合カウントダウン的に毎秒を意識して、その時に何が起きているかを見るでしょう。今日、元気であった事を毎日喜ぶでしょう。
余命50年の場合はなんにも考えずにだらだらしたりお昼寝をする事が可能ですね。
本当の意味でどっちが幸せなんでしょうか。
そもそも本当って何なんでしょうか。
2006年05月11日
16:53
安斎利洋
もし本質的な違いがあるなら、どこかに敷居があるはずです。敷居が無いなら、本質的な違いはない。
2006年05月11日
18:15
びすけっと
3つの数字それぞれに2択で質問をする.いろんな数字をいろんな人に聞いてみれば,どこかに(平均的な意味の)敷居がみつかるはず.
余命2年だとして
1) あたふたする
2) へいき
余命10年だとして
1) あたふたする
2) へいき
余命50年だとして
1) あたふたする
2) へいき
僕の場合は10年と50年の間に敷居がありそう.
2006年05月11日
18:27
TODO
人工股関節の寿命が10−15年と言われていて私がただいま59才になろうとしている。
でもって痛みに耐え難くなるのがいつなのか分からないが、歩き回るのがつらくなったら手術したい。しかし、自分はいくつまで生きるのだろう。高齢の身で再手術はいやだ。
65才くらいまで現状が維持できてその頃手術なら次は75から80だから生きてはいないかも。
などと時々考えたりしています。
2006年05月11日
18:43
ks91
貨幣に寿命があることが分かったとします。例えば、2日後に、価値がまったく無くなってしまうとすると、その前日 (つまり明日) には、誰も受け取らなくなります。その前の日 (つまり今日) も、次の日に誰も受け取らなくなってしまうものを受け取る人はいませんから、貨幣は通用しなくなってしまいます。このことは、何日後に貨幣が無価値になるとしても、同じように逆算していくことができます。
未来のいつの時点でも、貨幣が無価値であることが確定すると、それは現在においても価値が無くなってしまうのです。
貨幣の価値は、その寿命が未確定であることにより支えられていると言えます。
同様に、人間のある意味ちゃらんぼらんさも、寿命が未確定であることにより支えられているように思います。
寿命が確定するならば、貨幣と同じように論理的に考えていくことはできると思います。といっても、人生が無価値になることは多分ないでしょう。というのも、逆算して何をする時間があるのか、何をしたいのか、何をすべきだと思うのか、明確になるからです。
多くの人々は、論理的には考えないのだと思いますが、実際に病気や老衰による余命が 50年であることが確定したとすると、多くの人々は合理的な適応をすると思います。例えば、努めて事故に遭わないようにするなどのことです。
2006年05月11日
20:52
Linco
冷凍庫で急速に冷やした8度のビールとゆっくり冷やした8度のビール、過程を知らなければ同等に感じます。でもぼくはゆっくり冷やした8度のビールの方がおいしい。
2006年05月11日
21:01
にしの
>もし本質的な違いがあるなら、
>どこかに敷居があるはずです。
>敷居が無いなら、本質的な違いはない。
かちっとした敷居は無いと思います。(そういう信念に基づく仕事をしております)。
毛が薄くなっていく時にどこからハゲかというくらいの敷居の無さです。
あと50年の余命と言われても、あと2年の余命と言われても、2日くらいで慣れてしまって、違いが無いように思います。私の場合。
怖いのは、誰にも何も言われずに明日のある時フッと途切れてしまうことです。
ですが、大抵の人はそれを心配しません。どこか余命の認識うろたえと関係していると思います。
はっきり違いがあるはずなのに付き詰めると無い。あるような気がしているのは錯覚ではないかな、ということです。
2006年05月11日
21:02
安斎利洋
確定的であるかどうかというのは、説得力ありますね。
でも、余命2年は「あと2年はもつまい」という意味で、余命50年は「あと50年はもつまい」という意味だから、まったく同じ表現になる。にもかかわらず、2年は確定的で、50年は確定的でないのか?
2006年05月11日
21:31
miyako/玉簾
50年をシミュレーションするのは難しい。
山守などは、そういうスパンで木が生長する事を考えています。山に居た頃、山の人の思慮深さと賢さに驚きました。
長いスパンの毎日をこつこつ過ごしていました。
海の街に降りると、がらっと人の様子が変わりました。
海は気まぐれで、魚も毎日とれる訳ではないです。
海の人は「その日」をターゲットとして生きている。
一日で大金が入る日がありますが、地面にいる人より遭難する確率はとても高い。
これを最初の問いに当てはめてみると
山の人は余命50年的で海の人は余命2年的だと思います。
海の人の方が、常に死を意識して暮らしているように思えます。
で、「そのあとは?」って聞かれると困っちゃうんだけど。
2006年05月12日
00:25
安斎利洋
面白いですね。コメントを読むごとに、解が遠のく。
敷居は、ないんじゃないかな。ずっと余命が短くなるなめらかな過程が続くだけで。いや、わかりません。ある事件が敷居になる人はいるでしょうし、階段を登るようにステージが変わっていくのかもしれない。
人間は、生まれたときから余命いくばく(110年は生きない)もないことを宣告されているのに、その宣告は「私たち」に向けられている。それに対して余命2年というのは「私」に向けられている。
いまのところ、僕が思いつく違いはそこなんですが、にもかかわらず死ぬのが「私」ひとりの事件であることに変わりない。
たぶん僕ら、一生この問題を考え続けるんだろう。
2006年05月12日
10:00
俳胚
覚悟の問題かもしれない。
普通死ぬ覚悟とはよくいうけれども、本当は生きる覚悟のほうがもっと大変で大切なように思います。
また生きる覚悟を自覚したとして、どんな態度で生きるのかは
加齢と共に変化するのではないでしょうか。
最近の意識として、昨日までの自分の生き方を帰納法的な生き方であったと振り返り、これかは演繹的な生き方を研究してみようと考えています。
手始めに、長く続けてきた習慣の一つを停止し、脈絡もなく
徒然草の一節を思い出しました。
曰く:
”死期は序を待たず。死は、前よりも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満ちるがごとし”155段
”されば、人、死を憎まず、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや”93段
ps:
今日は右手が少し落ち着いています。
2006年05月12日
12:14
にしの
なにか実感が無いと思っていたのですが、そもそも余命を知ることの実現性を実感を持って語ることができないことにいまさら思い至りました。
科学が進歩して頑張って精密に語った言が「5年生存率が80%」でそれを聞いて「!?」と思っているときの?の方だけが残っている感じです。余命という実現しえない観念自体の曖昧さはどうなのでしょう。
2年の余命や、明日突発の途切れよりも、医療が進んでしまって余命50億年(=地球の余命)と言い切られたときの恐怖を想像しました。2年よりますますうろたえそうです。実現し得ない想像に恐怖するところが人間っぽいのかなと思いました。
2006年05月12日
20:18
安斎利洋
俳胚さん、徒然草は深いですね。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満ちるがごとし、っていう比喩はわかるなー。「このまえ先週のこの番組見たばっかりじゃん」ということもあるし、「この前30歳だったのに」ってこともあるわけで、その延長で死ぬ特も「え、急に満潮かよ」ってことなるのは必至ですね。
人間は生きているのがノーマルで、死ぬのが異常だと思っているけれど、人間は生まれる前は生きてなかったわけで、死んでいる状態をゼロと考えると、生きている異常事態は心して維持しないとならない。死ぬ覚悟ではなく、生きる覚悟っていう発想の転換ができれば、2年:50年問題はクリアできそうです。でも、毎日つれづれ草を読んでないと、忘れそう。
ネットにありました。
http://
www2s.
biglob
e.ne.j
p/~Tai
ju/tur
ez_1.h
tm
2006年05月12日
20:26
安斎利洋
余命50億年!恐ろしい拷問ですね。手塚治虫の「火の鳥」の冒頭は、崖を上るシーンで、あれはシジフォスの神話なんでしょうか。
でも、なんで恐ろしいのか。恐るべき、退屈な時間が流れるからか。
「初めて」の出来事は、たぶん生まれて数十年のうちにおおかた経験してしまって、あとは2度目や3度目やn度目を繰り返し、そして鍾乳石が成長するような長い時間を生きなければならない。だったら、どこか途中で長期記憶をリセットしてしまえば、またはじめと同じように感動的な生を行きなおすことができる。かくして、神様は恐ろしい退屈を超えるために、死というすばらしい発明をしたのだった、
のかもね。
2006年05月12日
20:48
安斎利洋
>余命を知ることの実現性
そういえば、死刑囚のパラドックスってのがありますね。
ある囚人が、一週間以内の死刑を言い渡される。しかもあまりに凶悪であるため、死刑以上の苦痛を味わわせる刑として、いつ執行されるか囚人にわかってはならない、というおまけつきの判決。
囚人は恐れおののくが、ふとそれが期限の金曜でないことに気づく。金曜になってしまったら、それがその日であることを知ってしまうから。ということは、木曜でもない。金曜でないなら、木曜になったとき木曜が確定してしまうから。ということは水曜でもない、と範囲をせばめていくと、なんとこの刑は執行不能であることになる。囚人は喜々とする。にもかかわらず月曜の朝死刑執行は言い渡され、それはまったく囚人に予測されなかった。
2006年05月12日
22:32
俳胚
50年、2年の後、自分に残った最後のロスタイムを告げる笛を聞くだろう。
間もなく仲院の廊下に出る。
ここを渡る時、帰納法的人生と演繹的人生の不思議なフラクタル時間を経験するのだろうか。
渡り廊下の時間は伸びたり、縮んだり?。
ニュートンが勝つか、アインシュタインが勝つか、それとも
新たな仮説の提唱者が自分の手を取ってくれるか。
何れにしてもこの時期は座標軸は歪んでいるだろうから、他者に我が身を委ねるのだろう。
その時の我が身をエネルギーに換算するとどれほどになるのだろうか。
E=mc(2):アインシュタイン
、、
E=1/2mv(2)?:ニュートン
おや?、心はどうなった?
2006年05月13日
03:25
安斎利洋
350年前の人は、ニュートンを知らなかった。100年前の人はアインシュタインを知らなかった。すると、100年後の人が知っている大天才X氏のことと、彼の発見した革命的真理を僕らは知らない。それが、つらいですね。
100年くらい冬眠できるとしたら、どうするだろう。僕は、X氏の発見を知るために冬眠したい。
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