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拡張拡張現実感全体に公開
2009年06月13日03:25
早稲田にはインド系の店が多くせいか、ゼミのあとにカレーを食べる率は5割を超えていて、昨日も、ぼくっち、アントレ、びすけっとさんらと、スパイシーなメシを食いながらAR(Augmented Reality)の話がこんがらがって面白かった。

若者たちは、たぶんARオッケー派。びすけっとさんは「ビットマップに閉じた世界の可能性をぜんぜん突き詰めてないのにARなんていらないよ」派。僕は、それほど明確じゃないけれどARには違和感をもっている派。話しているうちに、だんだん自分の中の違和感の正体がわかってきた。

たとえば円盤型のお掃除ロボットは、彼のなかに部屋マップとそれを感じるセンサがある。お掃除ロボットをちゃんと使うためには、彼の部屋の理解の仕方と動く戦略を理解しなくてはならない。

ロボットに限らず、「他者」には自分とは違う世界の見方、世界の記憶法、世界にかかわる戦略がある。解釈・記憶・戦略、その三つどもえが、他者の手触りの正体だ。人間は、彼らの世界観を理解したり修正を促したりしながら、他者と渡り合うことになる。相手が人だろうとペットだろうとソフトウェアだろうとそれは同じこと。

ARは、世界を解釈し、彼の記憶にある仮想世界を思い出し、それを現実世界を接続する装置だ。人間がARを装着するというのは、CGが視覚を拡張したように自分の現実感を拡張するわけじゃなくて、頭の周りに「他者」を装着することなのだ。

だから、ARは名称がよくない。猫かぶりっていうことばがあるけれど、ロボットかぶりがARだ。他者のこだわり、他者のコンテキスト、他者の志向性を被ること。ARは、役立つっていうより、そういう不愉快な事態を際立たせるべきなんじゃないか。

すっぴんの僕らにとって、世界は解釈されていないシニフィアンとしてあらわれ、どんな妄想もかきたててくれる。それを、あらかじめ他人のコードが咀嚼したシニフィエがかぶさってくる。CGはシニフィアンの増幅器だったから、あれだけ刺激的だったけれど、ARがやってくれる解釈や回想は、たいてい余計だ。

ARは、いまのARが出てくる前まで長いこと Artificial Reality の略語だった。見るものがいちいち別の形の連想として現実に被ってくる、そういう人工狂気として拡張されたARなら、被れば狂える、外せば元通り、究極の電子ドラッグ。スパイシー!

コメント

ちゃ〜り〜(tatmos)2009年06月13日 05:09
ARについて思うこと。
iPodが耳を奪ったようにARの技術は目を奪っていくのだと思う。
おそらく、昔の人は耳の中にスピーカを配置するなんて考えもしなかったろうけど、今の人はそれがたとえスピーカ用にステレオミックスされていたとしても違和感なく聴く事を習得してしまっている。
まだ違和感のある技術は沢山あるけれど自然と慣れてしまうのだろうか。
#円盤型のお掃除ロボット家にもいますが彼の為に道を作ったりしていますね。彼は平面上でのみ動き回れるけど、彼の通れない隙間の向こう側には行くことができないみたい。
今のネットにつながっている現実感は、ちょっと昔には無かった・・・または文字や記号のようなものくらいしか表現できない別なものだったと思うけど・・・あれ、今もそんなに変わっていない?
┏┫∵┣┛2009年06月13日 05:27
都心で車を運転する、
昔)ラジオで交通情報聴取=渋滞マップ脳内構成
今)カーナビ(+VICS)で渋滞情報把握&GPSマップ+到着時刻予測
慣れ切って自転車にまでGPS付けないと気が済まなくなった自分がいます。
問題というか面白いのはARのERRORをどこまで許容する・できるか。
びすけっと2009年06月13日 06:03
狂う方向は面白いと思いますが,

僕にはそんなしゃれたコンピュータが登場するよりずっと前に,半田付けから機械語入力の大変化のときに感じた「コンピュータは粘土だ」というのが頭から離れなくて.その粘土性をプラスにするかマイナスにするかが僕の判定基準になっています.最近のデバイスよりのUIはマイナスどころか0にしてしまうのが多い.そうか,若い人がそっちに走りがちなのは粘土性を知らないからなんだ.
Mike2009年06月13日 07:11
>ARは、世界を解釈し、彼の記憶にある仮想世界を思い出し、それを現実世界を接続する装置だ

今のARは実は、Mixed Realityの意味でしか使ってない。
私が理解するARとは、VR (= Viratual Reality)に対して、 Back to the Real World のかけ声と共に提唱されたAR (=Augmented Reality)の方です。 今のAR(MR)は、Virtual World が基本になって、そこにReal Worldを重ね合わせようとしている。私が理解する方のAR(本来の拡張現実)は、文字通り狭い意味での拡張現実で、実際の世界に仮想の世界をほんのちょっとオーバーレイしてやるアプローチで、この両者はかなり違います。

頭の回りに他者を装着するのは、他者との共通基盤を獲得する手段としては興味深いですが、一時的にしか装着は可能でないように思います。

話がややこしくなるのは、VR(仮想現実感)が盛んなとき、マイロン・クルーガーがAR(人工現実感)の手法を提唱したことですね。VRはゴーグルをつけて、仮想の世界を提示するのに対して、AR(Artificial Reality)は、ゴーグル無しで、ディスプレイに表示し、なおかつ、人間のジェスチャーや姿勢を制御の手段としていました。
Mike2009年06月13日 07:13
びすけっとさんの、粘土としてのコンピュータ、とっても面白いですね。
Phidgetsなどのセンサー&アクチュエータ付きデバイスで、いろいろ接続可能なものが登場してきているので、少しずつ粘土に近づいているように思います。
びすけっと2009年06月13日 07:52
(話がずれるので,短めに)そうです,inTouchとかロボットフォンは粘土の仲間です.あれでチューリングテストができる.コンピュータにつながれた単体のinTouchで,触った人を笑わせたり泣かせたりできるか.
なさ 飛鳥井2009年06月13日 09:37
そもそも「現実」は脳によって再構成されたものだから、
みんなそれぞれの「拡張現実」の中にいると思う。

個人的には、それぞれの「拡張現実」をaugmentするものはあっても良いと思います。
にしの2009年06月13日 10:41
つみきのいえはナレーションなしの方が圧倒的にいいのですが、それと同じ?

>ARがやってくれる解釈や回想は、たいてい余計だ。
技術が悪いのではなくてコンテンツが未熟ってことでしょうか。
未熟なコンテンツしかのらない技術レベルってことでしょうか。
大和田龍夫2009年06月13日 11:12
>猫かぶり

猫をかぶるの話でおもしろいものがあるんですが、
あまりに下品なので自粛いたします。
「ねこだをかぶる」のがなんでカマトトなのか理解できなかったのですが、なっとくしたのでした。

脱線話で失礼
ytakeuch2009年06月13日 12:09
ARという単語は日経エレクトロニクスで知りました。結構興味があります。
学生時代はマルチモーダルなインターフェースの研究をしていました。

早稲田界隈ってそんなにカレー屋さん多かったでしたっけ?
真ッ佐男2009年06月13日 13:45
薔薇を見れば、その名前を「マチルダ」と教えて欲しい。
初めて訪ねる場所の地名とその由来を知りたい。
長い雲をつくりながら飛ぶ飛行機を見ればその出発地と到着先、更にその乗客名簿を手に入れたくなる。
私は最初から電脳コイル派です。
http://www.cg.tuad.ac.jp/komura/HIFU.html
総てのデータベースの構築に総ての人は関わるべきだし、誰でも自由にアクセスできる状態にすべきだ。そこへの入り口としてそれぞれの視覚体験はいいトリガーだと思う。
smi Le2009年06月13日 15:11
粘度派に一票。
あ、字間違えた。
安斎利洋2009年06月13日 18:36
ビジュアルアナロジーのネットワークを、世界と同じ濃度のデータベースとして収集したい、という欲望は僕も同じです。というか、この欲望は「幸村真佐男派」なんだと自認しています。

薔薇を見れば、その名前を「マチルダ」と教えてくれるとき、まず目の前のものを植物の性器でなく、モネの一部でなく、色素の化学式でなく、西脇順三郎の詩句でなく、薔薇であるという解釈をするところからARが立ちあがるわけですが、いわば他人の認識の「わだち」として薔薇が立ちはだかるならARは世界の隠蔽装置にすぎなくなる。

カーナビにしろ、googleのランクにしろ、(amazonレコメンドのような)協調フィルタリングにしろ、技術はどうしてもわだちを目指しますね。これはオントロジーの話とも通じます。「人が世界に向ける関心を予測し、人にかわって世界を解釈する機械」一般の問題が、ARに極まったというべきなのかもしれません。

いま思いついたんですが、西脇順三郎を被るとか、幸村真佐男を被るというように、かつて「作品を読む」といわれていた行為を、ARの連想セットの選び方に一般化できるかもしれない。
にしの2009年06月13日 18:57
画像「だけ」で検索するシステム欲しいです。というのをネタにアイデアコンテストに出したら落選しました。
http://www.youtube.com/watch?v=6peTQkgleR0
難しいということでは検索はおいといても、
連想セットの作り方はまた難しいですね。
平均じゃいけないのはすぐ分かるもののどうしていいのかは分かりません。
flickrのセットなど、ごく個人的なものを対象にするといいのかしら。
安斎利洋2009年06月13日 19:05
ビジュアルアナロジーの問題を、技術者はどうしても形や色の問題にするけれど、なささんが言うように「そもそも「現実」は脳によって再構成されたもの」というところから出発すべきだと思います。しかもそれは歴史をもっている。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E2%80%95%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%84%8F%E8%AD%98-%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89/dp/478280153X
安斎利洋2009年06月14日 00:57
>今の人はそれがたとえスピーカ用にステレオミックスされていたとしても違和感なく聴く事を習得してしまっている。

倒立めがねをかけていると、それがだんだん正立に見えてくるというのがありましたね。液晶をかえたときに感じる違和感は、だんだん自然になってくる。
人にしろペットにしろシステムにしろ、他者との暮らしも、同じようなアジャストがありますね。
どれが正しいのか、というと、わからない。いまはこれが自然、というのはある。
もし、すべてを補色に変えるめがねがあったら、それが自然になるのだろうか、という疑問をデネットが書いていました。
アジャストできない違和感、というのはあるのだろうか。じゃ、その境界は?
安斎利洋2009年06月14日 01:01
>慣れ切って自転車にまでGPS付けないと気が済まなくなった自分がいます。

僕は自転車には乗るけれど車の免許はないのですが、幽体離脱する車がありましたよね。あれを人間につけたら、幽体離脱しないと気がすまない自分になるんだろうか。
持ってないと、パンツをはき忘れたような感じになるものは文化によって違っていて、アフリカのある部族は、三叉になった木の枝をもっていないと落ち着かなくなるそうです。(西江雅之が言ってた)
安斎利洋2009年06月14日 01:21
たぶん僕も粘度(土か)派だと思うんだけど、

>inTouchとかロボットフォンは粘土の仲間です.

ここがわからん。inTouchって計算過程なしでデバイスがつながっているだけなんじゃ?
安斎利洋2009年06月14日 01:24
>頭の回りに他者を装着するのは、他者との共通基盤を獲得する手段としては興味深いですが、一時的にしか装着は可能でないように思います。

というより、AR装置が他者だと思うんですよ。カーナビも他者。ご主人様が何をお望みか考えました、といい続ける他者です。すると、いまのUIはどれもこれも他者なんじゃないでしょうか。
安斎利洋2009年06月14日 01:26
>つみきのいえはナレーションなしの方が圧倒的にいいのですが、それと同じ?

そうそう。だから、UIにおける人称性、という考え方って、ありえませんか。
スキルトロニクスは、徹底した一人称。
安斎利洋2009年06月14日 01:27
>早稲田界隈ってそんなにカレー屋さん多かったでしたっけ?

秋葉原のほうが、増殖しているらしいですね。
メンタルスタッフ2009年06月14日 02:06
> これはオントロジーの話とも通じます。「人が世界に向ける関心を予測し、人にかわって世界を解釈する機械」一般の問題が、ARに極まったというべきなのかもしれません。
「人が世界に向ける関心を予測し、」というところを一般的にやろうとしたらひどく難しいんでしょうけれど、やって意味のあることもいろいろありそうですね。同時に、人の世界に向ける関心は人によって、場所によってもさまざまなんだという見方を取ることもプラクティカルには必要なんだとは思いますが。

人工内耳という治療法がいつのまにか普及してきて、聾学校の入学率にまで影響しはじめたとか(この辺りの事実は怪しいです。)なのですが、これが興味深いですね。
内耳の基底膜の辺りを電極で刺激する(音声に対応した信号を乗せるので20チャネルぐらい?)というちょっと乱暴な感じのするものです。これで、会話ができるぐらい、耳の「機能」が回復するらしいんです。個人差はあるようですが。
面白いのは、そこで聞こえてくるのは、それまでに聞いた言葉ではなく、全くの雑音なのだそうですが、学習すると電話で話しもできるようになるんだそうです。そこでの雑音の聞こえかたってどんなんでしょうね。ずっとガーガーピーピーって感じなんだという話だったような気がしましたが。
Wikipediaにありました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cochlear_implant
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%86%85%E8%80%B3
安斎利洋2009年06月14日 02:45
ムサビの「オートポイエーシス論」を僕と半分づつ担当している東洋大の稲垣さんから、脳の半分が機能しなくなっているにもかかわらず、見えない半分の世界に体をぶつけながら、何の不都合を感じることなく生活することができる、という話を聞いたことがあります。リハビリは、哲学の問題圏になっていますね。

この本が面白そうです。

『リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦』宮本 省三

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%8F%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E2%80%95%E5%BF%83%E3%81%A8%E8%84%B3%E3%81%A8%E8%BA%AB%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%80%81%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E9%81%8B%E5%8B%95%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AE%E6%8C%91%E6%88%A6-%E5%AE%AE%E6%9C%AC-%E7%9C%81%E4%B8%89/dp/439372903X
安斎利洋2009年06月14日 02:58
>「人が世界に向ける関心を予測し、」というところを一般的にやろうとしたらひどく難しいんでしょうけれど、

予測は、結局は誘導になるんでしょうね。誘導された方向を、自分の関心だと思い込んでしまう。

予測するのをやめて、世界と同じ濃度の拡張世界をかぶせてしまう、というのが「幸村バベル派」の流儀ですね。

粘土というのは、世界と同じ濃度が作れるということだと僕は思いました。できるところに誘導するのは、粘土の反対。そういうことじゃないかな>びすけっとさん
Mike2009年06月14日 05:20
>AR装置が他者だと思うんですよ。カーナビも他者。ご主人様が何をお望みか考えました、といい続ける他者です。すると、いまのUIはどれもこれも他者

UIが他者ではなく、自分(の一部)となるには、Invisibleな存在となること(顔に付けているのを忘れて顔を洗ってしまうメガネのような存在)と、人間の制御下にあること、および、その表示が了解可能となる、要するに違和感がないことが条件ですね。そうすると、確かに、今のUIの多くが、自分の一部とはなっていない。その中で、他社度の高いモノと低いモノが存在しますよね。カーナビに比べると、今のAR(=MR)は他者度が高いように思います。
ちゃ〜り〜(tatmos)2009年06月14日 08:31
>AR装置が他者だと思うんですよ。カーナビも他者。ご主人様が何をお望みか考えました、といい続ける他者です。すると、いまのUIはどれもこれも他者

楽器奏者の楽器は体の一部となっていたり、しゃべる時の喉の動かす感じとかも体の一部になっているけど、iPodが楽器になるのかどうかはよくわからない。でも楽器アプリが増えている気がすると思うと、ARの世界にも個人作成できる場が提供されれば自分の一部としているようにもなれるのかなぁとふと思ったり。(一人称に近づくために、究極的にはハードやシステムまで自作することになるのかもしれない)
安斎利洋2009年06月14日 11:58
>UIが他者ではなく、自分(の一部)となるには、Invisibleな存在となること

>楽器奏者の楽器は体の一部となっていたり、しゃべる時の喉の動かす感じとかも体の一部になっている

UIが一人称となり、私の一部になるためには、UIが難しい必要があるんじゃないでしょうか。ピアノも車も、習得が困難だから、それを越えたときに私の一部になる。これはにしのさんの「スキルトロニクス」の考え方ですが、スキルが必要な道具は、私になる。
逆に、習得が容易なUIがInvisibleになるのは、気のあった他者としてなじんでくるということで、二人称であることに変わりはない。
安斎利洋2009年06月14日 13:12
ようやくわかってきました。

ピアノが上達するのと、リハビリで機能を回復するのは、同じことですね。

ARが一人称になるためには、ARを装着した状態を「完全」と仮定したとき、それを回復するリハビリが必要であるような装置を作ればいい、ということになる。

装着したとたんに使えるのではなく、装着すると自分のニューロンに欠損があるかのごとく思わせるような、ソクラテスのアポリアのように無知を知らしめるような装置なら、一人称になれる。

ARと書きましたが、UI一般の原理かもしれない。
なさ 飛鳥井2009年06月14日 14:11
拾いコメント、つまみ食いですみません。

ARの「他者」の話、これも外側に目が行っていますが、こういう文章を書いている意識的な「私」は、実は「他者」との複合体ですね。
これに気づかないのは、「他者」との複合体が「私」であるという「幻想」が、いかに強固かということです。
「他者」であるAR装置を自己化する強固な「幻想」をどう作るかが課題でしょう。
統合失調症の患者とか、TMSで神を感じる人とかは、「幻想」を失ったと言っても良いのかも知れません。(笑)

脳の半分が機能しない話、これは第一次視覚野の損傷の話ですよね。
盲視のように第一次視覚野を経由しない経路で、視覚意識なしに回避行動ができる?
安斎利洋2009年06月14日 14:39
一本とられた感じですが、そのとおりだと思います。他者であることを忘れるくらい強いアトラクタが「私」ですね。

しかし、一度乗れた自転車に乗れなくなることがない、という重心の強さには、敷居があるような気がする。易しい(優しい)道具は、私=幻想に入ってないから、使い方を忘れたりする。

一方で、強烈に新しい重心を作るときは、住み慣れた私=幻想から、離脱しますね。別な他人に、私を引っ越すんでしょうか。
なさ 飛鳥井2009年06月14日 15:37
忘れる...
AR機器を自転車にしちゃえば良い?(笑)
半分はマジです。

自転車の乗り方とか運動の記憶は小脳ですよね。
小脳の記憶に忘却はないのかな...
海馬とか新皮質に記憶させると忘却の可能性があります。
記憶を強く固定するためには、強い情動を使うのも手かな。

あるいは記憶を使わないで、人工内耳のようにBMIでワイヤードするか。
安斎利洋2009年06月14日 15:39
>視覚意識なしに回避行動ができる?

人間は後ろ半分が見えないけれど、なんの不都合なく生活しています。もし後ろが見えるのが「健全」なら、人間はすべて不完全ということになる。
左右どちらかが見えないのを、この相似で考えると、見えなくても不都合なく暮らせることが想像できます。
安斎利洋2009年06月14日 15:42
>AR機器を自転車にしちゃえば良い?(笑)

これはかなり魅力的ですね。バランスをとりながら、空間の水平を覚えているんでしょうから、バランスを強制的に崩すのを出力デバイスとする。ハンドルに感じる路面の凹凸なんかも使えますね。
なさ 飛鳥井2009年06月14日 16:13
不都合の話、これ↓を連想しました。

「その隠者は自身を索めようとして先ず足を切った。更に索め得られる、そう呟きながら、次に手を切った。そして、次第に自身を切り刻んでいって、影も形もみとめられなくなったと云われる。」(埴谷雄高、『不合理ゆえに吾信ず』)
安斎利洋2009年06月14日 16:57
自転車が乗れるようになって拡張する自分と、手足がなくなって理解される自分の拡張は、同じ地平にありますね。これ読んで、バタイユの何かを連想したんだけれど、記憶の実体がない。きっと、切り落としちゃったんだろう。
安斎利洋2009年06月15日 00:14
にしのさん、いい編集です。特集「中心のないネットワークとしての意識」かな。
ちょっとずれるけれど、「ジェイコブズ・ラダー」とか、「ザ・セル」とかも、加えたい。

あまり激烈じゃないけれど、年をとるのもけっこう面白い実験です。身に覚えのない過去の自分によく出会います。
びすけっと2009年06月15日 19:28
ときどき,僕に振られているんですね.

>>inTouchとかロボットフォンは粘土の仲間です.
>
> ここがわからん。inTouchって計算過程なしでデバイスがつながっているだけなんじゃ?

CCDとビットマップに対応する,と言った方がいいですね.
CCDとビットマップを直結しただけだと,テレビ電話ですけど,中間にコンピュータを入れたら粘土になる.
inTouchを入出力装置としたコンピュータを考えようということです.

他のTangibleシリーズで,そういうことができそうなのがなかなか無いんですよね.

クワクボリョウタさんのノックのやつもそれです.

> 粘土というのは、世界と同じ濃度が作れるということだと僕は思いました。できるところに誘導
> するのは、粘土の反対。そういうことじゃないかな>びすけっとさん

入力と出力の情報のレベルが同じ,ということですかね.

僕は,
粘土=プログラマブル
という意味でつかってます.
僕らにはプログラマブルで十分なんですが,一般の人にはチンプンカンプンというか,ARが好きと
いう人にも,その本当のすごさが理解されていないようなので,粘土という言葉で言い直しています.
安斎利洋2009年06月16日 02:31
ときどき振ってました。

知らない人のために、inTouchは、これです。
http://ascii.jp/elem/000/000/057/57136/index-2.html

inTouchが粘土、という言葉がここ数日頭の中をめぐっていて、言っているニュアンスは直感できるんだけど、説明がなかなかできませんでした。なんでinTouchは計算機につないで粘土になるのか、という問題は、けっこう深いですね。もしかするとびすけっとさんが言っている意味以上に、たんに可塑的、プログラマブルっていうこと以上のなにかの話をしてますね。

ビットマップディスプレイは粘土になる。しかし、窓の中のCSSのような階層構造は、粘土にならない。XMLは基本的に反粘土志向。もちろん粘土をXMLで表現することはできますが。

なにか伝えたい意味があって、それを代替する記号としてinTouchの信号があるんじゃなくて、パルスの幅や間隔そのものが意味をになっていて、替えたらほかの意味になってしまうような世界。言い換えると、空耳アワーが成立するような情報の様態。

こういうのを粘土度が高いっていうんでしょうね。
びすけっと2009年06月16日 06:41
inTouchを粘土だと言ったのは間違えで,ARとか実世界指向インタフェースは,粘土
性をマイナスや0にしちゃうものが多いけど,inTouchやビットマップディスプレイはコ
ンピュータのもつ粘土性を損なわない,というのが正しい言い方でした.
なぜ損なわないかというと,限られた情報チャンネルのなかだけど,表現力が万能だから.
空耳ならぬ空触も作れちゃう.そんな面白いものがあるのにどうしてみんなデバイス
に走っちゃうんだろうか.

ARというか,HMDで実空間に情報を重畳させるものを考えたとき,重ねる情報の表現力は
万能ではあるけれど,実空間への縛りの分制約されていて,何もしないビットマップディ
スプレイよりも表現の可能性は下がってますよね.実世界の認識が完璧になって,CGが
むちゃくちゃリアルになったら,コンピュータの入出力としてそれをつないで,粘土化が実
世界まで拡張できた,ということになるんでしょうか.

いまやれることは,認識の研究を手伝うか,lispを覚えて「空触」を作るか.
Mike2009年06月16日 09:24
びすけっとさん、
>粘土=プログラマブル
いじりまわせる、という点では正にその通りなんですが、触感というか肌触りみたいのが欲しいのと、簡単に作ったり、壊したりもできるようになったものが、粘土だという気がします。ビスケットはそれにちかいけど、普通のプログラミングは粘土感がやや不足。
なさ 飛鳥井2009年06月16日 09:34
今のARのひとつの欠点は、足し算しかできなくて、引き算ができないことです。
ただ、視覚に関しては、複数の画像からモノを消す技術はあるので、将来的には引き算もできるのかな?
(リアルの画像の上に背景を重ねるので足し算とも言えるけど)


と書いていて、自分の視点がマイナス思考だということに気が付きました。(笑)
なさ 飛鳥井2009年06月16日 10:03
自転車の話の続きです。

びすけっとさんの言葉だと、「粘土の靴」を考えたことがあります。
アディダスで「CPU入りの靴」を開発していて、路面の硬さに応じてソールの硬さが変化する、というものがあったと記憶してます。
それを聞いたとき、ソールをマトリクスに分割して、それぞれの硬さを変化できるようにすれば、普通の応用だと路面が傾いているときでも、うまく水平に保つことができると思いました。
でも、もっと面白そうな応用がありそうで、「裸足で歩いているように地面を感じる靴」みたいに、靴の下の石粒をaugmentしたり、普段は気にしない地面の色や温度や湿度を感じるとかです。
で、その当時はコミュニケーション系に関わっていたので、恋人同士がお互いに踏みしめている地面を交換して感じられたら面白いなと思っていました。
なんかよろよろして歩きにくいと思ったら、彼女がいつもより高いヒールの靴を履いていて、今夜はどこに行くのだろうという感じです。(笑)

書いていて、ARの話というよりはAmbient Mediaの話だったですね。
びすけっと2009年06月16日 13:17
Mikeさん
その感覚は相対的なもので,たとえば,僕は半田付けで電子工作をやっていたときに,
LEDのマイコンで数字を入力したとき,それを粘土だと思ったわけです.

Mikeさんのおっしゃる手触り度合は,なんか違う用語にしたいですね.
(粘土という言葉が逆に紛らわしいかもしれません)

なささん
引き算は,光学迷彩でできそうです.
Mike2009年06月16日 14:09
なさ飛鳥井さんの、引き算の話も、裸足で踏んだ感じを再現してくれる靴、どちらも面白いですね。世の中、足し算とかかけ算とか、増やすことばかりを考えています。情報を減らすことによって、さらに浮き上がってくるものって、あると思うんです。影絵とか、1次元ズーミングとか。デジタルの世界にも、もっと引き算が入り込むといいですね。引き算ではないけど、(消しゴムの逆で)生きゴムは面白いと思っています。生きゴムを使うと、その前に人が書きなぐったものが浮かび上がってくるわけです。
 触覚の再現は、まだまだ非常にプリミティブなレベルですよね。
安斎利洋2009年06月16日 15:48
>限られた情報チャンネルのなかだけど,表現力が万能だから.

ここを理論化したいですね。「同じクオリアを立ち上げるために、情報量は少ないほどよい」というオッカムの剃刀の変形法則が、ありそう。

昔は「リアリティは足し算ではない」と言っても、表示=表象だと思っている工学者にはなかなか理解されませんでした。アーティストにも、高精細ディスプレイじゃないとだめみたいな人がいっぱいいた。

そういう人たちをつぶしたい、というひそかな欲望。
安斎利洋2009年06月16日 15:51
僕にとっての粘土の定義は、コードが形を作るだけじゃなく、形がコードを作る方向もあるようなシステム。

そら耳が面白いのは、「聞き間違い」の報告をはがきで送ると、スタッフがそれを映像にしちゃうところですよね。映像を作る段階で「形がコードを作る」が成立する。

ビスケットも、描いた絵が内部オブジェクト代替じゃなくて、プログラムになってほしいんですよね。
安斎利洋2009年06月16日 15:54
なささんの足の世界は、エロいですね。
体をとりかこむマトリクスが、硬さを変化させる。

エロい。
安斎利洋2009年06月16日 15:58
「リアリティは足し算ではない」がなかなか理解されないと思ったのは、触覚連画を工学系でプレゼンすると、たいてい加算的なアイデアが出てくる、ってあたりに根っこがあります、僕の場合。

昔、新聞のコラムに書いたのを思い出した。
http://www.renga.com/anzai/netagora.htm
の最後のほう。

「ブロードバンドへまっしぐらの電子メディアの進歩は、文字よりビジュアル、静止画より動画、そして立体包囲環境へと突き進み、いずれは嗅覚(きゅうかく)や体感まで動員することになるだろう。情報をどんどん加算し、ひとつでも多くのセンスを加えていくことがリアリティーだという考え方には、表現者としては、常に疑問符をつけておきたいと思っている。」
びすけっと2009年06月17日 09:14
粘土の僕の発言は,間違ってました.

「手触り」「形がコードを作る」は粘土そのものだし,それを僕はずっとやってきていたのでした.

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199244492&owner_id=79891
ふくち2009年06月17日 09:32
あぁ、こんな面白い話が進行していたのでしたか。

ご挨拶がわにり、今週末の土曜日に、明治大学生田キャンパスにて、工学ナビというサイトを運営している橋本直君と、「コンピュータビジョン・拡張現実感に関する普通じゃない勉強会2.0」というイベントを行います。

http://kougaku-navi.net/vrarxr/

この勉強会の午前のセッションで、稲見昌彦さんと僕と橋本君でパネルディスカッションをします。最近巷で賑いつつあるARのデモからこの世界の面白さに気付いた人達のために、「そもそも『現実感』って何よ?」というところからもう一度現状を問い直そう、というのがパネルのテーマになっています。

稲見さんにしろ僕にしろ橋本君にしろ、最近日経が流行らせようとしている「AR = 拡張現実」ではなくて、「AR = 拡張現実感」なんだ、というところから話を始めて、インタフェース全般にまつわるコクのある話をしたいと思っています。「粘土」になりうるか、という話はセッション中に試みたいですね。

もしよろしければ、会場に遊びにいらっしゃいませんか。
安斎利洋2009年06月17日 15:06
>それを僕はずっとやってきていたのでした.

すっきりしました。すると、ビスケットの次も、その拡張方向ですね。
安斎利洋2009年06月17日 15:11
ふくちさん

面白そうなセッションですね。話が通じる人たちがいそうな気配を感じます。コクがありそう。
「ねばならない」仕事を投げて行くかどうか。悩む。。。

>、「そもそも『現実感』って何よ?」

ARを装填する前に、そもそも僕らが現実感をそれぞれのイメージに立ち上げていることを考えると、どうしても「現実は多層だ」という問題に行くと思います。秋葉原の現実は、人によって電子パーツであり、フィギュアであり、殺戮であるわけですから。
にしの2009年06月17日 16:24
微妙にずれて前に戻りますが、

>表示=表象だと思っている工学者
ここはなかなか抜け出せないところですね。現実感を研究しているみなさんでもそうかも。

多くのARシステムはおおざっぱにいえば高性能クロマキーで、
カラーのかわりに身体形状とか動きベクトルとか、
高度な情報をキーにして載せて行く技術だと思ってます。

この「高度な情報」を抽出した時点で「身体形状」のような記号がシステムに埋め込まれていて、それは二人称にらなざるをえない。ここを意識して解決を考えてくれる人っているのでしょうか。
ヤノマミの人たちの見る身体形状はもしかすると精霊もセットかもしれないし。それを許容するシステムにするにはどうしたらいいのかな、ということなんですが。
中村理恵子2009年06月18日 10:02

●閑話

安斎さんコメントに反応して

>装着したとたんに使えるのではなく、装着すると自分のニューロンに欠損があるかのごとく思わせるような、
ソクラテスのアポリアのように無知を知らしめるような装置なら、一人称になれる。

>スキルトロニクスは、徹底した一人称。

AR、「拡張現実」あるいは「拡張現実感」どちらでもいいですが、最先端よりも、わたしはどうも逆行しちゃって古武道の型に、AR装置を見いだしたようです。(笑、そりゃきた、古武道話とおもってんでしょ?)

杖道の、この古武道の得物は白樫の棒です。128cmのなんのへんてつもない杖を両手で繰る。相手を倒すためにね。伝承されてきた70あまりの型(技の手順、間、理合い)は、この数百年間その型を受け継いできた師匠について、対面稽古してみれば解かりますが、
「型に嵌めこまれていく。」とった印象とは真逆です。
非常に緻密に畳み込まれたプロセス、動的な流れ、日常ではありえない体のポジション、バランスなどなど、いまだ経験したことのない神経や筋肉、呼吸との連携、絶妙なネットワークの集積です。

「電脳メガネ」ならぬ、この「白樫の杖」を右手と左手で持ったとたん、びびびびっと古くて新しいわたしにとってのAR世界が立ち昇ってきます。
これ、ホント。
m_m2009年06月18日 18:01
安斎さん はじめまして.

ヒューマンインタフェースについて研究している m_m といいます.
真ッ佐男さん にここがすごいインタフェースに関して,
盛り上がっていると教えていただき,来ました.

ダグラス・エンゲルバートも,徹底した身体訓練の結果,
新しいヒトとコンピュータとの共生が生まれると言っていました.

そのエンゲルバートが開発したマウスを使って,
ディスプレイを見続ける GUI を経て,
今,私たちは,コンピュータとの関係の中で,
新たな感覚を養成していく時期に入ってきてるのではと考えています.
特に,新たな手触り感.
見ることの訓練を終えて,何かしらの新たな手触りを求めていく.

体が環境と衝突したときほど(しばしば痛みを感じる),世界の実在とわたしの体の実在が,はっきりと確認できるものはない.触れたものこそ真の実在であり,それが知覚につながるのである.(p.179)
ダーヴィッド・カッツ『触覚の世界:実験現象学の地平』
安斎利洋2009年06月21日 00:31
>ヤノマミの人たちの見る身体形状はもしかすると精霊もセットかもしれないし。

いいですね、その話。

スーザン・ブラックモアが幽体離脱の実験のことを書いていて、自分の後ろ姿を撮影しているリアルタイムの映像をHMDで見ながら、背中を触れられると幽体離脱感が立ち上がるそうです。

それから、ゴムの手を自分の手の位置において、理性的にはゴムだとわかっていても、ナイフをつきたてられると反射的に手を引っ込める実験、とか。

6本目のゴムの指がある仮想映像を見ていると、仮想指にモノがあたると痛いとか。

皮膚が自分の境界というのは、数ある思い込みの中のひとつにすぎないでしょうね。忘れている精霊を、どうやって取り戻すか。
安斎利洋2009年06月21日 00:36
僕は最近、仮想杖道をずっと続けてる感じがしてます。やったことないけど。

そもそも杖っていうのは、鋼のない武器で、杖にくらべると刀なんてHMDみたいなハイテクですね。人称の問題からすると、杖は一人称的なんだろう。

だって、刀は相手を切る空間と自分の持つ空間の間に、鍔(つば)がありますね。あれは、きっと仮想と現実の切断面ですね。

やるとやられるがつながっている、というのが、きっと粘土なんだろう。
安斎利洋2009年06月21日 00:42
m_m さんはじめまして。真ッ佐男さん、いい人をつなげてくれました。

カッツの痛みの話は、まさに↑の杖のことなんでしょうね。すべて仮想現実感だとして、なにか敷居があるとしたら、世界から殺される可能性かもしれません。

エンゲルバートが訓練を想定していたのは、知らなかった。興味深いです。人に優しいインターフェース、なんてことを考え出したのはいつからなんでしょう。もっと接合面がヒリヒリするようなUIを目指しましょう。
安斎利洋2009年06月21日 01:23
びすけっとさんのところに飛び火した話も、面白くなってきました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199244492&owner_id=79891

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