安斎利洋の日記全体に公開

2006年03月15日
00:26
 コーパス型知識2
《承前》

伝統をアーカイブするときに、作品をそのまま残すんじゃなくて、作品からアルゴリズムを抽出し、それを伝えるアプローチがあるんじゃない? という話を野村万之丞さんとしたことがある。いまでもこの野心はもっていて、たとえばイスラム紋様はアルゴリズムとして保存できるんじゃないか、と思うわけだ。

万之丞さんはそのとき、父親から「おい、おまえ、左足から袴をはけ」と言われ続けた話をしていた。「何でですか」というと、「うるさい」と言って殴られる。なぜ左足かはだれもわからない。いまもわからない、と言っていた。

コーパス的な知識表現のあり方というのは、たいていこういう「何で?」「うるさい」という押しつけがましさがあって、僕はそれが好きになれない。絵や音楽も、そういう「芸ごと」性をたっぷり含んでいて、それを口うるさく言う連中はどうも胡散臭い。コンピュータで絵を描くことの最大の魅力は、すべて明示的なことだ。「何で?」「どうやって?」だけを、アルゴリズムとしてつらねていけばいい。

でも、左足から袴をはく理由を明示したら、きっと「袴は左足からはく」という知識は死んでしまう、というのがコーパス型の知識の特質なのではないか。というのがここ数日乗り上げている僕自身の自己否定なわけだ。

逆に、なんでも理由や説明がついてくる知識って、システムの再生成に関して非常に硬くて脆いんじゃないか。理由を説明できない知識というのは、それ以上圧縮できない知識なんじゃないか。

もうちょっとうまく説明できる事例が必要なんだけれど、なにしろいままで胡散臭いと思っていたせいか、思い浮かばない。
 

コメント    

2006年03月15日
00:52
びすけっと
表面的な表現力は,コーパス型の知識の方が高いので,
一般的にはそっちが好まれる.すごいことができるけど,
実はそれしかできない.

逆に,文法型の方は文法の記述能力が低すぎるので,
すごい苦しんで表現しなきゃならない.しょぼいこと
しかできないけど,いろいろできる.
文法は難しいので,トリッキーな文法を操れる人だけが,
高い表現力を引き出せる.

僕は文法をぜんぜん違う方法で与えるというアプローチ.

圧縮の結果文法が生まれるというのもいいかもしれない.
2006年03月15日
01:14
安斎利洋
文法型の記述能力が低いために、コーパス型のほうが良く見える、ということはありますね。そこのところは、問題を分離しないといけないと思います。

問題にしたいのは、システムを別なものに書き換えようとしたときの柔軟さで、たとえば同じプログラムを書くときに、入力に対する出力を全部テーブルでもっているほうが、きれいなアルゴリズムを書いた場合に比べて、無数の例外が入ってきても簡単に対処できるってことがありますよね。CPLDの電子回路が柔軟であるのと同じで、つまりこれらはコーパス型。

ビスケットって、実はコーパス型ですよね。そこに文法が勝手に生まれる、ということじゃないのかな。だから柔らかいんじゃないかな。
2006年03月15日
01:30
安斎利洋
万之丞さんらとの座談会
http://cambrian.jp/anzai/files/zadan199708.pdf
袴の話の続きをしたくても、もう無理。
2006年03月15日
01:53
machiko
週末、写し絵と錦影絵の合同公演というのに関わっていたんですが、
http://www.t3.rim.or.jp/~minwaza/2006new/goudou.html

東京と大阪の2つのチームの肌合いが全然違う。
なかなか話が噛み合わない。発想が根本から違うらしい。

昨年からずっと、何でだろうと思っていたんだけれど、安斎さんの書いたの読んで、わかった気がする。

同じ伝統芸能(だけど光学が基礎になってるので、科学・工学に関係する)を扱っていながら、桂米朝一門はコーパス型。みんわ座はかなり文法型。

結果とその過程の関係を分析して、より望ましい結果が出るように方法や要素を変化させ、その結果を見て、また・・・
というプロセスをとれるのは文法型、といっていいんでしょうね?
文法が最初から明示されていないけれど、因果関係から文法を解析しようとする。
ま、言語の文法ってそういう後付けだし。

コーパス型だと、伝承されてきた中にすべての単語も文法も包含されていて、それをばらして再構成するということは考えない。

個人的に、アーカイヴって言葉があまり好きになれなくて、押し葉みたいに「今あるそのまま」を丸ごと保存しても、再生にはつながらないのじゃないか、と思っていることもあって、気になっています。
2006年03月15日
01:55
どっちにコメントをしていいのかわからなかったのですが、新しいほうにしちゃいました。
コーパスのアプローチというのは、一子相伝、職人芸的な経験からくる知識を重視するアプローチということになるんだろうか? 排除・硬直、というイメージも、知らない、経験がないことに対する違和感から来るんだろうと想像しました。でも、人は誰でもある程度の経験を身に付けていく運用能力はあるわけだから、それほど閉鎖的ともいえないのでは。
文法のほうは、文字通りに理詰めのアプローチで、応用が利いて、柔軟だけど、人によってはこういう合理的なあり方そのものにアレルギーを示す場合があるので、これを上手に使える人と使えない人が現れるかもしれない。
どっちがいいか、というのを決める必要はないと思うのですが、どっちもいいですね、では面白くもなんともないですね。
こういう場合、人は大抵自分が抑圧と感じているほうを攻撃しますが、それがどうして自分にとって抑圧なのか、ちょっと横道にそれて考えると楽しいのかも。と、逃げる。
2006年03月15日
02:17
安斎利洋
machikoさんの深いところに根ざした企画だったんですね。

僕ら(と仲間にしてしまうけれど)は、やはり工夫改良を重ねていく写し絵の方に共感をもってしまいますよね。コーパスを守っていく人たちに敬意はもつけれど、新しいことをすると邪道と言われそうな空気って、やっぱなじめないんだよなー。

そういえば、早稲田に影絵のサークルがあって、昔友人が入ってました。

>人は大抵自分が抑圧と感じているほうを攻撃しますが

そうそう、僕はコーパス的な学習を、抑圧と感じ続けてきました。
でも、コーパス型が知識表現として文法をくつがえす柔軟さをもつことがある、というのはあるはずで、きっとどこかにうまい事例があると思うんだけど。
2006年03月15日
04:58
machiko
話が少し前に戻ってしまうのかもしれないけれど、

言語について例を取ると、文法というものを、ひとつの言語の中だけで捉えれば、それはかなり固定的なものになる。
コーパス的な学習や表現は、そういう固定的な文法を前提として成り立っていると思う。

しかし、異なる言語を比べると、文法には実は別の可能性があるのが見えてくる。
なぜ日本語では否定・肯定の別が文末に来て、中国語ではそれが頭のほうに来るのか、誰もそんなことは説明できない。
どっちも可能で、ただ、どこかでそれが決まっちゃった、というしかないのでは?
(ちなみに、私は高校の頃、漢文はかなり成績が良かったけど、それは実は、英語に置き換えて読んでいた・・・文章構造が似てるから。漢文の先生が知ったらさぞや怒ったことでしょう)

コーパス的思考から自由になるには、「あり得たかもしれない言語」(a-lifeの定義のパラフレーズです)の自由度を、(エスペラントとかじゃなく)パラレルワールドに存在可能な文法まで含めて考えたらいいのかもしれないですね。

(この時間帯に仕事をしていると、かなり思考が飛んでるかも知れないです・・・ご容赦)
2006年03月15日
08:05
中村理恵子
>おまえ、左足から袴をはけ」と言われ続けた話をしていた。「何でですか」というと、「うるさい」と言って殴られる。

これはねーわかるなー。
この左足先ってのは、明示する必要も、必然もなくて、ある必須のプロセスだからだと思うよ。しかし本質ではない。

人を斬ろうとするとき、左足をトンとついて、すっと右足が出て、そのときは八双(太刀を握って右寄せに立てて)に構えた切っ先は、すでに相手の頭上にまっすぐ振り下ろされるはず。
右手、右足がそろって前にでてる。

その大事の前の左足だもんね。
いちいち左足は、どうして?聞いていては、死ぬ。
肝心なことは、実はその先につながっているということの、流れの途中の質問や問いには、師匠としは、応える義務も必然もないんだろうね。
いい板前さんも、できるか?できないか?は、まな板前に立ったときの姿;構え(;左足をちょっと前にだしてるのかな?たぶん)でわかるらしいよ。

ま、安斎さんのこの件への言いたかったこととは逸れてると思うけど、万之丞さんのそのときの場に、たまたま私自身が立ち会ったように錯覚したよ。
2006年03月15日
09:06
なかむらさんから人を斬る話を聞くとは、これまでの私のコーパスにはなかったテキストのようなものです!
意外だと感じるのがコーパスで、何が意外性なのか抽出するのが文法?
2006年03月15日
10:50
N_apostrophe
安斎さんの刺激的話題の提供にはいつも驚きます。
コーパスと文法、テクストと解釈、フェノテクストとジェノテクスト、などなど、70年代から延々続くトピックスですね。
昨日の相撲中継で新しく代わった立行司の仕草は教わるのではなくまねるのだと言っていました。
モダニティーがモダンから抜け出るとき「コーパス」の方に向かったようです。
言語がなぜ変わるかという難しい問いにソシュールが沈黙したとき彼はアナグラムに、つまりサンタグムの生成能力の解明に耽ったようです。
サンタグムの多くの誤りはたいがい通俗的誤解ですが、ときには思いがけない長命なパラディグムを作ることがあるものです。その飛躍はぼくには時代の必然が潜んでいると信じています。
2006年03月15日
11:40
ユミ
職人に弟子入りして最初、なぜ、技能には関係のない雑用をさせられるのか?というおはなしを聞いたことあります。最初からお仕事をしてしまうと「できない」という事実がすりこみされてしまう。雑用をこなしながら目で見ている時間が「自分にもできるかも、、、できるだろう」という意識を作って行く。そのあとで初めて手にすると、出来ない自分に愕然としながらも「いつかはできる」ものとして認知するとか、、、
多くの常識とか技能とか武道の構えとかってその頭ごなしの後ろに文法化できる理由を抱え込んでいたはずだと思うのはわたしだけでしょうか?
形骸化の過程で元々の文法にたどり着けないモノも多く存在するのでしょうが。。。
とはいえ、わたしも九九は半分しか覚えなかったクチですが。。。
2006年03月15日
21:43
Marlbana*
剣道を習っていたときに、座るときは右足から膝をつけ、って言われたのを思い出しました。
これはちゃんと理由があって、剣は左腰の辺りに収めるので右膝をついている状態が右手で左腰の剣を抜きやすいからという理由でした。
文法事項の理由付けがはしょられていってコーパス型になるのですかね。私は九九はいまだに時間かかりますけど。。。(これは怠け者ってことかもですが)
2006年03月16日
00:06
チクリン
これはどうも暗黙知の話を思い出させます。
認識というのは「AからBへ」という形をとるので、Aのほうは明示できないというやつです。コーパスはいつも「コーパスから文法へ」という方向性の中にあって明示できないという。これは運動なので、コーパスも説明しうるけれどそうすると他の説明されないコーパスがどこかに見つかって、という循環になるのかな、と。
ここで、つまり、とつなげていいのかわかりませんが、イスラム紋様アルゴリズムの中にも定数は入っちゃうんじゃないですかねえ。たとえば曲線のパラメータとして。
その定数を今度はなんからのアルゴリズムに置き換えようとすると、たとえば見る人の身長と紋様の大きさをパラメータとにとる関数になって、そうすると今度は人間の身長の平均値みたいなモノが定数になってしまう、というような。
妄想ばかりでスミマセン。
2006年03月16日
00:38
安斎利洋
mixiは贅沢な場所ですね。いつのまにかすごい座ができている。

いまある世界は、可能なすべての世界のありようのごく一部の表象にすぎなくて、世界にはまだ「誰にも言われていないコーパス」が無数にあり、その未知の領域にどうやったら風穴をあけられるか。

僕らが関心をもつのは、コーパスを守ることでも文法を知ることでもなくて、アナグラムや文法の操作でシステムを変えていくこと、ありえたかもしれない世界へ飛躍していくことですね。

ところで、草原さんと中川さんはお知り合い同士でしょうか? ここにリンクがないとしたら、むしろ不思議。いつか、本当に座を囲みたいですね。
2006年03月16日
00:48
安斎利洋
>イスラム紋様アルゴリズムの中にも定数は入っちゃうんじゃないですかねえ

この話、よくわかります。たぶん、ありえたかもしれないコーパスが無数にあるように、ありえたかもしれない文法も無数にあるんじゃないでしょうか。それは、なにをパラメータ空間とするのかによって無数の解があるから。

イスラム紋様のアルゴリズムに定数があり、そのチューンナップそのものにイスラム紋様的な匂いがあるとしたら、その定数をパラメータ空間から選ぶアルゴリズムもあるはずです。そうやって追い込んでいったときにどうしても逃れられない定数として、人間の心拍や呼吸や、人間の体の大きさが残ることはあるかもしれない。

でも僕は、人間でなくても解釈可能であることを前提にした芸術というのがありうるんじゃないかと考えています。それは、目の見えない画家の作品が作者にとって意味がある、ということの延長としてです。
2006年03月16日
00:54
安斎利洋
>安斎さんのこの件への言いたかったこととは逸れてると思うけど、

逸れているかどうかわからないから、今日バガボンドでも読んで勉強しようと思いますが、でも「どうして?」と言っていたら斬られてしまう、っていうのは説得力ありますね。

武道っていうのは、きっと発生したときには文法的な裏づけがあって、2世代くらいの伝承の中でコーパス化するんじゃないでしょうか。きっと文法のことを言っている人は、斬られて淘汰されるんだ。
2006年03月16日
01:44
チクリン
>でも僕は、人間でなくても解釈可能であることを前提にした芸術というのがありうるんじゃないかと考えています。

そういえばイーガンの『ディアスポラ』にそんなのが出てきたような。
SFの場合だと、作り手(エイリアン)と受け手に理解可能な共通項としての数学があります。
でも目の見えない画家の場合、共通項は限りなくすくないわけですよね。自分に理解できないものについての理解可能性を盛り込んだ芸術、ということでしょうか。これって、不可能なことがらに見えつつじつはほとんどの芸術はこういう要素を含むのかしらとも思います。
2006年03月16日
01:56
安斎利洋
>自分に理解できないものについての理解可能性を盛り込んだ芸術

そういうことです。ともすると、芸術は人間の感性という雌型にはまる雄型を作るような言われかたをするけれど、それじゃ人間は飛躍できない。最近は認知科学や脳科学を利用して作品が出来るんじゃないか、と思う人もいるけれど、そうじゃないだろと思います。
2006年03月16日
04:04
H.耕馬
>そうじゃないだろと思います。
一票!

でも、作品の作成手順とか、生成アルゴリズムを文法化するソフトを作って、暗号解くみたいにガラガラとコンピュータ回して、残ったカスを集めたときに、芸術性が残っていない可能性にも一票。
2006年03月16日
04:12
安斎利洋
>暗号解くみたいにガラガラとコンピュータ回して、残った
>カスを集めたときに、芸術性が残っていない可能性にも一票。

これについては、中川さんの以下のコメントがそのままあてはまって、カスのようなでたらめの中に、表現を拡張する鍵がみつかったりするんだと思います。だから僕は、ガラガラとコンピュータを回し続けるんだろうな。

>サンタグムの多くの誤りはたいがい通俗的誤解ですが、
>ときには思いがけない長命なパラディグムを作ることが
>あるものです。その飛躍はぼくには時代の必然が潜んで
>いると信じています。
2006年03月16日
07:53
中村理恵子
>カスのようなでたらめの

あはっはあ。これが頭の中にいっぱい、血管の中にどろどろ流れています!
やばーい(笑)。
2006年03月16日
10:49
中村理恵子
* さん
>剣は左腰の辺りに収めるので右膝をついている状態が右手で左腰の剣を抜きやすいからという理由でした。

うん、左に太刀も杖も持ち(古流はね)、まず、膝の間に手を差し込んで、さっと右手で左の袴を払い右を払い、右膝突いて、左ついて、正座でしたっけか?先日、鹿島神宮での合宿で習ったばっか。
また足は、右からか、左からか?しこたま初心者集めた小グループで習ったばかりです。
どうしても西洋的行進の習いで、右手左足と、左手右足という組み合わせがしみてて、右足で踏み込んで前にでる手を素直に右と思えない迷いがあります。
ちょうどそんな生々しい体験のあとだったので、この流れの本来の意味することとは違う方向につい着ちゃいました。
2006年03月16日
12:12
MATANGO
また脳..というか、たぶん体の話になるんですが、「意識はかならず後づけだ」という観察があるらしいです。
「こうしよう」と思ってから「やってる」ように思うけれど、じつは「やって」から「こうしよう」と思ったんだろうと思ってるだけという...。

だから「意志」というのは、あるようでいてない。
「やる気をだせばできるだろう!」
...じつは「やる気」を出してるだけだと、ほんとうに「やる」ことは、いつまでたってもできない....。

文法、作法、範例...というのも、いつも後からやってくるので、文法を考えてからしゃべるのはすごく難しいし、作法にのっとって所作をするというのも、じつはものすごく難しい....。
「左足!」と考えただけでは、左足は出ない...。

コーパスにつなげますと...やっぱり、わけもわからずやってしまう、できてしまうことのほうが先なのかなと...。

それで、アルゴリズム...ということの意味がもうひとつよくつかめないんですが、これは「文法」とか「範例」にあたるものなんでしょうか?
それとも、人間の行動におきかえると、もっと原始的な「反射」に近いものなんでしょうか?
2006年03月16日
12:44
中村理恵子
MATANGO さん
>じつは「やって」から「こうしよう」と思ったんだろうと思ってるだけという...。

人んちの軒先ですいません>安斎さん
MATANGO さんの話し、まさに!
絵なんてね、出来上がっちゃってからタイトルつけます。
先に、このための絵を描いてといわれるほど辛いものは、ない。
できちゃったことになら後からいかようにも理由をつけてねじ込むけど(企業秘密公開・笑)。


2006年03月16日
13:22
安斎利洋
なるほど、コーパスは自由意志とも関係しますね。意志よりも下位のシステムに刷り込むことだから。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=91931229&owner_id=63253
このコメント列の最後にリンクします。
2006年03月16日
15:36
N_apostrophe
草原さんとは彼女が映像学会に入った時に紹介されました。CGアーティストとして。でも最近はぼくが学会に愛想を尽かして離れているのでリンクはありません。
会というものは始まる時は共有できる問題を持つのですがそのうちに形だけになってしまいます。
ところでこの座でコーパスについて二通りの考えが共存しているので:資料体には文法の口実としてのもの(例として示される生きていないもの)と発話に結びついた一回限りのものの二面があります。安藤さんは後者を言っていたと思います。ですから文法は解釈の中で働くもので発話の中では無意識に属している(Aということですね。:<認識というのは「AからBへ」という形をとるので、Aのほうは明示できない@チクリン)
フランス語で友人と話をして別れてから日本のひとと日本語で話した後、まったくフランス語の会話の主題する思いだせないということがたびたびあります。つまりおうむがえしに言われたことに反応していただけで相手がいなくなったらなにもなくなったみたいな。
エイリアンとの会話というものはこんなものではないでしょうか。これが異星物だったらもっとですね。ひょっとしたら遭遇していても記憶に無い(ことばにならない)だけかも。
ブラシは異星物かも!
国語もフィクションだから、英語がどんどん動いて行くように国語を動かさなくては。生まれただけで国民を押し付けられることから離れてゆくには具体的な関係だけを交わしながらずれて行く。この快感がこうしたりんくにありますね。
2006年03月16日
16:09
チクリン
>フランス語で友人と話をして別れてから日本のひとと日本語で話した後、まったくフランス語の会話の主題する思いだせないということがたびたびあります。

これ面白いですね。会話の「意味」というのが相手とともにあって、切り離せないことがあるという。ちょっとずれるかもしれませんが、ログインのパスワードを思い出せないとき、キーボードに向かうと指が憶えていてすっと出てくる。ほんと埋め込まれた知識になってます。
2006年03月17日
03:42
安斎利洋
フランス語の話、本当に面白いですね。いろんな物語が、沸いてくる。

昔の恋人と、いったい何を話していただろう。これもほとんど明示できない。いや、恋人とは異星人であって、さっぱり思い出せなくなるのが常なのかもしれない。人生はそもそも、異星で過ごすことかもしれない。

記憶も言語も、実は現在の脳の内部状態のパターンにすぎないというのが、非常に不思議に感じます。過去からきっちり連続しているような気になっているけれど、それは連続して残った物語だけが思い出せるからで、ほとんどの経験は深いといころで処理されて痕跡を残していないはずです。
でも、指が覚えていたり、突然歌が沸いてきたり。

先週赤い名刺入れを紛失したんですが、あの手この手で回想してみても、星雲をつかむようです。

> 会というものは始まる時は共有できる問題を持つのですが
> そのうちに形だけになってしまいます。

これは一般的な法則です。だから、本当の友達とは会や会社で出会いたくないです。
2006年03月17日
10:12
N_apostrophe
会話の相手と会話が結びついていることでは苦い思いをしたこともあります。20代後半は討論に加わることが多くて、そのころメモを取りながら議論していた。だから誰かが発言したら、以前何を言ったかは良く覚えていた。
あるとき、ある人物がそのときどきに都合の良い論旨を展開することに気づいてしまった。そのとき以降、書いた物を介してしか真剣に話しを聞かなくなった。
もちろん今はそんなに厳しくことばに応じてはいないけれど、関係でころころ立場を変えるひととは関係を避けるようになった。
ところで、ひとは対応する関係の間で主体を作ることについても理解するようになった。学生たちがいちいち同意を求めてくるのは拒むのだけれど(教師に同意されて意見を立ち上げるひ弱さをもたせないためです)、こうしてできた主体が関係によってばらばらにされるということにいまでは魅惑されている。
ただそうした柔らかい、人を拒まない関係の背後に、セルフィッシュな人格が隠れているという事例にも遭遇した。
このような人間関係において友達とはどういう敷居を越えたものなのだろう?
2006年03月17日
10:37
N_apostrophe
コロケーションよりは狭い制約を掛けて映画作品の物語の叙述の構成特性を研究したことがあります。(いや進行形なのですが時間がやたら掛かるのでリタイヤ後にまわしています)。
「鍵を壊して」「ものを盗む」のをアシンメトリーとし(なぜならこれを逆にするとべつの物語が派生するから)、入れ替えても変わらないのをシンメトリーとして叙述をasとsの連鎖に変換して、、、、というふうに操作して、その作品の構成規則(マヌカン)を記述し、といった研究です。
自然言語は句読点で便宜的に区切っているけれど、これをas/sシステムで区切って行けば自然言語の構成規則も記述できる(と予測するだけですが)。
あるいは、実際の会話が、言語ででは無く、その構成規則で人による差をもつことを発見するかもしれません。
2006年03月17日
11:59
中村理恵子
>ただそうした柔らかい、人を拒まない関係の背後に、セルフィッシュな人格が隠れているという事例にも遭遇した。

安斎さん、昨日の電話でのわれわれの話しに、この中川さんの話しのシンクロ度には、驚くばかりと同時に、どこか痛くて痒いですね。ずばり言い当たられたような自分の素性を。

中川さん>わけのかわらない内輪話しに、引き込んでしまって申し訳ないですが、まるで良質でモドカシイ映像に、現実には入るはずのない、自分の存在というノイズが重さなったと錯覚しています。この重層を、ここで起こってること、うまくどこから話を繋いでいいのかわからなくなっていますが(笑)。

2006年03月18日
03:20
安斎利洋
s/as、これは実に興味深いテーマです。記憶やテキストが脳の中ではニューロンや発火パターンであること、つまり時間に展開されている言語や物語は空間に展開されているということ、これは驚くべきことだと思います。そりゃ、本だってそうだろといわれればその通りなんですが。しかしこれは、物語を幾何学として考えることができる、ということじゃないか。物語におけるシメトリーは、幾何学を予感させます。

物語が幾何学として記述できる、というのは、たとえばタンパク質が形を作るとか、形が進化の物語の中で形成されるとか、そういうことともリンクするはずです。

ところで、物語のシンタグマが逆であることは、因果の可逆性、非可逆性とは別の問題なんですよね。いわゆる倒置法(映画でよくある、三年前…、のような)は、s/asとどう関係するのでしょう。

>人間関係において友達とはどういう敷居を越えたものなのだろう

s/asは、synchronism asynchronism でもいいですね。シンポジウムなどで、あらかじめ発言内容をきっちり計画して来て、それをしゃべって帰るような登壇者だけだったりするとがっかりします。それは、強くて揺るぎなく信頼性の高い人間関係かもしれないけれど、友達づきあいの楽しさとは逆。最近、ITの世界ではasyncに設計するのが流行っています。よそに足をとられないから。しかし、足をとられない人と付き合うのは、stableだけれどスリルがない。

僕はもしかすると、本当はコラボレーションを気軽にできるタイプの人間じゃないのかもしれません。だからかえって、主体が関係性の中に生まれることに、肯定的な意味を見出せるような相手の柔らかさに感動を覚える。

中村さんと10年以上も、アートなんていう実に頑固であるべき世界で仲間をやっていられるのは、彼女はセルフィッシュなのに柔らかいからじゃないか。原理主義者のように頑固なのに、友人の魅力的な話に出会うとその場で原理を変えたりします。確信をもって描いた絵具を、ナイフで削り取ることができる。その矛盾の塩梅が、似てるのかもしれない。

昨夜中村さんとの電話は、強い信念をもった美術館は、むしろイヤだよな。兵役のある強い韓国の男が流行るより、ふにゃふにゃの元禄やさ男文化のほうがいいよな、みたいな話から始まりました。
2006年03月19日
02:01
N_apostropheさんは無事に卒業式のスピーチをされたのでしょうか?
17日と書いてあったような。。。
2006年03月20日
10:29
N_apostrophe
長いと言うひとも、考えさせられたと言うひとも。
スピーチのずっと前に原稿を考えて、周囲への介入として計画するのですが、その後またいくつかの言説が大学内に起こるし、スピーチの直前にも別の言説がある。
こうした状況にシンクロしつつ話すのはつらいところがあります。つらいとは5分に制約されるから。
議論の場では言説に別の言説が対置される。そのとき、たいがいは自分の言説があいての文脈にダブラージュされる。
この回収に抵抗してまた言い直す。これはいっけん対抗なのですが、これもまたシンクロの変形でしょう。
こうした議論が異なった主体の間にしだいに第三の主体を構築して行くとき、これは良い友人関係を作ることにつながる(と良いですね)。
ところが、そのときどきの政治のために費やされる言説は目的にしたがっていて、このような主体の賛同を得ても、それは「売春」をされたむなしさです。
>ふにゃふにゃの元禄やさ男文化のほうがいいよな
この柔らかさの中で第三の主体を創造して行くとき良い関係が生まれると考えるので同感です。問題なのはふにゃふにゃではなく、底(主体)が無い(隠される)という、あり地獄の様な人が増えていることに孤独を感じるのです。これはアシンクロで勝手に存在しているひとと異なっているように見えて同質です。

>s/asは、synchronism asynchronism でもいいですね。
sはシンメトリーですから、むしろアシンクロ。asはアシンメトリーなのでむしろシンクロと読み直せば、関係しそうですね。

>いわゆる倒置法(映画でよくある、三年前…、のような)は、s/asとどう関係するのでしょう。
「三年前」という叙述は、映画の中ではすくなくとも二つのモードで発生します。「演技者」(作中人物)が物語世界の中で発話する場合。これは物語内物語を発生させますから、それ以前とこれいこうは、物語世界と物語内世界との連続ですからこの連続はシンメトリーです。
「三年前」が物語外(物語叙述の場)で起こる場合。まずこの叙述部分は物語世界と物語外世界の連続ですからシンメトリーです。しかし、それ以降叙述されたものは互いに物語世界ですから、同じ行為項(物語の主体)に関してであればアシンメトリー。別の行為項(つまり別の物語命題)であればシンメトリーです。つまり、連続に関してシンメトリー、ひとつ跳んだ関係(遠隔)にかんしてシンメトリーかアシンメトリー。
こんな風に考えます。
2006年03月20日
10:44
N_apostrophe
>兵役のある強い韓国の男
個人が対抗できない国家という法人格があるとき、たいがいはそれに結びついた人格相の背後に個人の主体は隠されてしまうのではないでしょうか。
生死が掛かる様な局面にならないとこの背後の主体は表れないのは、たとえば、特攻隊隊員が出立前夜の祝宴で料亭の柱に切り傷をつけるといったことが物語っています。
こんな主体として生きるのはごめんです。どんなに自由に見えて、他者と生きることの中には孤立した主体とは異なった間主体が発生するのですから、ことさら国家を強調するやからにはセルフィッシュな目的に他者を操作しようとする野望があるものです。
(セルフィッシュとエゴイストの違いを教えてくれたのはわたしの同僚です)。
2006年03月20日
11:47
>。ひょっとしたら遭遇していても記憶に無い(ことばにならない)だけかも。
ブラシは異星物かも!

言葉を覚える前後の人間の子供も非常に不思議なことをいろいろ言ったり、サヴァン的な能力があったりもするんですが、言葉によって上書きされてしまって記憶には残らないようです。

胎内の記憶とか。突然マウスでイギリスの地図を書いてくれたり。。「イギリスだよ」って。でも何で書いたの? どこで見たの?と聞いても「わからない」とか。。そんなことがありました。
娘2才ぐらいのころ。
2006年03月21日
12:03
中村理恵子
N_apostrophe さんの
>(セルフィッシュとエゴイストの違いを教えてくれたのはわたしの同僚です)。

 これ、利己的であるということと、利己主義とは違うということ言われてるんでしょうか。
中から染み出てきてしまう質と、纏うこととの違い。


2006年03月21日
13:11
安斎利洋
中川さんの卒業式祝辞には、いろいろなことを考えるヒントがあります。人間は10歳から20歳くらいのたかだか10年ほどの刷り込みを、たいていの人は後生大事に温存したまま生きるので、だから常識も権威も簡単に作れてしまう。そのことを理解した人は自分の「底」が、それほど確かな根拠をもっていないことに気づいて本当の「底」を求める場合もあるだろうし、またそれを利用して新しい権威を作ろうと画策する人もいるでしょう。

祝辞は、これから何十年かにわたって世界で起きようとしている文化の攪拌の中で、「私」を脱しながら生きる風景を強烈にイメージさせます。こういうふうに陳腐な「底」がどんどん通用しなくなる世界というのは、良いですね。

しかし、外の人間・文化と付き合う困難とスリルを本当に覚悟するのは、簡単じゃありません。たとえばイスラムの性差別とどう向き合い、どう折り合いをつけていくか。そこに、僕らの「底」を変える契機があるとはとうてい思えない。暗澹とするけれど、面白い。

>底(主体)が無い(隠される)

おとなしい大学院生何人かとつきあいながら、彼らは主体が無いのではなく、リプリゼンテーションが欠落しているのだな、と感じることがあります。「隠される」ことと「無い」ことは、イコールなのかもしれませんが、であるなら、主体とは深層を顕在化させる能力のことでもあって、それは第三の主体がたち顕れることに等しい。

僕は、主体を鍛える装置が作りたいと思っています。mixiのコメントスレッドは褒めあいで、2ちゃんねるは貶しあいだといいますが、どちらも主体をなまらせる装置。その反対の装置がないだろうか。カンブリアンは、爆発はしますが、まだ鍛える力がない。
2006年03月21日
13:16
安斎利洋
>sはシンメトリーですから、むしろアシンクロ。

倒置しても物語が変わらないのが、シンメトリーで、アシンクロ。
逆にすると物語が変わるのは、アシメトリーで、シンクロ。

物語が変わらないけれど、倒置するとイメージが現れる順番は変わる。

ABとBAが同じ物語でも、そのあとにCがきたとき、BCとACが違う物語を生起させる場合、AとBはアシメトリー、だろうか。

芭蕉が、連句の進展のタイプの中で、観音開きはいけない、と言っているのを思い出しました。AがBを生成し、Bが再びAを生成するような対称は俳諧の連歌では禁止されます。すると、連句はシンメトリーのABがあっても、BCのシンクロによって、アシンメトリーになる。連句の総体が、アシンメトリーになる。

(自問自答なんだか問いなんだか、よくわかりませんね)
2006年03月21日
14:34
H.耕馬
>その反対の装置がないだろうか。

そりゃ、「教育」っしょ?
主体を研ぐのが、本当の教育の使命なハズ。
2006年03月21日
23:44
安斎利洋
>主体を研ぐのが、本当の教育の使命なハズ。

「おい、おまえ、左足から袴をはけ」というような、主体を押さえ込むことこそ教育であるという向きもあります。
2006年03月22日
00:58
H.耕馬
あらま、安斎さんらしからぬ素直さ。

「主体を押さえ込む行動」と「主体を開放する行動」は、同じ結果を導くためのレシピでやんす。どっちを処方しても結果は同じ。逆にどっちを処方しなくとも結果は同じかも知れませんが。。。

「おい、おまえ、左足から袴をはけ」は、守破離の守ですから、立派に教育の一過程であると思われます。もしもそれが、主体をなまらせる行為だとすればそうなんでしょう。けれど、鉄も人間も、一度なまらせてからでないと鍛えられないのかもよ。
2006年03月22日
01:10
安斎利洋
この話の発端は、エキスパートシステムのような文法的な知識より、ニューラルネットワークやビスケットのようなコーパス型の知識のほうが、実は柔らかいんじゃないの?ということでした。なんで柔らかいかというと、左から穿けっていう知識は、右から穿くという知識によって全体を変革することができるからです。
耕馬さんが言うように、守が破に転じられればいいわけですが、でも世の習い事はたいてい一生涯左から穿くわけですよ。
2006年03月22日
01:21
お茶のお点前で逆勝手というのがあります。
中級以上の最初のお点前を一通り習った人がやるお点前で、
お床の向きやら何やらいつもと全く逆なので、お茶を点てる手以外は、足の運びから何から全て逆になります。
わざと逆にやることによって、慣れすぎてしまっている点前を見直すきっかけになるというか、すごくアタマを使うお点前なんです。
普通のお点前だとぼおっとしててもできるようになっていたりもするので。

というのを思い出しました。(またズレてますかね私)
2006年03月22日
01:29
H.耕馬
>でも世の習い事はたいてい一生涯左から穿くわけですよ。

センセイは一生「左から穿く」方法だけ教えれば良いです。
わざわざ、それの破り方を教えないと破れない人は、そこで終わり、という方法論だと思います。

iyori さんの、お茶の話は正直ビックリです。
それは「道」の、サービス産業化みたいです。
2006年03月22日
01:33
>「道」の、サービス産業化
でももう何百年も昔からある方法です。
2006年03月22日
01:35
H.耕馬
サービス産業は紀元前からありますので、大丈夫です。

あっすいません。
元の文脈(コーパス型知識)に戻して下さい。
2006年03月22日
01:46
安斎利洋
「逆勝手」いいですね。ほかの何かに応用できそうで。
ワークショップだよね。
2006年03月22日
12:02
N_apostrophe
アシンメトリーのABの後にシンメトリーのCが連続することによって、Cから見るとABがシンメトリーになってしまうという特殊な連続について。
この物語行為についてロブグリエの『嘘をつく男』に見られると指摘しました。(『難解物語映画』第2章の1参照ください。)
ジュネットが物語行為narrationと出来事histoireを区別したとき、物語行為の展開が出来事の完成に至らないことは予測できるのですが(プルーストの生涯が書き続けることによって不連続になる)、これをつきつめてゆく作家はあまり出ませんでした。
イスラムに触れた時の関心はこの延長です。描かないということの一つに展望を持たないというアイデアがあって、連歌や日本庭園の構造にそれを指摘している(持田公子)。
このような構造では、生きることに意味があるのではなく、生きることが意味のあることになる。
だから、イスラムの女性は差別されてはいないのです。むしろアメリカのポストフェミニストのように女だけの世界にいるのではないかとさえ思います。
「自由』とか「解放」って分かりにくくなりました。エゴに振り回されているだけなのかもしれない。しかもこのエゴは遺物化した「第三の主体」だと考えれば、解放される主体などはなから無いとも言えます。
2006年03月23日
02:03
さいきん、音のカンブリアンにいろいろトライしてみて
音楽もコーパス型の知識がデーンと構えた領域なんだと
しみじみ。
○○っぽくしたいと思っても、自分の中にそのジャンルの
フレーズ大全みたいなものがないと、すっごく陳腐なもの
しかできないでしょう?
そこでちょっと音楽理論のようなものを読んでみても、
あまり意味ないし。

おもえば、昔の日本では、お三味線の先生とか (もちろん
ピアノの先生も) 間違えるとお手手をバチっとたたかれ
たりしたわけですし、きっと、これはどの領域でもコーパス
を獲得するのは、ある意味「袴は左から穿け。いいから穿け」
が共通の方法だということかなと。

2006年03月24日
01:26
安斎利洋
> このような構造では、生きることに意味があるのではなく、生きることが意味のあることになる。

この思想は、人工生命の思想を想起させます。生命の意味を探るのではなく、生命そのものが意味であるから、情報機械としての生命を作ることによってその本質を明らかにしようという思想。僕も、自分の根底はここにあると考えています。

> 描かないということの一つに展望を持たないというアイデアがあって、
> 連歌や日本庭園の構造にそれを指摘している(持田公子)。

これは『芸術記号論』で言及されているのでしょうか。これはカンブリアンと関連させて僕も考えなくてはならないような気がします。

句Aには句Aというスコープがあり、句Aと句Bの連携によるスコープがある。同じくBとCのスコープがある。さらにABCDE...と連なるシーケンスのスコープがある。そのようにスコープ(あるいはフレーム)が多重に入れ子や重なりになった構造のなかで、無数に不連続が発生し、スコープの切り替わる周辺で転調が起こる。作品というフレームの解体と、「難解物語」の発生は密接なのではないか。

中川さんの本と、何日か時間をかけて向き合わねばならないと思っています。そう思ってさっき帯を見たら、映像リテラシーの指導者に向けた教科書なんですね。真摯な意味でまったくそうあるべきだと思いながら、冗談のようにも聞こえますね。
2006年03月26日
10:58
N_apostrophe
>冗談のようにも聞こえますね
笑いました。安斎さん、お互いメジャーの粗野に傷つくのをやめて真顔で行きましょう。

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