安斎利洋の日記全体に公開

2006年05月03日
17:25
 裸体のメタ情報
音楽にしろ絵にしろ、それが誰の作品でどうやって作られたかという説明抜きに、見ただけで「すごい」と言わせないとだめだとは思うんだけれど、でも実際に作品に接するときは、まず説明がやってくるし、それがすごく気になる。ジャケットのないCDは、なんとなく不安な気持になる。まったく同じ作品でも、作者が作家Aか素人Bかで受け入れ方が変わってしまう。

作品にクリエイティブコモンズの情報を埋め込むにはどうしたらいいかという話から、コンテンツとメタ情報の関係について考えている。しかしメタ情報というのは、作品の説明でも付加情報でもなく作品そのもので、にもかかわらず作品と同じ層に情報が存在しないからやっかいだ。

メタ情報なんかどうでもよく、コンテンツそのものだけが勝負という世界もあって、そっちのほうがすっきりする、という気もする。コンテンツそのものがメタ情報であると考えられるからだ。そういうのはどういうものかというと、いちばんわかりやすいのがポルノグラフィーだ。

写真がどう配置されているか、誰が撮ったか、なぜ撮ったか、そういう「御託」をどうならべようと関係なく、画像内容がすべてだ。画像BBSがどうなっているか調べたとき、アダルト系のBBSはさぞ投稿しやすい構造をしているのだろうと思っていたら、その実態にびっくりした。行きかっているのは画像ではなく、メタ情報を外した画像そのものへのポインタのリストだ。このURLのこの番号からこの番号までがすごいぞ、みたいな情報だけがどんどんアップされている(たとえばこんなポータル http://www.fusker.com/ )。裸の写真は、写真も裸にされるわけだ。

たぶん否応なく、これが将来の情報のありようを示唆しているのだろう。実際googleで料理のレシピなんかを調べるときに、誰が書いているのかなんてまったく気にしていない。これこそカンブリアン的世界だ、という気持と、これでいいのだろうか、という気持と、まだ自分の中で考え方の方向性が定まらない。
 

コメント    

2006年05月03日
19:51
H.耕馬
「ストリップのデータ」も拡張子とか全部脱いで「ストリップ・データ」にすると見られなくなる?
2006年05月03日
19:57
安斎利洋
耕馬さんに座布団一枚メタデータで。
2006年05月03日
20:10
びすけっと
> いちばんわかりやすいのがポルノグラフィーだ。

本気か演技か,とかありますよ.
2006年05月03日
20:16
安斎利洋
プレイ属性?
あらゆる画像に必要な属性ですね、(って、話がどこかと混ざっている)
2006年05月03日
20:24
H.耕馬
「本気みたい」に見える演技をする娼婦は、メタデータの塊!!
2006年05月03日
20:32
チクリン
高年(老人)用のアダルトサイトだったらメタ情報が必要になってくる気がします。
年をとると欲情するのに付帯情報が必要になってくるから。

若年向きのポルノグラフィーはあまりにも極端と言うか、
この世でもっとも付帯情報が必要ないものなんじゃないかと思います。
2006年05月03日
20:48
H.耕馬
付帯情報とは、「オカズ」のことでせうか?

若者だったら、「浴場」という文字ダケで「欲情」してしまいすから、オカズには事欠かないっと。(@_@)
2006年05月03日
21:44
かーるすてん2こと
音もそうですが、聴いて単なる難解だと
ただの難解。 理屈なんて ただの言い訳です。
でも作り手に人にはそれなりの意味があるのでしょうけど、
そんな意味じぁ 良い音だしてるのが あそこ です。
 
2006年05月03日
21:54
安斎利洋
>音もそうですが、聴いて単なる難解だと ただの難解。

メタ情報の問題提起って、たんにオマケ情報の話じゃなくて、こういう「言い訳」としてのメタ情報が、音を聴く心理に影響しているのか、していないのか、してはいけないのか、するはずないのか、ってところなんですよ。

古都市さんが言うように、いい音楽は理屈抜きでいいし、難解なのは難解なだけ、っていうのは一面で大賛成。

でも、いい音楽って結局生まれてからこれまでに刷り込まれた音楽文化をなぞっているか、それからすこしずれてるか、という距離を測っているだけなんじゃないか、とも思う。

そういう枠組みから外れるために、オマケの言い訳であるメタ情報がきっかけになったという体験は、僕の中にはいくつかあります。すると、メタ情報も作品の一部かと思う。だって、メタ情報なしでケージの4分33秒を聴くことはできない。

さらにもう一回それを否定すると、どんなに刷り込みから外れた音楽だって、刷り込みなしの「ストリップ感性」で理解できるはずだ、って気もする。それは体が覚えている音楽なのか。

そこが謎なのだ。
2006年05月03日
21:57
チクリン
>付帯情報とは、「オカズ」のことでせうか?

付帯情報というのは、「最後の一夜に撮りました。」とか、
「着物の下には何もはいてません」みたいな情報(ストーリー)のことです。
あんまり書くと趣味がばれそうなのでこのへんで。(笑)
2006年05月03日
22:03
安斎利洋
魚って、発情したメスと同じ色彩の模型を近づけるだけで、オスは交尾段階に突入するそうです。これってポルノグラフィー。

メタ情報が発情にかかわるのは人間の特徴で、コンテンツなしの付帯情報だけポルノグラフィーは、小説と呼ばれます。
2006年05月03日
22:32
かーるすてん2こと
音楽ってそういうところじゃ
いまの時代 色んな機材がそろい 世に言う ハイテク 
があるんですよね。
でも 奏でられる メロなり 世に言う 曲 って
所詮は 97%は オリジナルじゃなく 伝統&歴史
なんだと思います。 現在の時点で 決まった音階しか
無いんですから、、 ただ 音色は変わってきてますよね、、
メロは無くても 音が心地よければ それも 音楽。
ケージの4分33秒も 心地よいので 音楽!!
>さらにもう一回それを否定すると、どんなに刷り込みから外れた音楽だって、刷り込みなしの「ストリップ感性」で理解できるはずだ、って気もする。それは体が覚えている音楽なのか。

そこが謎なのだ。

ここは ネイキッド・キーマス さかいさんと
話したんですが、 体が覚えてるのなら
違う作用が現れてもいいはず、、
外れた音楽をきいたら トイレに行きたくなったりするはず、、
あっ この音楽聴くと トイレいきたくなるよ、、、
音のメタ情報  
2006年05月04日
00:34
machiko
ふーむ。

そういうものなんですか〜 (何がそういうものなんだか、は、
おいといて)


ぜんぜん方向性が異なる感想。

その1:
>まったく同じ作品でも、作者が作家Aか素人Bかで受け入れ方が変わってしまう。

これは、いろいろな審査をやっていると、もろに出てくる問題ですね。

私個人の見解は、かなりはっきりしている気がします。
「予選の段階では、作家Aの作品は(それなりの作家であれば)通しておく。そんなひどい作品のはずはないだろうから(でも、ひどい作品であれば、落とす)」

最終審査では、作家Aのアドバンテージは、もし、一貫したコンセプトを持っていて、それが知られていれば、そんなに説明しなくてもそれが通じる、ということ。素人Bは、それを最初から説明しなくちゃならない。それ以外は、同じ条件。

なにが「素人」か、という問題もあるのだけれど、最初から有名な作家なんていないわけですものね。

その2:
>魚って、発情したメスと同じ色彩の模型を近づけるだけで、オスは交尾段階に突入するそうです。これってポルノグラフィー。

SEXとGENDERが違うように、ポルノグラフィーって、社会的・文化的な成果(??)だと思うのですが。
うちの魚たちを見ていると、どうも、そこまでは進化してないようです。

もしかして、男性諸氏は、魚にもメタ情報を投影してるんでは?
2006年05月04日
01:07
安斎利洋
ある意味、素人Bのほうが自由だと思いますね。頼れる自分の蓄積はないものの、努力しないで白紙から書き始めることができるのは、出発点に立つ作者だけ。

作品がメタデータに影響されるというのは、間テキスト性の問題で、どんな作品もほかの作品との関係で意味をもっている。だから、作家Aはそれまでの自分の作品と、自分が影響を受けた作品群をすべて引き受けなければならないわけで、それって重い束縛でもあります。いままでの作品を切断していく努力のほうが、創作よりも大事なときもある。

>ポルノグラフィーって、社会的・文化的な成果(??)だと思うのですが。

そのとおりなんですけれど、でも確実に動物的な反応が根にあって、だから水槽の中のザリガニをずっと見ているといやになるんですが。

sexが画像コンテンツだとしたら、それをgenderという文化的な概念に変えていくのが言葉によるメタ情報なわけで、そのメタ情報(コンテキスト)をばらして画像が切り抜かれているアダルトサイトっていうのは、やはりザリガニなのかもしれない。
2006年05月05日
22:08
温度
こんにちは。

> でも実際に作品に接するときは、まず説明がやってくるし、それがすごく気になる。ジャケットのないCDは、なんとなく不安な気持になる。まったく同じ作品でも、作者が作家Aか素人Bかで受け入れ方が変わってしまう。


こういうの(↑)私、ないんです。というか諦めてます。美術館いっても、説明は説明でおもしろいですけれども、もっとこう考えたら過激ですよコレ!なんて勝手にやってますし。音楽だって聴けば、すぐ反応しますし。ほんと有名無名なしにパッと決められますよ、価値(10段階でも)。世間様と合うかどうかは保障できませんけれども。

machikoさんじゃないですが、大人になって厄介なのは、“何を受け入れる(ウケる)か”によって、じつは対象=作品ではなく、ジャッジする本人が査定されてしまう(と一般に思われている)からじゃないでしょうかね。もともと査定値なんてゼロと思ってるとラクなんですが世の中、そんなワケにも通常いかない?

有名でもキツイのたくさんありますし、無名でもイイのたまにあります。←両方あわせると結局、素晴らしいの(有名無名、問わず)少し。そんな気します。でも有名なのって、なるほど有名なだけあるなぁと(後から)思うことも度々。そういう意味では世の中、やっぱり正しいのかもしれませんね。
2006年05月05日
22:47
安斎利洋
基本は、外側にまとった意味を剥がれて裸にされた作品そのものが、感性に何を訴えてくるかだと思います。

でも、とりわけ20世紀の芸術は、感性に訴えるものが非常に乏しいか、とっかかりがないものが多い。しかし、作品と作品、あるいは作品と言葉のつながりから生まれる意味によって突然作品の良さが感性に伝わる回路ができてくることがあります。

天井に穴のあいたタレルの作品の意味を、作品だけから読むことはできないはず。まったく楽音が聞こえてこないケージの4分33秒は、作者のメッセージがあるから理解できる。

それが、現代の芸術のありかたです。その是非はともかく。
2006年05月07日
18:08
温度
おもしろい話題なのでまた書いてます。こういう議論って、しかし、もしかしたら既にやられてしまっているのでしょうか?(でしたらご勘弁の程を)


> でも、とりわけ20世紀の芸術は、感性に訴えるものが非常に乏しいか、とっかかりがないものが多い。


むかしIAMASがやった「DSP summer school 2001」のコンサート(↓)でたまたま、Clarence Barlow氏の「KURI SUTI BEKAR」でしたか、を初めて聴いたとき勝手に大いに盛り上がってしまい、バルロー氏に向かってお話ししたことを思いだします。木の葉が鳴ったり鳥がさえずったり、風がピュウというように、楽器たちが心楽しくおしゃべりする様子はいつまで耳を傾けていても飽きませんね、と。この「心楽しくおしゃべり」の部分に私、勝手に10段階評価つけられもします(つまり何でもいいってワケじゃないみたいです、不思議なことに。そのあたりが 4'33"との違い?)。
http://www.iamas.ac.jp/~aka/dspss2001/konsa.html

音楽は、音が鳴ることですし、絵画は、色が並んでいること、と考えれば近代までのものに対する印象批評だけでなく、現代ものにも十分ハードコアに対応可能な気します。と同時に、そのときアートの概念は易々と“作家もの”の手を離れ、日常にまで拡張する? タレルやケージが行おうとしたことも、そうではないかという気しますし。

デュシャンの「問題はない、だから解答もない」でしたか、をここで勝手に自分なりに言い換えてしまいますと、要するに「次の(発見の)線がどんなかたちにしろ、引かれればいいのだ」? そんなふうにして科学も芸術も人間も、進化してきたワケでしょうし……。

とはいいながらも、これ(↓)わかります。たしかに。作品が、音楽や絵画を直接メディアに用いている段階から、言葉/想像力を相手にしたようなものになるとアレなんでしょうね。


> しかし、作品と作品、あるいは作品と言葉のつながりから生まれる意味によって突然作品の良さが感性に伝わる回路ができてくることがあります。
2006年05月07日
19:58
安斎利洋
>音楽は、音が鳴ることですし、絵画は、色が並んでいること

感覚そのものと、それを囲むメタ情報。この問題は考えるほど、奥が深くなります。

それは、アートの根源は感覚であるということ、にもかかわらず、アートの目論見は感覚を超えようとすること、この背反に、問題の深さがあるように思います。

だから、芸術はわかりやすいし、わかりにくい。たんにわかりやすい作品も、たんにわかりにくい作品も、信じられません。

>「DSP summer school 2001」

iamasの空気ってこういう感じなんですね。相互作用の現場。いいですね。

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