早稲田にはインド系の店が多くせいか、ゼミのあとにカレーを食べる率は5割を超えていて、昨日も、ぼくっち、アントレ、びすけっとさんらと、スパイシーなメシを食いながらAR(Augmented Reality)の話がこんがらがって面白かった。
若者たちは、たぶんARオッケー派。びすけっとさんは「ビットマップに閉じた世界の可能性をぜんぜん突き詰めてないのにARなんていらないよ」派。僕は、それほど明確じゃないけれどARには違和感をもっている派。話しているうちに、だんだん自分の中の違和感の正体がわかってきた。
たとえば円盤型のお掃除ロボットは、彼のなかに部屋マップとそれを感じるセンサがある。お掃除ロボットをちゃんと使うためには、彼の部屋の理解の仕方と動く戦略を理解しなくてはならない。
ロボットに限らず、「他者」には自分とは違う世界の見方、世界の記憶法、世界にかかわる戦略がある。解釈・記憶・戦略、その三つどもえが、他者の手触りの正体だ。人間は、彼らの世界観を理解したり修正を促したりしながら、他者と渡り合うことになる。相手が人だろうとペットだろうとソフトウェアだろうとそれは同じこと。
ARは、世界を解釈し、彼の記憶にある仮想世界を思い出し、それを現実世界を接続する装置だ。人間がARを装着するというのは、CGが視覚を拡張したように自分の現実感を拡張するわけじゃなくて、頭の周りに「他者」を装着することなのだ。
だから、ARは名称がよくない。猫かぶりっていうことばがあるけれど、ロボットかぶりがARだ。他者のこだわり、他者のコンテキスト、他者の志向性を被ること。ARは、役立つっていうより、そういう不愉快な事態を際立たせるべきなんじゃないか。
すっぴんの僕らにとって、世界は解釈されていないシニフィアンとしてあらわれ、どんな妄想もかきたててくれる。それを、あらかじめ他人のコードが咀嚼したシニフィエがかぶさってくる。CGはシニフィアンの増幅器だったから、あれだけ刺激的だったけれど、ARがやってくれる解釈や回想は、たいてい余計だ。
ARは、いまのARが出てくる前まで長いこと Artificial Reality の略語だった。見るものがいちいち別の形の連想として現実に被ってくる、そういう人工狂気として拡張されたARなら、被れば狂える、外せば元通り、究極の電子ドラッグ。スパイシー!