野球はもともと、攻撃と防御を切り分けないと理解できないような、あんまり面倒なことを考えたくない連中がはじめたスポーツなんじゃないだろうか。
複雑な問題を切り分けて解きほぐし、ひとつひとつ要素化して理解するのは、頭の良さなのか、それとも複雑なまま理解できない、という頭の悪さなのか、とか。
ヴァイオリニストは右手で弓を弾くけれど、「左手でフォルテを弾く」っていう言い方があって、それは具体的には弦を硬くおさえることによって減衰しないような意味なのだけれど、こういうのは究極、頭の良い知識表現だ、とか、、、
そういう、賢さの座標が世間と少しずれた人が集まって、朝から晩まで話しまくる小さくて濃い集いがあった。学習科学の三宅なほみさんが率いるコンソーシアムの行方を探る会だったのだが、なほみさんのすごさは、ねえちょっと時間ある?と数日前に声をかけただけで、豪華な面子がぞろぞろそろってしまうところ。
先日来、急速に仲良くなった北大の田中譲さん、もうすぐ東大教授卒業の原島博さん、最近テレビでよく見る高野明彦さん、なほみさんの連れ合いというかメンタルスタッフさんというか認知科学の三宅芳雄さん、ユニコード戦記を執筆中の小林龍生さん、相変わらず杖を振り回している中村理恵子さんなどなど。この顔合わせがかつてあったわけじゃないのに、なぜかどんどん懐かしい部活みたいな空気に。
それから、産総研の橋田浩一さん、MIMAサーチの美馬秀樹さんなど、話題提供者はほとんど、自然言語処理の最深部を掘っている人たちなのに、そこから引き起こされる議論はどんどん自然言語処理の不可能性に落ちていくのが面白い。「それじゃ言語ゲームはどうなるのよ」と、メンタルスタッフさんが小声でつぶやく。
美馬さんの言う、「オントロジーAとオントロジーBの類似と差」は、それへのひとつの答。人はそれぞれ違う世界観の木をもっていて、違う木の枝が接合し闘争しているというのは、年末に西野さんや木原さんや幸村真佐男さんと話したテーマでもある。
みんな違う理解をするから世界は面白い、というなほみさんの変わらぬ態度にも通じている。しかし、そういうダイナミックな世界を、機械は切り分けて、読み取れるのだろうか。
別な言い方をするなら、同じひとつの写真がひとりひとりの中で違う連想につながるカンブリアンゲームに、機械が楽しんで参加できるか?という、いわば「カンブリアンテスト」をどうクリアするか。
ある日、隠喩をあやつる機械が、こっそり人のように参加しているカンブリアンゲーム。
面白いゴールかも。