近所のゴミ屋敷が、忽然と姿を消した。ゴミ屋敷というか、ゴミを集める住人の姿を長く見なかったので、廃屋と言うべきかもしれない。しかも、家と道の境界に生える巨木がしだいに家と一体化し、土が堆積した屋根からサボテンまで生えていて、あっちの空間へつながるゲートとしては完璧なのだが、なんてこと言えるのも離れて住んでいるからで、隣人はさぞ不安だったろう。と思うものの、でも正直言って、強烈な喪失感。家はもとより巨木まで根こそぎ抜かれて、跡地の駐車場に異空間の気配はゼロ。
練馬は半世紀ほど前、矛盾の中でひらけた土地だから、空間のひずみのようにおかしな場所が無数にある。それらが整頓されるたびに、大事な結び目が消えていく。
ゴミ屋敷の前に立つと、かつてそこにいたコレクターの時間が、まるで高速度撮影した桜の開花のように自分の時間にすべりこんでくる。外界の時間を自分にインストールするために、動きは必要ない。
美術館でも学校でも、「場」を作ろうとして入れ物をブートストラップしても、たいてい駐車場くらいの弱い磁場しか作れない。そこに誰がいるか、誰かいたか。「場」にとって大事なのは、きっとそれだけ。