ここのところワークショップを学ぶ学校やらが大流行のようで、覇権争いの様相を呈しているのだそうだ。くだらねぇー。
ワークショップを定式化しよう、っていうなら、学校を作ってオーソリティの陣取りをするより、スコア=譜をどう作るかを考えるほうが、ずっと未来を左右する効果的な戦略だと僕は思うんだけれど、そこに気づいてる人はどれだけいるだろう。
楽譜をもつことによって、音楽は得るものと失うものがある。芝居にとっての戯曲(テキスト)も同じこと。
リプリゼンテーション(上演)が「譜」という中間形式をもつのは、たんに記録したり伝えたりする以上の意味をもつ。シェイクスピアが再上演可能なのは、戯曲そのものがリプリゼンテーション(表象)だからだ。
anzuくんが連続ワークショップをやっていて、このまえ一年の区切りがついたのだそうだ。ワークショップもさることながら、記録がなかなかいい。
http://mind-set.jp/
ワークショップの一覧は、
http://mind-set.jp/contents/blog/cat3/
面と向かっては言いにくいけれど、good job!
僕も一回担当して、中学生に非線形科学を教えた。
http://mind-set.jp/contents/blog/2008/10/mindsetschool-1026.htm
彼の報告は「譜」を意識していないのに、参加してない読者にも、なにかしら経験を伝える。
協奏曲に「カデンツァ」という演奏者のアドリブ部分があるけれど、その場限りの場との相互作用をどう記述するか、というのがワークショップ譜の問題だとすると、ジャズの記録形式とか、J.ケージの記譜とか、いくらでも参考にすべき前例がある。
自分の設計したワークショップについて、「譜」の書き方を考えてみようと思う。