安斎利洋の日記
2006年03月26日
18:17
フォーレ=反コーパス
フォーレの耳を弓で弾く、という奇妙な夢(
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)を見たのは、無意識の方から「フォーレのことを考えろ」という指令が出ているためだと思う。たいがい無意識は意識よりも頭が良いから、夢には従うに限る。
フォーレは晩年、低音が3度高く聞こえ、高音は逆に低く聞こえるという厄介な聴覚障害に悩まされたそうだ。特定の音が聞こえないとか、特定の色が見えないというならまだしも、一部の音だけ違う高さで「聞こえてしまう」のは作曲家にとって致命的だったに違いない。甘味を苦味に感じてしまう料理人のようなものだ。
僕は、どうやら聴覚障害をもったあとのフォーレの音楽が好きなのだ。その因果関係に気づいたのは、比較的最近だ。
フォーレは、天衣無縫の美しい旋律と和声が魅力だが、晩年になってそれは衰えてしまったと見る評者もいる。作品番号が3桁になるあたりから、フォーレの音楽は渋くなっていく。僕はそのもどかしい渋さがたまらなく好きで、それ以前のなめらかさに対する興味は、むしろ薄い。
才能というのは、自然のたまものだと思われている。生れついた才能というのは、いわばネイティブな言語のようなもので、自然に美しい作品を生み出す才能というのは、子どもが自然にコーパスを吸収して言語を獲得するように、ある意味で容易だ。
自然に言語を獲得する時期を過ぎてから、第二外国を習得するのはそうはいかない。自然の欠落した所には、強い補足作用が集中する。館野泉が右手の動きを失ってからある境地に達したのは、フォーレの難聴に似た逆説がある。
障害者が障害を乗り越えるというと、ついセンチメンタルな物語に陥りがちで、問題の本質をにごらせてしまう。しかしたとえばネイティブでない言語で書かれた文芸(日本人が漢詩を作ったり英語の小説を書いたりするような)は、ハンディキャップを乗り越えているから面白いわけじゃなく、そこには本質的な面白さ、翻訳的な面白さ、対象化しないと顕れない自然の面白さがある。
ここで思い出す作曲家がもうひとり。ストラヴィンスキーは、晩年どうしても12音がやりたくて仕方なかった。しかし、ライバルでもあるシェーンベルクが亡命先のアメリカでご近所だったので、彼のお株を真似ることができない。シェーンベルクが死んだあと、ストラヴィンスキーは猛然と12音音楽を始める。これがまた、すばらしい。
慣れ親しんだコーパスを捨てるところに、新鮮な自分らしさを見つける。これからの半生、そうありたいと思う。
参照:
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のコメントスレッド
コメント
2006年03月26日
19:22
は〜
すばらしい!!
2006年03月26日
19:40
セン
先月、仕事でストラヴィンスキーについて短い記述をする機会がありました(と言っても、下っ端ゆえに無署名の小さな記事です)。
文字数をあまり多くできない制約の中、こういうところで彼の最初に名声を博したバーバリズムから新古典主義への移行、さらに晩年の12音技法による宗教音楽への着手という作風の変遷をたどることができたのは幸いでした。
文字数を減らすと、『春の祭典』初演あたりで終わってしまうのですが、それではなんとも物足りないので(笑)、編集上の制約と格闘しつつ、少しでも世に出す意義ある仕事を重ねていければ、と願いながらやっております。
今月は、同じコーナーで、やはり小さなスペースに限られてはおりますが、フォーレについて記述する機会があったので、安斎先生の日記は参考になりました。今日ここから触発されたことを直接反映できるかどうかはまだ分かりませんが、すでに書かれた記事に明日もう一度目を通したい気持ちに駆られました。まだ入稿前です。
2006年03月26日
21:52
みまぞう
第二外国語って文法から入るから、もうコーパスではないんですよね。違うコーパスをゲットするには、学校にいって文法を習うのではなく、自分の体を違う世界の中に曝す必要があるのでしょう。
それは二つの意味でむずかしい。
1.新しい世界を見つけること。
2.新しい世界のなかに入るということは勝手知ったる自分の世界を捨てることだということ。
2006年03月26日
22:37
ikeg
僕も本当にそう思ってるここ1年です。
>慣れ親しんだコーパスを捨てるところに、新鮮な自分らしさを見つ>ける。これからの半生、そうありたいと思う。
2006年03月26日
23:36
近頃、自分にとっては異世界に少し触れることによって、
少しずつそんなことを思っています。
しかし、私にとっての『慣れ親しんだコーパス』というもの、
あるいは悪い習慣のようなものが何であるのか、
それを発見するところから始まっている気もします。
慣れ親しんだものが果たしてあるのか、そういう確信も持てないようなあやふやさもあり。。
2006年03月26日
23:52
klon
ストラヴィンスキーは12音技法と自分の技法、癖がない混ぜになったagonとかodeが素晴らしいと思います。自分と近いものを感じます。
2006年03月27日
00:17
安斎利洋
>自分と近いものを感じます。
なるほど、そうなんでしょうね。agonは、曲の進み方自体が、一曲ごとに12音技法に近づいていくステップのようで、スリルありますね。
ikegさんは、音楽で自分を脱するきっかけをつかみましたよね。
自分のなじんだ深椅子から立ち上がるチャンスを見つけるのが、agonじゃないけど、最初のステップなのかもしれません。
2006年03月27日
00:19
安斎利洋
センさん、奇遇でしたね。そのテキスト、ぜひ読ませてください。
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