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プラシボ知識全体に公開
2009年06月07日02:14
「肉は、はじめ強火で表面を焦がしておくと、肉汁が逃げない」というのは、料理の基本中の基本なわけだけれど、ウソなんだそうだ。ちゃんと実験してみると、表面を焼こうが焼くまいが、肉汁の出方は変わらないという。

しかし、これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんだから、「肉汁が逃げない」という誤解は、遠回りに機能を果たしていることになる。

原始的な医療に、家族が数日かけて山奥に入らないと採れない野草、というパターンがある。自分を守っている人がいるという思いに数日ひたることで、たぶん免疫も上がり、この野草がなんであれプラシボ(偽薬)効果でよく効くのだそうだ。

肉が旨く焼けるのもこれと同じ構造で、こういうのをプラシボ知識と呼ぶことにしよう。

血液型と性格の相関も、科学的な根拠はないといわれている。にもかかわらず、けっこう多くの局面で人間関係のタイプが血液型で説明されているし、それが実際になんらかの機能を果たしているなら、これもプラシボ知識。

ほかにもないか、あれこれ考えてみると、クオリアとかミームとか表象とか、わかりかたがわからない対象につけられたエーテルのような名前は、ほぼプラシボ知識だろう。

というか、わかりかたのわかった数学や科学がプラシボでないという境界が、よくわからなくなってきた。

コメント

遼 遠 ☆2009年06月07日 02:18
わかるってこと自体が大抵はプラセボ(分かったという思い込みで分かったと思える)ですよね><
安斎利洋2009年06月07日 02:23
しかし、毒薬と偽毒薬のあいだには、境界がありますよね。
Linco2009年06月07日 03:45
> 毒薬と偽毒薬のあいだには、境界がある
これもプラシボでは。

って書いてる自分もプラシボ。
Mike2009年06月07日 05:39
直接的な効果がないのに、間接的、あるいは副次的効果があり、しかもそのことの説明が難しいのがプラシーボである、と言えるように思います。
 たとえば、リンゴダイエット。リンゴを食べるだけではダイエットにはなるはずは無いけど、リンゴを食べることによって余分な食欲が押さえられるとか、少なくともダイエットをしているという意識を持続できる、という間接効果が効いているような気がします。
 おまじないや、「未開社会」における神話の類いも、プラシーボとして、解釈できそうですね。
Hiro2009年06月07日 06:32
ふと思ったのですが、コンセプトって何なんでしょう ?

コンセプトがとてもしっかりしていて、説得力抜群の論文とかいうのが
よくありますよねぇ。
  
寝太郎2009年06月07日 06:35
これは科学と擬科学(pata-science)との違いでしょうか。
いちたすいちは、水銀だといちになるし、セックスをすると子供が出来てさんんなる。これを非科学的だといってつんと澄ましている科学(数学)とはつまらない(arid)ものですね。
モランディという画家(http://images.google.com/images?hl=en&client=safari&rls=en-us&q=giorgio+morandi&um=1&ie=UTF-8&ei=mdwqSrr9F4KHkQWYsPziCg&sa=X&oi=image_result_group&resnum=1&ct=title)はいちたすいちあるいはいちたすにまたはさんを描いていますが、いちのときにのときさんのときそれぞれ全く違った風景を描いている。
世の中に同一のものは存在しないのだし、「いち」というカテゴリー語は「一人」というカテゴリー語と共に「科学的」数の概念を形成する(非擬科学となる)が、実際の知覚は全く別。カテゴリー語を使って分った気になっているが、知覚化されない所で合点してしまっている。肉の表面焼き、血液型、クオリアといったプラシボというカテゴリーとしての(抽象的)イメージはあるが、それが実際の知覚に下りて来た所では、全く実相は異なっている。
アリストテレスの面白かった所は、実際に事実を収集していたことと、経験論的三角形の斜線の計測の問題であったりした訳で、「科学」のプラシーボを駆使した後の科学主義とは一線を画する。
安斎さんの疑問は大変アリストテレス的だと思えるのですが。
さかい@8/2平原演劇祭2009年06月07日 06:38
例えばある程度表面に焼きを入れるとフライパンや鍋に肉がこびりつかない、というのは、実体験でも簡単に立証出来る調理の基本だったりします。


「ちゃんと実験してみると」


の部分がプラシボの可能性もあるので注意が必要ですね。
立証することにより、本来得られている効果まで知らないうちに否定してしまえば、新たなプラシボ知識の誕生です。
ks912009年06月07日 07:03
信じることだけで成り立っているので、貨幣もプラシボ知識でした。
Mike2009年06月07日 07:41
そうでした。プラシーボの場合、実験で、効果が検証されてしまう、と言う点が単なる思い込みやえせ科学との違いでしたね。
大和田龍夫2009年06月07日 08:09
よく、プラシーボをスパシーバ(ロシア語でありがとうという意味だそうで)と間違えて、ま、だましてくれてありがとうってことでいいかみたいなことを思ったりしますが、実際間違える人が私以外にもいるみたいです。
幸島のサルのイモ洗いの話を思い出しました。
なさ 飛鳥井2009年06月07日 09:21
薬などの化学的作用でなく、心理的作用と理解してましたが、様々な使い方がありますね。

科学はどちらかと言えばプラシボを排除する方向にあるけど、プラシボの有効利用の研究がもっとあって良いように思います。

カウンセリングは心理的作用という意味ではプラシボですね。(笑)
たんぎー2009年06月07日 11:29
「カリスマ〜」ってのも社会的プラシーボみたいなもんですか。シャマンの権力への関与が制限されている「伝統社会」は多いようですが、カリスマ政治家→独裁者ってのは時流に乗っかっちゃうと止めにくい。近代社会は怖いですね。
安斎利洋2009年06月07日 11:52
ますますわからなくなって、気持ちいいです。虚数の存在を確認する実験というのはいくつか考えられるけれど、それは「複素数は機能する」という、「血液型は機能する」と同形のプラシボに過ぎないですよね。
メンタルスタッフ2009年06月07日 18:04
 プラシーボは、それがプラシーボであることが分かっていても、効果を持つ場合がありそうですね。この場合、本当にプラシーボを飲むという「儀式」が大事だったりするのかもしれません。まあ、これもだんだん練習すると、心の中でプラシーボを飲むだけでよくなったりするのかな。

 素朴な実在論的な世界観がないと、世界を探求するという興味は出てこなかったりするのかもしれないし、文化的進化はないのかもしれない。

安斎利洋2009年06月07日 19:17
お金とか、インターネットプロトコルとか、シャーマンとか、りんごダイエットとか、制度設計された儀式的なシステムが効果を発揮するのは間違いなくプラシボ的ですが、その反対の極には「毒薬」のような偽りようのない「実在」がある、という座標のたてかたは、妥当なのかどうか。

儀式的、というのは、説得力抜群の論文と同じで、共同体が受け入れているかどうかの問題で、これも社会的機能をはたすうえでは考えるべき要素だけれど、ひとりの頭の中に落ちてくるコンセプトもありますよね。

毒薬で死ぬのは一回限りだけれど、何人か死んではじめてカテゴリーが形成されて、それが同じ原因だと誰もが認めてはじめて毒薬は生まれるので、「毒薬は偽薬である」という面白いテーゼも、ありかなー???
安斎利洋2009年06月08日 01:37
みなさんのコメントのおかげで、一段深くわかってきたような気がしてきたのですが、
さて偽科学とプラシボ知識は、同じことなんでしょうか。

幸島の猿は、たしかに人の心を動かしたけれど、プラシボ知識ではないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1

なぜなら、プラシボ知識は機能が継続的な回路になっている必要があるんじゃないか。それによって、なにかがある分かり方で分かるような、循環する回路。一回限りのばれるウソは、ただのトンデモ科学ですね。

じゃ、アラン・ソーカルの『知の欺瞞』が糾弾するのは、プラシボなのか、似非科学か。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

どうでしょう。
Mike2009年06月08日 05:38
想像妊娠は、プラシーボ。(たぶん)

昔一度食中毒を起こした食べ物が、実際に毒がなくても、それ以降食べると具合化悪くなるのも、プラシーボ。(と、いうか、本当に体質が変化している可能性がある)。

ソーカル事件のようなことは、ありがちですね。いくら新発見、いいアイデアを書いた論文でも、それらしい体裁をしてないと落とされる、ということと、逆に、かなりのキワモノの主張があっても、それらしい体裁でちりばめられていると、間違い発見が困難になるということ。ソーカル事件の場合には、ポストモダンの一分野が対象であったため、なおさらでしょう。そういう意味では、ニューサイエンス系も、ソーカル風論文が受理される土壌にありそうです。
Hiro2009年06月08日 06:34
すみません、
質問しようかどうしようかと思いながら、書かなかったんですが、
この日記にコメントが着いて、読みに来るたびに気になって仕方
ないんです。質問させて下さい。

  昔の漫才みたいですね (笑)。

> しかし、これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんだから、「肉汁が逃げない」という誤解は、遠回りに機能を果たしていることになる。

  どうして、これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんですか?
  家族が数日かけて山奥に入らないと採れない野草の話の方は
  理由が書いてあり、自分も納得できるんですが・・・。
Mike2009年06月08日 07:42
肉汁が逃げるかどうかではなく、なにか他の要素で、最初強火で表面を焦がすと、美味しく感じるように肉が焼ける、ということではないでしょうか?

肉汁が残った方が美味しいと思いますが、肉は弱火で焼くと固くなって美味しくないです。どちらかというと強火で焼いた方が良いわけです。ただ、強火を長時間続けると焦げてしまう、ということで、頃合いを示すのに、「はじめ強火で表面を焦がしておくとよい」となったのではないか、と推測されます。
寝太郎2009年06月08日 08:22
私はソーカル論文を読んだ訳ではありませんが、その手の論文を書く人間は私の同僚にもいます(笑)。ひとりではない。

最近たまたま在る人の(公開)講演をインターネットで聴いて(オーストラリア人)、明らかに私の過去の論文からの引用でありながら見事彼のパッチワークの一部をなしていた。ひとごとではない。


>これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんですか?

確かにここも私は疑問を持ちました。というのは科学(あるいは似非科学)のデータが出て「ウソなんだそうだ。ちゃんと実験してみると、、、」となってるわけですね。この実験の方法は他にもある可能性はあった。例えば「味」という、現在は曖昧ではあるが、クライテリアに則った別の検証法があるかもしれない。「真実は反証が出てくるまでは真実」というrefutation 理論がここでも適用できる。

安斎さんの疑問は基本的にはイメージに関わるものが大きいと思う。

例のフッサールのイメージとイルージョンの3っつのカテゴリーを使うと、ある程度説明は出来る。しかし、この3っつのカテゴリーの立て方自体、科学的か似非科学的かと問われると、反証のしようがない。唯アリストテレスに帰ると、「味が違うのだから」というクライテリアから経験主義的に始めて見ることはアジな検証法だとは思う。(確かに哲学的論争は漫才に近い)

(科学的な)実際の検証が出るまでは実相であると思い込んでいること(Delusion )は、表面焦がしで肉を焼き「うまい」と疑問の余地無く思うこと。(科学的な)実際の検証が出てからでもそれなりの「味」を味わえること(illusion)は、「これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんだから、、」という居直り的イメージ。(私個人はこのイメージが一番馴染む)

しかし、この「科学的」や「実相」「実際」といったクライテリア自体蜃気楼 (mirage) であるとは誰も( 蜃気楼であるとわかるまでは)分らない。

多分A級グルメはdelusion。(私を含めて)B級グルメはillusion。しかし科学信奉者はmirage。つまり、 プラシボ(偽薬)効果の影響内にあるのが A級グルメ。 プラシボ知識を実際の「味」に加味するのがB級グルメ。科学的事実を信じて実際の味を見ないグルメはC級グルメ。というのはいかがでしょう。
(ながくなりました)
おあとがよろしいようで。
Mike2009年06月08日 09:19
本来の薬そのものも、我々が飲むときに、プラシーボ効果がプラスされているんでしょうね。実は、本当はそれほど効かなかったりして。
安斎利洋2009年06月08日 11:20
肉汁の話は、「マギー・キッチンサイエンス」という分厚い本で読んだのですが、検索したら、まさにその部分がPDFになってますね。
http://www.kyoritsu-pub.co.jp/kinkan/shosai/kin_mcge.html

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焼きつけの意味

調理法の説明でよく使われる表現に,「肉汁が逃げないように肉を焼きつける」というものがある.1850年頃,ドイツの高名な化学者ユストゥス・フォン・リービッヒによって考え出されたものである.その数十年後には誤りであることが証明されたにもかかわらず,今もプロの料理人でさえこれを信じる人が多い.

リービッヒ以前のヨーロッパでは,肉はある程度火から離してローストするか,油を塗った紙で包んでローストすることがほとんどで,最後にさっと表面に焼き色をつけていた.肉汁が流れ出てしまうかどうかは気にしなかった.しかしリービッヒは,肉に含まれる水溶性成分が栄養として重要だとし,これをできるだけ失わないほうがよいと考えた.その著書Research on the Chemistry of Food (食物の化学に関する研究)のなかで,肉汁を直ちに中に閉じ込めるよ
う肉を素早く加熱すればよいと述べている.肉片を沸騰水に入れると何が起きるか,次に温度を下げてとろ火で煮込むとどうなるかを説明している.

沸騰する水の中に入れると,表面から内側に向けてタンパクが直ちに凝固し,この状
態で皮もしくは殻が形成され,外側の水が肉の塊の内部へしみ込むことはもはやない
……肉はそのジューシーさを保ち,ロースト肉としてはかなり味のよいものとなる.
こうすることで,料理人としてはできる限りの風味成分を肉にとどめることになるか
らである.

そしてこの殻が,煮込み中に外から水がしみ込むのを防ぐのであれば,ロースト中に肉汁が流れ出るのを防ぐこともできる.したがって,ロースト肉は初めに外側を焼きつけてから,低温で中に火を通すのが最もよいことになる.

リービッヒの考えは,あっという間に料理人や料理本の著作者の間で人気を博し,そのなかにはフランスの高名な料理人オーギュスト・エスコフィエもいた.しかし,1930年代に行われた簡単な実験によって,リービッヒは間違っていたことが証明された.肉の表面に形成する皮が水を弾かないことは,多くの人が経験から知っている.鍋やオーブンの中,あるいはグリルの上で肉がジュージューと音を立て続けるのは,水分がしみ出して蒸発し続ける音である.実際には水分損失は肉の温度と比例するので,高温で焼きつければ低温の場合よりも肉の表面は乾燥してしまう.ただし,焼きつけることによって肉の表面で褐変反応産物が生じて風味は増し(p.751),この風味が唾液の分泌を促進する.リービッヒやその後継者たちは,肉汁を閉じ込めるという考え方は間違っていたものの,焼きつけることで肉をおいしくするという点では正しかった.
安斎利洋2009年06月08日 11:32
>肉汁が逃げるかどうかではなく、なにか他の要素で、最初強火で表面を焦がすと、
>美味しく感じるように肉が焼ける、ということではないでしょうか?

これは大正解ですね。ただし、マギーの本の説明も反証可能で、だったら最後焦がすのとどう違うのか、という実験もすべきですね。「これを信じて調理すると旨い肉が焼けるんだから、、」というイメージを共有しているから「旨い」という経験が生じるのかもしれないし。
安斎利洋2009年06月08日 11:41
なささんの「プラシボの有効利用の研究がもっとあって良いように思います。 」に同感なんですが、そういう意味で、ソーカルの糾弾は不当だという気もするんですね。

たぶん、ブルバキとレヴィ=ストロースのコラボが成功したことが、根にあるんでしょうけれど、反証可能な科学と反証不可能な哲学の混合が、どんな可能性をもたらすかわからないところでは、玉石混交のテキストがばらまかれるのは仕方ないんじゃないかな。そもそも、査読システムが完成した哲学って、死んでますよね。
安斎利洋2009年06月08日 12:52
>本来の薬そのものも、我々が飲むときに、プラシーボ効果がプラスされているんでしょうね。

逆に言うと、かなり多くの病気が心身症とリンクしているということでしょうね。人間は自殺することができるわけですが、神経系で自分の体に炎症を起こすこともできる。
安斎利洋2009年06月08日 13:38
>しかし、この「科学的」や「実相」「実際」といったクライテリア自体
>蜃気楼 (mirage) であるとは誰も( 蜃気楼であるとわかるまでは)分らない。

メンタルスタッフさんが、ウィルスの拡がり方と、社会のウィルス観がリンクしているという話を書いていましたが、観察が観察対象の一部になっているものは、原理的にプラシボになりうる。問題は、観察の影響のない観察対象はあるのかということですね。

「わかる」ということが原理的に人間の原理から離れられないということを、文学はうまく利用してきたわけだけれど、そういう「科学+詩」みたいなエリアは、もっとハードに追求してもいいかもしれません。
大和田龍夫2009年06月08日 17:23
>幸島の猿は、たしかに人の心を動かしたけれど、プラシボ知識ではないですね。

おっと、これはちゃんと説明をさせてください。
「100匹目のサル」はトンデモ科学というのが有力になっていますが、
なんでサルは「イモ洗い」を学んだのか。これはなかなか興味深い現象であります。もう6年くらい前のネタで私が興味を失いつつあるので、あまりはっきりかけませんが、この「サルたちが学んだ行為」そのものにはプラシーボ効果があるのではないか?と考えました。

まさか、まねしたサルは「ミネラルが体にいい」とかそういうことではないのは確か(因果関係を自ら学習して獲得したわけではない)。そして、その幸島のサルでは真似をしなかったサルが2匹いたそうな。ボスザルとNo2のサルらしいんですが、なぜ真似しなかったかは不明。そして、麦なんかでも海水で洗うアホがいて、周りに盗られてしまって大失敗みたいなことが続いたそうな、、、。今では1/3くらいのサルがやる奇行ということだそうです。

いずれも現地調査と文献調査はテキトーなんでそのうち、ちゃんとまとめてご紹介をば。
Hiro2009年06月08日 21:43
Mikeさん、安斎さん、
肉汁の説明ありがとうございました。
喉に引っかかっていたものが取れた思いです。
ありがとうございました。
 
安斎利洋2009年06月08日 22:39
大和田さんは「サルの行為に関する人間の知識」じゃなくて「芋洗いに関するサルの知識」を問題にしてたんですね。

確かにこれは、芋を洗ったグループのほうが生存に有利だから生き残った、というように淘汰で説明するのは無理ですね。

しかし、サルは行為そのものに関心があったのか、それとも味に関心があったのか。

エサを取り出すブラックボックスの実験があって、ある行為をするとエサがとれると教えると、ヒトの子もチンパンジーも、ちゃんと教えたとおりにする。しかし、その行為の有り無しにかかわらずエサが取れることが見えるボックスにかえると、サルは直接エサを取り、ヒトは、それにもかかわらず行為に熱中する。

プラシボはイメージの問題で、ヒトに固有のような気もするのですが、どうなんだろう。
大和田龍夫2009年06月09日 00:10
ヒト固有かどうかはわからないのですが、
お化けが見えるかどうか、
その見えたと思った瞬間にはfMRIで視覚野が反応しているのであれば、その人には何かが見えたのと同じということになる。
という話を以前伺ったことがありまして、
そうなると、何でもかんでも脳のせいにするのは好きではないのですが、脳は勘違いして別の判断をすることがあるわけですから、これはヒトに限ったことではなくて、他の動物でもあるのではないか?
と感じたのですが。

イヌが何か勘違いしてヒトの足に交尾しようとしたり、、、、あ、他に思いつきませんが、なんかあるような気がしました。猫を知れば世界がわかるでしたっけ?一度聞いてみなければいけませんね。

「唯識」ってことで片付けてはいけないんですが、結局は自分の意識ってのは自分の中で作られているものであって、見たもの、感じたもの、などは脳の中で起きているっていったら元も子もないんですが。

余談ついでで、ここんとこ「肩が痛くて眠れない」のが続いていて、
長澤まさみがうちにいるわけではないもので、
肺がんか?!と勘違いすることもなく、
素直に五十肩と闘っています。
安斎利洋2009年06月10日 13:34
「星座作用」の収穫のひとつは、絵描きの撮る写真は、彼らが描いている絵に似ている、ということでした。見る=記録することと、描く=表現することは、対極にあるというより、同じような行為なんだと思われます。

「見る」ときは、まず頭のなかに見ようとするものを「描く」のではないか。

ときどき見る前に描いてしまった枠組みに縛られて、見るものが極度にゆがめられれば、幻影になったりお化けになったり。

枠組みに縛られないときでも、お化けを見るように日常の風景を見ているのであって、この原理は変わらない。

プラシボ知識の機能のしかたもそのようなもので、先行する世界観が世界の範囲を限定して、その世界が世界観を決める、という循環が持続する。

これをつきつめると、すべては脳の中みたいな唯我論になってしまいますが、見るにしろ、プラシボにしろ、やはり「我の外」との避けがたいカップリングが、重要なテーマなんだと思います。人間、ひとりじゃ生きていけない。
Linco2009年06月10日 21:23
このあたりの秘密が解けたら、恋愛の謎にも迫れそうです。
メンタルスタッフ2009年06月11日 05:07
> 見るにしろ、プラシボにしろ、やはり「我の外」との避けがたいカップリングが、重要なテーマなんだと思います。

カップリングがあるからこそ、デカップリングの意味も出てきますよね。
妄想を生じないデカップリング装置(真実の表象をちょっとしか生み出さないという意味)は安全だけれど、飛躍を産み出すことはない。

言葉もまたコストのかからない妄想生成(支援)装置なんだと思います。

一方で、妄想装置には妄想の暴走を抑制するためのしかけも簡単に組み込めますが、(それも妄想の一部ですから、)その薬が効果を持ちすぎると、暴走は抑制されるけれど、結構つまらなくなってしまう。


> クオリアとかミームとか表象とか、わかりかたがわからない対象につけられたエーテルのような名前は、ほぼプラシボ知識だろう。

こんな意味で、事実とかリアリティとかもプラシーボ知識の仲間入りをさせるのがよいと思います。

我々は「肉汁を閉じ込めればおいしくなる。」のような、分かりやすい単純で即物的、事実的なモデルが好きなんですよね。こんなモデルを知ると嬉しくなる。これが事実でないということを知っても、またどういうわけか嬉しくなってしまいますね。

事実について、当面の効用以上のこだわりがあるような気がするんですね。いろんな人に発見を言いたくなります。事実でないことを知ったからと言って、肉の焼き方が変わっておいしい肉にありつけるわけではない。一方では、この即物的なモデル、納得したい気持ちに対しては2倍おいしく働いてはいるわけですが。

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