にしのさんが提唱するスキルトロニクスは、技術がなにからなにまで仕事の代行をしていくんじゃなくて、技術が人間のスキルを要求するような領域だ。
持ったその日に使えるわけじゃない。しかし熟練を重ねると、どんなすぐれたインターフェースより密度の高い「人間-機械」の連携が生まれる。ピアノだって、小刀だって、車だって、道具はそのような敷居の高さをもつのが常だった。
人に優しい(易しい)環境を目指した近代の技術は、人間の関与をひとつひとつ解消していって、ついに人を追い出してしまった。敷居の高さは解消すべき問題ではなく、逆手に利用すべき制約だ、というのがスキルトロニクスだ。武道の型も、音楽の様式も、ここに通じる。
カンブリアンパーティーのひとつの目玉がスキルトロニクスだったにもかかわらず、それを十分にほかの話題と結びつけることができなかったのが、心残り。とくに、あの場でさんざん話題になっていた画像検索を、スキルトロニクスとどう関係させるかを考えなくてはいけなかったことに、あとから気づいた。それは、思い出すという行為の未来を考えることだからだ。
情報学環の授業で、ネット上のコンテンツをどんどん使うカンブリアンゲームを実験的にやってみた。ミイラというキーワードにつける画像を誰もがフリッカーから検索してくると、上位に出てくる強烈ないくつかの画像に自然と眼がいく。このルールのカンブリアンは、みんなが同時に同じ外部記憶をたどることになるだろう。
難しい言葉が話題にのぼると、誰もが人知れずいっせいにgoogleにかけるという奇妙な集団擬似回想行為が、すでに人間の意識のありかたを変えているんじゃないかとさえ思う。
SANPOの画像選びを支援するために、画像にタグをつけたり、画像の類似を自動的に検索したりするのはどうだろう、という話があって、僕はやや否定的に思った。それは、たとえば螺旋階段にドリルの刃をつけることはできても、言葉で説明できないリンクを捨てることになるからだ。メタ言語で説明できないビジュアルアナロジーだからこそ、創発が起こる。
じゃあ、「思い出す」にスキルトロニクスをかませる、というのは、どういう技術の方向をさすだろう、ということを考えたい。思い出すことの熟練や巧みとは、どういう道具の中で起こるのか。