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ヤノマミ全体に公開
2009年04月14日00:52
日曜の夜に放映されたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」は、圧倒的だった。火曜の深夜に再放送があるので、見てない方はぜひ。

たまたま先週、早稲田のデジタルメディア論ゼミで、「人殺し」の話をした。人は殺してはいけない。しかしどこまでが人で、どこから人でないかという境界線は自明でない。

ヤノマミの出産したばかりの少女が、生れ落ちたそれをヒトとするか精霊として森に返すか、自分自身で判断しなくてはならない。その顔を、僕はこれから何度も思い出すだろう。少女の気持は、自分の中にある感情の類型ではわかりきれない気がするからだ。

ヤノマミの集落は、まるで細胞膜のような形態の環状の家だ。ヒトと精霊を分ける根拠は、この膜組織に保護されたミームにあり、ミームの担い手は神話だ。僕らが生活に応用している物語や感情に比べると、ここにある感情の語彙は豊かで厳しい。

再放送は、NHK総合火曜の深夜(つまり厳密には水曜)、0時45分から。

コメント

jun@NP2009年04月14日 03:05
番組見て、母親が子どもを育てるという行為が、全然普遍的なコトじゃないという事実が酷くショックでした。
全然母性愛なんてDNAに刷り込みなんかされていないじゃん!
生まれたての子どもは、母親の判断次第で、人として死ぬのではなくて精霊とし森に戻せるという思想を合理化している社会。未知の世界で、自分の無知を思い知られた感じ。悪夢みたいとも言えますが・・・。
中村理恵子2009年04月14日 05:31

 あおいきくさん日記をひっぱってきますが、、

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1132998143&owner_id=464033

あのドームのような住まい、ヤノマミの人々、その群れにはよれよれの老人がいない。
たまたまなのか?
生まれ出るときの、人と精霊のはざまをみせたドキュメンタリーと並行して、
老いた人のすがたを、画面の中に、みつけようとしてました。わたしの場合は。

この取材、ドキュメンタリーには、つづきもあるんだろうか?
拡大版もあるんだろうか?
Mike2009年04月14日 05:55
おお、家人が偶然、録画しておいてくれたので、見てみます。

私はふだん、ビデオを録画したりはしないのに、その日に限り、レッドクリフのpart1が放送されることを知り、そちらを予約していたら、家人が矢野真美、じゃなかったヤノマミを録画すると言ってきかないので、喧嘩になりそうでした。が、実は我が家のビデオは同時に2つまでは録画できるのでした。

内容に関するコメントは、中身を見てからにします。
あおいきく2009年04月14日 10:12
>拡大版もあるんだろうか?
BSでは2時間だったそうです。

裏番組がレッドクリフだったので、見逃した人が多いでしょうね。

どこにも着地しない映像を、塊のまま差し出したNHKも、いい意味で亀裂が入っています。
Archaic2009年04月14日 10:15
よれよれの老人も日本の姥捨て同様精霊となって森に帰る日があるのではないだろうか。。。

最近姥捨て山が自分の老後のために欲しいと思うこのごろです。

Archaic2009年04月14日 10:17
そういえば、日本にはこけし、という言葉と人形が残ってますよね。
自らの判断、この場合は家族での判断かもしれないけれどいわゆる間引きですね。。。。。

似てるのかな。日本は。
Archaic2009年04月14日 10:22
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?queId=7531346

すみません。先に調べてからコメントすべきでした。
こけしは子消しというのをお話で聞いていたので、そう思っていたのですが、作り話だということです。

でも、ほんとうにそれだけだったのかは、わかりませんよね。(しつこいかしら)
安斎利洋2009年04月14日 15:52
Mikeさんナイス! その録画、消さないでとっといてください。とりいそぎ。
安斎利洋2009年04月14日 16:10
母性愛とか、長寿とか、これは人間の根幹にあって、遺伝子に刷りこまれてる自然的欲求である。というふうに考えがちなんだけれど、実はjun@NPさんが言うとおり「DNAに刷り込みなんかされていないじゃん!」ってことなのかもしれませんね。

自由・平等・博愛のようなヒューマニズムは、不自由・不平等・偏愛?への抵抗として発明された概念で、必要のないところに人間主義は生まれようがない。宣教師のもってきた概念は、ヤノマミにはおもちゃにしかならない。

口減らし(子消し?)とか、人工中絶とか、エコーで見つかる障害胎児とか、おば捨てとか、安楽死とか、そういう問題がヤノマミの精霊とどうリンクするのかについて、ずっと考えているんですが、これも人間主義にどっぷりつかったわれわれにとって、上手に考えるのが非常にむずかしい。

農耕や医療によって自然と非対称になった人間にとっての人工淘汰は、いずれ身体が森に食われていくヤノマミとは、同じ問題になりえないんじゃないか、という気がするんですよね。僕らはせいぜい死んであの世に帰るのだけれど、ヤノマミはこの世に帰るわけで。
にしの2009年04月15日 00:13
残念ながら見てないのですが、wikipediaの記述と
>ヤノマミはこの世に帰るわけで。
という安斎さんの言葉だけから判断すると、
ヤノマミには「死」がないって感じでしょうか。シロアリに喰われて精霊になるだけで。
とすれば死がないのだら殺人も存在しないし寿命なんてのも存在しない。
理解できませんが、分からなくはない気がします。

文明だ文化だ宗教だ倫理だなんてのはそれを作った人の半径1メートルにのみ意味があって、まったく別世界に生きるなら意味どころかその概念そのものの存在自体無いのといっしょ。と思い至りました。

この別世界どうしで共通・共感しうることはなんだろう。
おなかが減ること?

などとぐるぐる考えてます。
寝太郎2009年04月15日 10:04
この手の番組はなかなか海外では見れない。後でDVDになって出るでしょうか。

>ヤノマミの出産したばかりの少女が、生れ落ちたそれをヒトとするか精霊として森に返すか、自分自身で判断しなくてはならない。

これ中国で、女の子が生まれたとき「山の精霊」として返すといった意識で殺す時少しは理にかなうのでしょうか。一子政策は必要とはいえむごい政策です。

しかし、一体少女がどういう感化と直感で判断を下すのでしょうか。村の上役の男達か、旦那の意向が既に判断に反映されているのではと疑問に思います。この村男女の割合は釣り合いが取れているのでしょうか。ちょっと興味があります。男性社会では男の数が必然的に多くなりますね(その多くは戦争で死ぬでしょうけど)。
あおいきく2009年04月15日 10:38
少なくとも、集落の中で祝福された出産であるかどうかは、少女も敏感に嗅ぎ取っていると思います。そして、それも森で生きる能力の一つかと。
そういう不条理、不合理も神話の中に回収することで、秩序を保っているんじゃないでしょうか。

私たちの社会も似たようなことがありながら、寄る辺なく、生老病死に丸腰で向き合わなければならない。

>この手の番組はなかなか海外では見れない

ちょっと調べてみたら、NHKオンデマンドで同番組が22日まで配信されるようです(有料ですけど)。
https://www.nhk-ondemand.jp/index.html
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009006353SC000/index.html
寝太郎2009年04月15日 10:56
あおいきくさん

コメント有り難うございます。

>そういう不条理、不合理も神話の中に回収することで、秩序を保っているんじゃないでしょうか。

Demythology ではありませんが、神話も政治的意図、社会の反映図であるわけですね。そこのところレビ・ストロースも、自然は人口を経て作られている、と言っていると思います。

>私たちの社会も似たようなことがありながら、寄る辺なく、生老病死に丸腰で向き合わなければならない。

信仰が無いと生老病死に丸腰で向き合う過酷さがある。これ痛いほど良く分かります。誰しもが何らかを信じて生きているのだと思います。信仰を得られればこれも又その人にとっての救いかもしれません。しかし、真贋の区別は別として、あまりにも選択の幅は大きい。
>
https://www.nhk-ondemand.jp/index.html
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009006353SC000/index.html

御利用の地域ではご使用になれません。といったメッセージがありました。残念。NHKともあろうものが海外配信できないとは、摩訶不思議。
安斎利洋2009年04月15日 13:33
Mikeさん、録画はBSハイビジョンのロングバージョンだと思い込んでしまったんですが、僕の勘違いですね。早とちりでした。

それにしても、ロングバージョンはネットで流してほしいよな。ほぼ税金のように徴収された視聴料で作られた番組なんだから、フリーで還元すべきですよね。NHKのアーカイブビジネスは、全部フリーにせよとは言わないけれど、ちょっと異議あるな。

にしのさん、録画したDVD、送りましょうか。
安斎利洋2009年04月15日 14:08
>一体少女がどういう感化と直感で判断を下すのでしょうか

おそらく、生まれた子どもが生きていく「隙間」が、物資的社会的な「環境」に用意されているのかどうか、ということを瞬時に判断するアルゴリズムが、神話に託されたミームの中にあるんだろうと思います。

物語を組み立てる視点のとりかた次第で、少女に判断を強いている暗黙の権力を見出すことはできると思うし、男女の産み分けとして機能してるかもしれない。しかしそれも含めて、大きなシステムとして、これは動的平衡そのもの。

福岡伸一さんの説明のしかたによれば、動的平衡は高速でピースが抜け落ちるジグソーパズルで、抜け落ちたピースの周囲の型から、補完すべきものが探索され、嵌められる。この分子の仕組みが、ジャングルの中で完全な相似をなしているといえるんじゃないか。

動的平衡は創発を説明はしてくれないけれど、持続可能性をきれいに説明してくれます。拡大再生産が美徳される僕らの世界は、いわば癌細胞みたいなもので、過剰を切除してコントロールするために、産児制限したり、エコ熱にうかされたりする。ジャングルと同じようだけれど、ここには大きな違いがある。

レヴィ=ストロースが言うとおり、ジャングルの自然は隅々まで人の手が入っているんだけれど、アリの手も、獏の手も入っていて、それが動的にバランスしていれば、1万年を過ごすことができるんでしょう。
たんぎー2009年04月16日 00:54
ヤノマミ社会での新生児殺しについてはたくさん研究があるようです。ネット上の情報からだけでも、
(1)新生児殺しは先の子どもの授乳期間中に生まれた場合に多い。
(2)男児が偏重されるので、殺されるのは女児に多い。一部資料では女児新生児の40%超だそうです。
(3)ヤノマミ社会での男女比と(女児)新生児殺しに相関関係があるかないか議論が続いている。
(4)「間引き」は共同体によって強制されることはない(という現地報告がほとんどです)。
という感じですね。私が見た1時間版はいまいち食い足りない感じが残りました。2時間版というのを見てみたいです。
Mike2009年04月16日 06:37
まだ、番組は見ていません。ちょっと時間がないので。
ヤマノミ族は、極端に低血圧で、塩分を摂らないそうですね。
塩分を摂らないから低血圧なのか、元々低血圧でしかも塩分を摂らないからか、分かりませんが。
安斎利洋2009年04月16日 11:52
>(2)男児が偏重されるので、殺されるのは女児に多い。

なんで、男を多くするんでしょうね。
進化戦略的には、1:1が最も安定であるといわれてますね。
繁殖を目的とした家畜の性比は、雄が少なくなるようにコントロールされる、
ということは、女を少なくするのは、繁殖よりも狩猟のほうが困難だから、かな。
あるいは、1:1はもともと人口増加の戦略だから、sustainabilityを優先するなら、女が少ないほうが安定、ということか。

それにしても、パートナーのいない男がいつもあぶれていることになりますね。
安斎利洋2009年04月16日 11:58
>ヤマノミ族は、極端に低血圧で、塩分を摂らないそうですね。

アマゾンの塩分はどうなってるのかと思って「アマゾン 塩分」でgoogleったら、Amazon.co.jpの「料理の塩分量早わかりハンドブック」が出てきてしまった、というたあいもない話ですが、、、

野生動物が、長い道のりを歩いて岩塩を舐めにいく、という映像を見たことがあります。
ヤノマミは、どこから塩分を摂っているんだろう。動物から間接的にか?
メンタルスタッフ2009年04月22日 20:23
NHKオンデマンドを使って見ました。
ヤノマミの1万年の動的平衡を支える仕掛けとして、出産の文化の役割が大きそうな感じがしました。大人の女だけでなく、子供(女の子ももちろん)が参加することも大事そうです。

14歳の少女でも、神話と体験に支えられて、いろんな準備ができているのかもしれません。

それから、当たり前ですが、映像の力って、大きいなと思いました。特に、動物の解体のシーンが結構出てきましたが、精霊をどう考え、感じるのかに、動物の解体は無縁ではなさそうです。
血の臭いもその一部であるオントロジー(存在論)ができないでしょうかね。
たんぎー2009年04月23日 01:09
>それにしても、パートナーのいない男がいつもあぶれていることになりますね。

「男性は抗争で死ぬからバランスがとれる」んではないか、という議論が昔からあるようですね。実際に「あぶれている」かどうかは疑問視されているようですが。いずれにしてもヤノマミは「戦闘的な民族」ですから、成人男性同士が対立すること自体はあまり忌避すべきと考えられていないのかもしれません。
安斎利洋2009年04月23日 01:55
>ヤノマミは「戦闘的な民族」ですから、

これは、1万年のサステインを考えると、意外な感じがしますね。もし部族同士の戦闘だとしたら、外の文化から武器などを取り入れた部族だけ残ってもよさそうなものですね。戦闘も、サステイナビリティの一部なのだろうか。
安斎利洋2009年04月23日 02:29
>血の臭いもその一部であるオントロジー(存在論)ができないでしょうかね。

ひさしぶりに、オントロジーという語の正しい使用法を見た気がします。

生命は情報である、とか、記号である、というのは正しいと思うのだけれど、たとえば活版印刷の活字のように、一度に使える「あ」の文字の数に限りがある、というような、シニフィアンの制約があって、その制約こそ記号の裂け目であり、可能性であると思う。

前にも紹介しましたが、「いのちの食べ方」
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/wmv/movie.asx
これを見ると、際限なく供給される活字のような家畜や農産物を、われわれは食ってるんだということがわかります。

血の匂い、動物の胎児、燻製の肉、仲間の死体、自分の産んだ子、シロアリ、蝶、これら一回限り一個限りの強烈に匂いを発するものが、僕らのまわりにはなんにもないですね。
寝太郎2009年04月23日 02:34
皆さんの議論面白いですね。

実際「自然」とは何なのか考えさせられますね。「自然」にはどこまで「人工」(あるいは人の介入)の手が行き渡っているのか。(男達が殺しあって結局バランスが保たれるといった)予定調和あるいは永続的不均衡も含んで「自然」なのか。神託としてのミームといったヤノマミの少女の判断があったとして、それが東京の女の子の堕胎を判断させるミームとはいかほどの隔たりがあるのか。つまり、ヤノマミの少女の精霊返しが「自然」(少なくとも「自然」と深い関わりがある)ならば都会の少女の「堕胎」も「自然」なのか。

確かに出血を伴うオントロジーを考えさせられますね。
安斎利洋2009年04月25日 02:25
自然と不自然の分け目は、人の介入の有無のときもあるけれど、人の介入にも自然と不自然がありますね。こんなあいまいな概念なのに、自然という語を日常生活で使いこなしていることのほうが、驚くべきです。「不自然」つまり「わざとらしさ」の判定も、自明にやっているのが不思議。
ヤノマミの精霊と、東京の堕胎の間に自然と不自然の分け目があるのか。じゃ、実験室の生命操作の中に、自然と不自然のarticulationがありうるのか。
シアノバクテリアの不自然な大発生が、酸素という不自然な気体を環境にばらまき、酸素を必要とする不自然な生物を繁茂させる、というのは自然だろうか。
メンタルスタッフ2009年04月25日 16:46
> こんなあいまいな概念なのに、自然という語を日常生活で使いこなしていることのほうが、驚くべきです。
同感ですね。

言葉の役割はarticulationをよくする方向だけでなく、対象の区別をあいまいにしてarticulationを悪くして、つじつまを合わせ、結果的に、動的平衡を維持する役割があるんだと思います。
番組では、ヤノマミは自分たちだけが「人間」で、外部世界から来るホモサピエンスは人間ではないと考えていると「解説」されていましたが、その「人間」という言葉の使い方はなんなのだと、ちょっとは思ったりしますが、それでなんとなく話は通じていきます。
精霊、神などの概念も典型的にそうなのだと思います。私にとっては、これらの概念はあいまいにしたくない分け目を敢えてあいまいするようなところがあって、あんまりうまく「使えない」のですが、それらを使いこなして、実際にそれらがうまく働いている人や社会があるのだろうと考えることはできます。それらの働きを一定理解はできても、実感することは、(原理的にはできるはずであっても、)なかなか困難です。「匂い」の漂う現場の助けが不可欠だったりするのでしょう。

そう言えば、さっき、懇親会の会場で、匂いの研究を実際にしている人が同じ学部にいることを発見してびっくりしました。試薬壜に入ったアンモニアの匂いは強烈ではあっても、、腐ったものと一緒の時の嫌さとは違います。血の匂いも、ビフテキの油の焼けた匂いと一緒ならおいしい匂いですし。その人、女性ですが、電子顕微鏡のお守りをしているとか謎だらけなので、そのうち遊びに行ってみましょう。

安斎利洋2009年04月26日 18:37
>言葉の役割はarticulationをよくする方向だけでなく、対象の区別をあいまいにして
>articulationを悪くして、つじつまを合わせ、結果的に、動的平衡を維持する役割が

メンタルスタッフさんは、ときどきこういうふうに、いままさに考えている空白に言葉を埋めてくれますね。

このまえ(の前かな)田中譲さんが「イェルムスレウが面白いんですよ」と耳打ちしてくれました。インテリジェントパッドのようなモジュールシステムが、組み合わせでどれだけ新しい概念を生成可能か、いわば「言霊度」を測るようなアプローチにヒントがある、というようなことだったと思うんですが、僕はイェルムスレウを読んでなかったんで、それ以上話が進まなかったんですが。

あとで入門書程度のものを読んでいるのですが、田中さんが言うのは、たぶん「格」の研究あたりかと思います。ほかにも、イェルムスレウには反articulationのシステムを考えるヒントが、たしかにいっぱいあって、たとえば下論理的システムということを言ってます。

言語は普通「A」と「非A」の二項対立だと考えるわけだけれど、たとえば、「大きい」「小さい」、という対立の中で、「小さい」は小さいことだけれど、「大きい」は、「大きさ」というように、大きいと小さいをカバーする概念だ。oldとyoungも、how old と言っても、how young とは言わない。だから、「A」と「A+非A」、明確さと不明確が向かい合うような対立があり、言語はむしろそのような原始的なシステムを根にもっている、と。

人間の色の感覚は、RGBの感度を測るとGのスペクトルに、マイナスの谷があって、近いスペクトルがあるときに、本来ある光量を引き算するような、アーティキュレーションをエンハンスする効果がある。しかし、匂いは違うんじゃないかと経験的に想像します。

このまえ、自転車で散歩をしていたら、北区のほうに迷い込み、そこになんとか酵母という発酵の工場があって、醤油のような良い匂いを強烈に放っていました。それ以来何日も、何をかいでも醤油の匂いに引っ張られる。本来なら、醤油の匂いに対して無感覚になるべきなんだけれど、むしろ脳がその匂いを求めているような感じです。

匂いは、分節化するよりも、リンクしていくような感覚なんじゃないでしょうか。ミルクチョコレートを連想させると、チョコがなくても、ミルクにチョコの匂いを感じる、みたいなことがよくある。匂いの研究者に、ぜひそのあたりのことをお聞きしたいですね。

「自然」も「非自然」の対立として考えるべき概念じゃないんでしょうね。
Mike2009年05月04日 15:54
ヤノマミ、ようやく見ました。

皆さんの議論は、ほとんど見てなくてごめんなさい。

見ての感想ですが、ヤノマミであろうと、現代人(文明人?)であろうと、生まれた子どもに対する意識は変わらないのではないのかなあ。精霊、というのは、いわば、言葉のあやで、食っていける(=育てていけるか)どうか、ギリギリのところで判断しているのでは、と思いました。生まれてくる子どもが可愛くないはずは無いけど、もしも育てていけないのだとすると、自然(=天)に返すしか無い。文明の有無など、関係ない、と思いました。

皆さんのご意見を、これから少しずつ見てみたいと思います。
安斎利洋2009年05月05日 00:33
>ヤノマミであろうと、現代人(文明人?)であろうと、
>生まれた子どもに対する意識は変わらないのではないのかなあ。

そこが、このドキュメントの論点でしょうね。僕は反対に、嬰児の死に対する感情は文化に依存するんじゃないかと思います。

胎児の死についての感情は、個人によっても、文化によっても違います。その子といっしょに過ごす未来を思い描いた親にとって、胎児の死は悲しい事件になるけれど、そうでない場合、あるいは死を望む場合があることは、僕らの社会のなかでは容認される個別性です。人工中絶を認めない宗教の中では、この事情も変わってくる。そのように、胎児の死に対する感情は、同じ地盤に接地していません。

嬰児の死も、その延長として考えられるんじゃないか。いったん顔を見た嬰児は胎児とは違う、という考えも成り立つけれど、しかし死んだ胎児の形を見えないようにしているのは文化的な隠蔽だろうし、ヤノマミが嬰児が精霊である場合に抱いたり見つめたりしないのは、同じ隠蔽だといえる。

自然な感情だと思っていることが根をもっていない。そこにヤノマミの衝撃があります。メルロ=ポンティだったか、親の死が悲しいという感情は、学んだものである、というようなことを言っていますが、同じことだと思う。
Mike2009年05月05日 08:01
安斎利洋さん、
>嬰児の死に対する感情は文化に依存するんじゃないかと思います。

自分の感じたこととは別ですが、この意見にも納得できます。
文化が違うからこそ、堕胎を認めない宗教もあれば、母性保護のために許容する考え方もあるからで、まして、嬰児を間引くことに関しては、文化的な許容がなければ、単なる犯罪とみなされるでしょうね。
 我々が、自然な感情と思うことも、社会的/文化的な背景があって初めて成り立っているんでしょうね。

 話しが飛躍しますが、戦いの時に、敵の首を集めるとか、負けたときに捕虜となることを良しとせずに自死すること、あるいは、自らの命と引き換えに相手を倒すことの選択も、文化に強く依存するんでしょうね。
安斎利洋2009年05月06日 01:57
>自分の感じたこととは別ですが、この意見にも納得できます。

僕もまったく同様に、自分の感じ方と、一万年単位の相対化の間のギャップを感じます。
NHKのドキュメンタリーは、ぎりぎり現代の視聴者に渡りをつける配慮のあるアポリアですが、もしこれが3歳の幼児を精霊に返す話だとしたら、とたんに僕らの感情は白黒の極に集まってしまうでしょう。そんな話は許しようがない。

自分の感じたことと、自分が感じることについて考えることの電位差は、解消しなくてもいいのだと思います。解消しないまま、別の感情のシステムがあることを知ることに意味がある。

僕らにとっては近しい旧約聖書のサクリファイスの話。神がアブラハムに、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」という件。

これはもしかすると、それ以前にあった子殺しの風習との間に、渡りをつける物語だったのかもしれない。
SW2009年05月13日 23:27
わぁ、近代社会はどこから来たのか、みたいなスレッドだ。日本でも確か生まれてしばらくは、半分死者の世界にいる(精霊という言い方とは違いますが、これは宗教構造が違うだけで似たようなもの)とかそういう流れがあったような。

そして近代法でも自然人になるタイミングはいつか、というのは民法上揺れてるところ。堕胎にも財産分与にもいろいろ関わるややこしいテーマ。ああ、懐かしき大学時代。
安斎利洋2009年05月14日 04:20
>日本でも確か生まれてしばらくは、半分死者の世界にいる。

生まれた瞬間にいきなり人間として祝福されるのは、高度な医療の助けがあってはじめて可能になったことで、かつてはもっとおっかなびっくりのあいまいなところに生まれ落ちていたんでしょうね。

腹帯をしたり、赤ん坊を布でぐるぐる巻いたりするのは、魂が逃げないようにするためだといわれますが、そういえば、あれは人工的な淘汰圧だと言う人がいた。

病院の中で、産婦人科だけは「病気」でない人が入院していて色彩が明るいけれど、出産時の命のリスクは、病と同じくらい高いわけで、生まれた瞬間にいきなり命の保証をしなくてはならない産婦人科医はたいへんです。

半分死者の世界から赤ん坊がやってくる、という世界観は、現代でも効果的に幸福を作り出すかもしれません。

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