安斎利洋の日記全体に公開

2006年05月08日
23:39
 低温火傷のような死
日曜のバラエティ番組で、画像の一部をオーバーラップで切り替え、どこが変わったかをいち早く当てるゲームをやっていた。これが、驚異的にわからない。

折り詰めに入った和菓子が一つ入れ替わるとか、空一面の雲が消えるとか、その部分を注視していれば大変化。ところが画面全体を見ていると、10秒ほどのディゾルブはほとんど変化なしに思える。なんでこれが見えないのか、自分の感覚が信じられなくなる。

これ、視覚における低温やけどだ。微分的な人間の感覚は、ゆっくりした変化を感知しない。音を逆再生するリバースサウンドのことを日記に書いたことがあるけれど、ここにも話題が通じる。あるとき気がつくと戦争になっているというようなことも、低温火傷現象だ。

人の死は不連続な変化なので、周囲は大きな変化を感じる。ところが、mixiにおける死は、低温火傷に近い。mixiの会員数の大きさからすると、統計的には毎日何人か、会員が(フィジカルに)死んでいるはずだ。しかしそれは、mixiからちょっと遠のくことと現象として同じであることをフォマールさんが考察している。フォマールさんによれば、mixiの日記はすべて遺言だということになる。(上の写真みたいなことになるわけだ)

毎日5つくらい日記を書いていたappelの高橋さんが、理由は特に無いんだといいながら先日mixiを退会した。もう読めないそのときの日記を、スナップショットしておかなかったのが悔やまれる。退会した直後「あれ、ヘンだなーまだ書ける」とか、「新しい日記も書けちゃうよ」などなど。少しずつ、できないことが増えていく。僕らも面白くて「高橋さんに戒名を」「mixi上の臨死体験だ」なんてコメントをつけいる。あるとき、ふと日記がアクセス不能の文字になる。

人間は死を1から0の変化であると考えたいから、心臓が止まった瞬間をもって死に替えさせてもらっているけれど、本当は死というのは、統合された全体が局所的な死によってばらけていく過程であるに違いない。あれへんだなー、まだ書ける。きっとそんな感じなんだろう。
 

コメント    

2006年05月09日
00:05
miyako/玉簾
>mixiの日記はすべて遺言だ
ちらっとそう思った事があります。
突然死んでしまった場合、こんなに濃い遺言はないかもしれません。
>少しずつ、できないことが増えていく。
これも何んだか生き物っぽいですね。
2006年05月09日
00:23
Ken☆
「人の死は不連続な変化」……だと思ってた。でも「統合された全体が局所的な死によってばらけていく過程」は、デジタル的に1が0にリセットされることてはなく「連続な変化」なのではないかと思う。
いずれにしても、大きな変化であることには違いないのだけど。

mixiで知り合って、携帯もメールアドレスも交換しないうちに退会されてしまうと、再会できる術をなくしてしまう。一期一会なんだろうけど、やはり「死」にちかい寂しさを感じざるを得ない。
2006年05月09日
00:56
消えることを惜しまれる分には低温火傷の『仮想の死』としてなりたつのかもしれないけど、逆に拒絶という形は、リアルでは顕在化しにくいところが、よく見えたりして、
継続する低音火傷として、チリチリと心を焼き続けるのはつらいところです。
2006年05月09日
01:06
安斎利洋
電子的な死のことを考えると、なぜか少しだけ生身の死が怖くなくなるような気がするんだけど。
2006年05月09日
05:52
小林千早都
神経が一本一本途切れていくような、消えていくような死に方。本人は、もしかしたら、痛くも痒くもないのかもしれないけれど、その神経があちこちに行き渡っていればいるほど、まわりに及ぼす影響は多大かもしれない。

濃い遺言・・・うん・・・私も思ったことあります。>miyako/玉簾さん。
2006年05月11日
00:26
安斎利洋
過程としての死
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=131999350&owner_id=80202
2006年05月11日
20:09
フォマールさんの日記が・・・

mixi事務局によって検閲を受け削除されたようです。
いいのか、こんなん。。

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