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ワークショップ譜全体に公開
2009年03月24日02:23
ここのところワークショップを学ぶ学校やらが大流行のようで、覇権争いの様相を呈しているのだそうだ。くだらねぇー。

ワークショップを定式化しよう、っていうなら、学校を作ってオーソリティの陣取りをするより、スコア=譜をどう作るかを考えるほうが、ずっと未来を左右する効果的な戦略だと僕は思うんだけれど、そこに気づいてる人はどれだけいるだろう。

楽譜をもつことによって、音楽は得るものと失うものがある。芝居にとっての戯曲(テキスト)も同じこと。

リプリゼンテーション(上演)が「譜」という中間形式をもつのは、たんに記録したり伝えたりする以上の意味をもつ。シェイクスピアが再上演可能なのは、戯曲そのものがリプリゼンテーション(表象)だからだ。

anzuくんが連続ワークショップをやっていて、このまえ一年の区切りがついたのだそうだ。ワークショップもさることながら、記録がなかなかいい。
http://mind-set.jp/
ワークショップの一覧は、
http://mind-set.jp/contents/blog/cat3/
面と向かっては言いにくいけれど、good job!

僕も一回担当して、中学生に非線形科学を教えた。
http://mind-set.jp/contents/blog/2008/10/mindsetschool-1026.htm
彼の報告は「譜」を意識していないのに、参加してない読者にも、なにかしら経験を伝える。

協奏曲に「カデンツァ」という演奏者のアドリブ部分があるけれど、その場限りの場との相互作用をどう記述するか、というのがワークショップ譜の問題だとすると、ジャズの記録形式とか、J.ケージの記譜とか、いくらでも参考にすべき前例がある。

自分の設計したワークショップについて、「譜」の書き方を考えてみようと思う。

コメント

オ☆クラ3.02009年03月24日 02:57
>覇権争いの様相を呈しているのだそうだ。くだらねぇー。
>スコア=譜をどう作るかを考えるほうが、ずっと未来を左右する効果的な戦略だと僕は思うんだけれど、そこに気づいてる人はどれだけいるだろう。


先日、箱根でワークショップをさせていただき、改めてこの事(上記)について考えさせられました。自分自身ワークショップに参加してくれた方々にこびる訳でもなく。。威張る訳でもなくニュートラルに「譜」の書き方も意識して進もうと考えさせられました。そんな日記をありがとうございました☆
安斎利洋2009年03月24日 03:45
オ☆クラさんのワークショップは、パッケージ化しやすいですよね、箱式っていうくらいだから。
しかも、箱根ですか!
寝太郎2009年03月24日 03:46
実に興味深いワークショップです。神々が人間の知らない所で同じ事をしているのではないかと思って恐ろしい、という所では笑ってしまいました。

インタビュー中に視覚を使わない視覚芸術(「視覚を封じたアート」)について研究を続けられている御様子、興味があります。BCDを通じてですが、実を結ぶよう私も努力します。BCDは既に非線形です。或は5次元かも(笑)。しかし非線形も勉強しないとなあ(汗)。

いい刺激有り難うございました。
安斎利洋2009年03月24日 03:52
>視覚を使わない視覚芸術

これについては、報告したいことがたくさんあるんですが、
いったん開くとネタバレしちゃうんですよね。
ここが、「譜」の解決不能な問題ですね。
寝太郎2009年03月24日 05:04
BCDは記譜法そのものですが、その教授方法あるいはワークショップの施法がパテントに関わる可能性があってネタバレに関わってきます。

視覚を使わない入力方法と、(視覚を使わない)「見せ方」、これが目下の技術的問題です。
びすけっと2009年03月24日 05:32
いいですねぇ.

よそのって記録がないんですよ.何が行われているかぜんぜん分からない.だから
直接見に行くしかない.記録は記録でしかないとか,ワークショップのよさが伝わらない
とかそういう理屈をつけて逃げているんでしょうけど.

いちおう弁護もしておきますと,苅宿先生は講演の一番最初に,覇権争いをしたいわけじゃ
ないってはっきりと言ってますが,それだけそういう質問が多いってことなんでしょうか.
中村理恵子2009年03月24日 06:13
>anzuくんが連続ワークショップをやっていて
http://mind-set.jp/contents/blog/cat3/
>面と向かっては言いにくいけれど、good job!

刺激されます。
彼らにいったん入った情報が、再構成されて出力される素早さと(レポートあがってくるまでの)、正確さ、情報の取捨選択のセンスは、賢い定点観測といったのったりしたものでなくて、自分たちも動きながら、走りながらやっている中で得られる独特の反射神経みたいなこきみ良さがありますよね。
あまりほめすぎちゃいけませんかね。

東大ではきわめて近い研究室、環境ですね。
楽しみです。

なにせ、
うちら、業界、世代、
のたのたぬるいことやってる場合じゃないな。
言葉遊びしてる場合じゃないなとね。

しかし、unxi、anzu、親子の脳みそシンクロ状態には、きっと本人たちも驚いんじゃないのかな。
環境だろうか?
遺伝だろうか?
安斎利洋2009年03月24日 12:45
>BCDは記譜法そのものですが、その教授方法あるいはワークショップの施法が
>パテントに関わる可能性があってネタバレに関わってきます。

パテントの問題となると、難しいですね。
僕の場合は権利は放棄しているのですが、次にワークショップに参加する人は、先入観なしのまっさらな脳で来てほしい。
映画の場合、ネタバレは言わないという不文律がありますが、ワークショップにもそういう暗黙の了解がほしいですね。
nazo2009年03月24日 12:52
>僕も一回担当して、中学生に非線形科学を教えた。

これは楽しい時間だったろうな。

安斎さん、あなたを地球人のままにしておくのは惜しい!

宇宙を突き抜けて神様になってみますか、ともに。

それに気の合う連れもいるな(この部分は人間的だけど)
安斎利洋2009年03月24日 13:05
>苅宿先生は講演の一番最初に,覇権争いをしたいわけじゃ
>ないってはっきりと言ってますが,

苅宿さんと面識はないんですが、いままでのすばらしい業績からみて、覇権をねらうような人ではないですね。
しかしある分野を立ち上げるときに、Aの定式化が、とりこぼされる非Aを生んでしまうことは避けがたく、CGも、メディアアートも、AIも、インターネットも、もっと言うならノイマン型コンピュータも、そうやって地固めをしてきましたよね。
だから、はじまりのときは肝心で、なるべく急に大きくしてほしくない。小さいものが分散して、相互作用している時期が必要です。
安斎利洋2009年03月24日 13:17
>しかし、unxi、anzu、親子の脳みそシンクロ状態には、きっと本人たちも驚いんじゃないのかな。
>環境だろうか?
>遺伝だろうか?

彼は家庭教師や塾で教えながら教育にめざめて、そこからワークショップに至ったので、そこはまったく僕の影響じゃないから、旅先で偶然出くわしたみたいなシンクロニシティですね。
安斎利洋2009年03月24日 13:18
>安斎さん、あなたを地球人のままにしておくのは惜しい!

nazoさん、そろそろ地球人のふりをするのはやめましょう、お互い。
みやばら2009年03月24日 13:25
ワークショップと言っても中身をみると分野が違いすぎて理解不能ということが多々あります。(内容を聞いても面白さがどこにあるのかわからない。)
先日ワークショップのシンポジウムで4つのWS報告を聞いたのですが、自分の分野に近いものは面白さが理解できるのだけど、そうでないものは否定的な部分しか見えない。
価値の置き方と見方が違うのでしょうね。
これをワークショップ譜に書き込むことは可能なんでしょうか。
安斎利洋2009年03月24日 13:45
>これをワークショップ譜に書き込むことは可能なんでしょうか。

僕は野球はあまり好きじゃないんですが、いまWBC決勝(9回表、韓2:日本3)でもりあがってます。面白い!
「譜」じゃないからだと思います。
jetson2009年03月24日 14:07
今ちょうどWSのリフレクションシートのデザインを考えていたところです。
WSのバリエイションが多いのでフォーマットが難題。

いや、anzuくんが連続WSの濃さ!!
ファシリテイターのリストもさりながら、anzuくんの伝える力が素晴らしい。
安斎利洋2009年03月24日 14:40
勝った!

すごい試合でした。
安斎利洋2009年03月24日 14:54
やっぱり、情動を巻き込む形式が必要なんですね。
野球とWSと、両方の話です。

リフレクションシートというのは、最後に書かせるやつのことですね?
jetsonさんも、WSデザインの世界なんですね。

「マチスましーん」は、いわばリーフを作って投稿することと、リフレクションシートを作ることが、イコールであるところに特徴があるのかもしれません。

「譜」も、本番の前の準備とか、本番の後始末といった切り分けができてしまったとたんに、光を失うんじゃないかな。楽譜は、それ自体で美しくあろうとする、シナリオはそれ自体で読み物たろうとする、というところが大事なんだと思います。

みやばらさんの
>そうでないものは否定的な部分しか見えない。
の原因が、WSや受け手のみやばらさんの側の問題なのか、それとも伝えかたの問題なのか、というところは分析してほしいですね。
あおいきく2009年03月24日 17:05
>その場限りの場との相互作用をどう記述するか
>情動を巻き込む形式

そのあたりが、まさに非線形ですね。
そういう、言葉にしづらい感覚をつかむためにも、誰もがアクセスできるワークショップの場が広がってほしいです。
にしの2009年03月24日 18:09
譜は科学ですが、(いいわけでない)口伝や以心伝心などもまた科学かと思います。

唐突ですが、
方便、上中下品、拈華微笑、
昨今の「わーくしょっぷ」なるものにかかる、もの・方法・問い・哲学は、
意外と仏教で研究されてたりします。
安斎利洋2009年03月24日 19:15
>そのあたりが、まさに非線形ですね。

そうなんですよ、最近流行のワークショップが、なんか危険な匂いがしなくてつまらないのは、線形に収めようとしているから、と言い換えられるかもしれません。
安斎利洋2009年03月24日 19:23
>昨今の「わーくしょっぷ」なるものにかかる、もの・方法・問い・哲学は、
>意外と仏教で研究されてたりします。

にしのさん、すばらしいヒントですね。

金沢の那谷寺は、岩の斜面を登ったり降りたりするなかに、いろいろなメッセージが仕組まれていて、(http://www.natadera.com/
経験の外在化という意味で、まさにワークショップが設計されている、といえそうです。

禅寺で早朝座禅を組んだときも、ワークショップ的な組み立てを感じましたね。

もうちょっとそのあたりのヒント、ください。
ytakeuch2009年03月24日 20:13
またunxiさんとお会いしてお話ししたいですけど、それ以上にanzuさんとお話しさせていただきたいです。
最近、経済情勢が良くないのか新人が入ってきません(特に面白い奴が)。若いかたとお話しする機会に飢えています。
anzuさんすごいですね。私はanzuさんの年齢の頃はなーんにもせずに、のんびりと過ごしてしまいました。院試に落ちてunxiさんから「浪人クン」と呼んでいただきましたしね泣き顔
ペコルン2009年03月24日 20:49
安斎さん担当のワークショップ、息子にみせたら、かなり興味を示して
anzuさんのところに登録してました。
いいのかなぁ・・・確かに3月までは中学生だけど。
にしの2009年03月25日 00:14
ワークショップ自体は、システム工学の観点からは、自発的、体験的、発想指向の(教育あるいは問題解決)手法であってそれ以上それ以下のなにものでもないのですが、最近は別の意味ももってしまっているんですね。違和感があります。
教える内容は別の話しのはずなのに、ワークショップ向きの内容、があるような議論というか意図というか、そんなシバリを感じます。

ともあれ自発的、体験的という意味では、禅宗はかなり徹底しています。
根底に、不立文字、ことばでは伝えられないという考え方があって、禅の場合は要するに座禅を組め!ということなのですがそこに至る過程で、かの禅問答などもあってとってもワークショップ的です。あえて言えばグループワークはわりと少ないのかもしれません。そこにあるのは九品と方便で、生まれ育ち教育レベルの違いで理解の仕方もことなるので手法(メンタリング)もそれぞれ変えなければならない、というしごく真っ当な論理です。
安斎利洋2009年03月25日 00:54
>院試に落ちてunxiさんから「浪人クン」と呼んでいただきましたしね

大昔のこととはいえ、失礼しました!

>anzuさんのところに登録してました。

おー、営業してしまった。
セルオートマトンのワークショップは、たぶん来年度、何度かどこかでやりそうです。
声かけますね。
安斎利洋2009年03月25日 01:11
不立文字(ふりゅうもんじ)と読むんですね。

すると、言葉で伝えられないことを、記譜できるのか、という問題に陥りますね。

譜で経験は伝えられなくても、譜に経験を畳み込むことは可能なんじゃないか、と僕は思います。音楽のすべては不立文字でも、音楽が解凍される圧縮表現は記号化できる。

そういえば、座禅は、遠くの音がどんどん豊かに聞こえてきました。読経も、すごい合唱音楽だったし。でも足が痛いんだ。
あ っ こ2009年03月25日 02:04
>>本番の後始末といった切り分けができてしまったとたんに、光を失うんじゃないかな

記憶がすこしゆるいけど、かつてパリあたりでセミネールという「形式」(あれはもしかするとワークショップだったのかも)にこだわった人がいたかと思うけど、彼らのセミネールをたしか「記録」しようと試みたことがあったと思う。
そのとき細心の注意を払ったのが(「書いたもの」と「話されたもの」の「中間」)、であったと思う。
「中断を中断のまま」など細部の場の様子をある工夫で記録したのだと思う。
実際に記録化(文字化)したものを見ていないのでその出来具合にまで言及できないけど、ひとはともするとすぐに「光を失ってしまうなにか」にいつでもきがついていてでも逃げられないでいる。。。って事なのかも知ない。。。と思った。 っす★

>>不立文字(ふりゅうもんじ)と読むんですね。

生ものって話ですが、私は人間のやることってほとんど生ものですぐに腐るって思うところがあって、「行こうとする過程」こそが注視すべき事柄かもしれないとも感じることがあります。

禅宗もしこたま腐ったとこあって、言葉を工夫しない蒟蒻問答好きを大量に生産しているという側面もあります。
(実際に目の前でたくさんみた)
「言葉で考えるひとにはわからない」みたいなことを平気で口にしたりします。理解できるように話す練習もしてくださいといいたいこともあり(笑

アークショップ譜がもしできたらおもちろいなと思うのは、一面に譜を並べて口笛吹きながら「今日のお授業はぁ〜〜〜H式とP式とI式でいこ〜〜」なんていってチョイスできるかもってとこかな。
方法論ってのはいつだって組み合わせ可能であっていいと思うし。
安斎利洋2009年03月25日 02:24
去年の学環の講義は、正規の受講者は5人で、そのほかは自分で講義をもっているような潜りが集まって来て、まるでラカンのセミネールみたいだなと悦に入ってたのでした。

ワークショップ譜の話は、三宅なほみさんといまやっているプロジェクトの中から出てきた話なんだけれど、そこでのもうひとつのテーマに、講義という表象形式を練ってみる、というのがあります。いまWeb上にいろんな講義が動画で見られるけれど、どれもただ教室の講義を撮っただけのもの。

グレングールドがコンサートをドロップアウトして、ひたすら自分の地下スタジオでオープンリールテープに演奏を録音するんですが、たとえば学校をドロップアウトした講義をノンリニア編集で再構成し、ひたすらWebに流すレクチャラーがいてもいいんじゃないか、とかね。

4月から、そっちの方でもいくつか実験をしてみようと思ってます。
あ っ こ2009年03月25日 09:55
潜り・・・・・いいね。

昔あるひとたちの環のなかで医学がおかしいのは医学者を教育するプログラムのせいじゃないのかって話があって、とある人が「一年生あがってすぐに解剖ってあれが諸悪の根源だ〜」みたいな意見をのべて、それいたいして「解剖しないで医学がはじまるか!」みたいな応戦をしていた。

そのときに思ったのは医学部の学生のあいだに普通の学生混ぜて勉強するってすてきよねって!

・・・・話ずれた。すみません。

ともあれ4月からもたのしんでね。
中村理恵子2009年03月25日 13:20
>すると、言葉で伝えられないことを、記譜できるのか、という問題に陥りますね。

はい!
たぶん、記譜はできる。
記譜とおもうと、あるイメージがわいてしまいますが、
新たなアートくらいの、挑み方すると、意外にできそうですよ。
わたしにとっての。。。とトラタヌ予想のみで舞い上がっております。
数年前より(古武道に本格的にのめって以来、告白・・・わーい(嬉しい顔))
前後しますが、

>不立文字(ふりゅうもんじ)と読むんですね。

言葉にならないということ、実は、超効率のいい次元と最近感じています。
環境の、直接抽出とでも申しましょうか。
いちいち、言語化中枢に運んでは、一段処理が遅くなる。
どうしてもせよ!というむきもありますので、「所詮、言葉にはならないよ」なんて逃げるつもりはなくて。
実はね、
不立文字(ふりゅうもんじ)独特の、辞書、言葉の表現の存在に、最近気がつきました。
すげぇでしょ。
でもね、錯覚かもしらない。
なにせ、これらは、言葉+α(この+αが同期してはじめて機能する)=不立文字表現の言葉といえばいいのでしょうか。

あまり深くつっこまないでくださいね。>ALL
とりあえず、おぼろげな感触部分もむりやり、ムキになってレスしてますんで。

安斎利洋2009年03月25日 17:16
↑何を思いついたんだか、コメントが不立文字だ!

>にしのさん

言葉にできない、というのと、記号化できない、符号化できない、というのは、ぞれぞれ違いますよね。不立文字って、どれなんだろう。
にしの2009年03月25日 18:07
記号化できないだけだと思います。
いわゆる悟りは、知識と推論と認識のシステムを取り込むことで、
言葉にできるのは知識の8割ぐらいと推論の5割くらいと、認識(認識機能)の2割くらい。
それ以外は自己で体得せよ、というのが本当のところかと。メタ認知がある意味近くて、個々の広い意味での身体性とかかわっています。要は言語ゲームかと。

禅問答「隻手音声」などは、その足りないところを各自が身につけるための「ワークショップ」なんだと思います。答えではなく、答えるプロセスと、そのプロセスを感じる自分自身を身につけるという感じ。

「伝えられない」の「ない」を100%の不可能性と思ったり言ったりすると、明らかに間違いですね。
>「言葉で考えるひとにはわからない」
とかは、まちがい。ただしいのだけど…。

譜にすることは切り捨てることですが、
切り捨てられた部分は当然として同時に伝わるわけで、
いかにしてそこを伝わるように切り捨てるかというのが譜の技術かと。
無限を内包する有限のシステム構築。

「芸術」が求めているのもこういうことですよね?多分。
安斎利洋2009年03月25日 22:30
だんだん問題の構造が見えてきた。

たとえば、「A→B」という常識があるとする。
それを、「A←C←B」なんだよ、と教えたい。

ひとつの方法は、「A←C←B」という謎の言葉をいきなり示す方法。「色即是空」みたいなもんですね。
はじめは何言ってるかわからないけれど、あるとき「はっ」と悟ることがある。

もうひとつは、

「まず、AとBの関係を切り離しましょう。次に、Cがあることに気づきましょう。B→Cなのです。そして、C→Aなのです」

というふうに、ストーリー化する方法。これが、ワークショップ。

ストーリーの組み立て方は無数にあります。

「AとBの矢印をひっくりかえしてみましょう。しかし、BはいきなりAになりませんね。途中にCが介在するのです」

とか。

「中間になにかある」「矢印の向きを考えよ」

と、短縮されたヒントを与える禅問答式もある。

いずれにしても、「A←C←B」というスタティックな状態を、いきなり脳に注入、転写することはできない。なんらかの、流し込みのプロセスが必要で、それは体験者が自分で獲得するしかない。

同じ問題を、Y←Z←X のように、メタフォリカルに気づかせるのが、芸術のイディオムですね。
安斎利洋2009年03月26日 22:14
>無限を内包する有限のシステム構築。

いま、ワークショップのデザインで考えるべきことは、ここですね。

デュシャンは便器を90度回転するだけで、世界中の既製品の概念を回転しようと試みたわけですね。
A←C←B を伝えるために、 特殊なひとつの事例を示して、頭の中にファンクションを埋め込む。

にしのさんに、「禅とワークショップ」というワークショップをやってもいらいたい。
osamu2009年03月28日 03:04
ひぇぇ〜〜〜〜

anzuさんは幼稚園児なのに・・・(僕の脳の中)、、、いや
この幼稚園児はあの頃anzuさんだったのか・・・
安斎利洋2009年03月28日 04:30
まったく、同じ生き物とは思えないね。

はたして、子どもと、それが大人になったときと、同じ生き物なんだろうか。

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